時が流れるのは早いもので、あれから一ヶ月は経った。
その間、カカシさんは、俺を見る度に何か言い出したそうな顔をした。何か話そうと、俺を呼び止める。受付所で顔を合わせる度に、飲みにも誘われた。
けど、カカシさんの顔を見る度、俺は自分の思いを押さえ切れなくて、無邪気に俺に話しかけてくるカカシさんの言動が辛くて、逃げた。
カカシさんの任務表を盗み見て、受付の時間をずらし、アカデミーを優先させた。
一緒に住んでいた時間のことを覚えているのか、覚えていないのか、それさえも分からないまま、俺は頑なにカカシさんを避け、逃げた。
それを繰り返す内、だんだんとカカシさんと顔を合わすことはなくなり、一ヶ月も過ぎる頃には、カカシさんは俺と会っても声を掛けなくなっていた。
これでいいのだと、自分で言い聞かせた。
時折、戸惑うような、疑問を投げかけてくる視線を感じることがあったが、俺はそれに向き合うことができなかった。
向き合ったら最後、俺とカカシさんは本当に終わってしまう。そればかりか、あの日々さえも消えてしまう。
捨てられた女が思い出を捨てられないように、俺もまた、楽しかった日々を捨てられずに、女々しく過去に縋りついていた。
そして、何というか……。






「おう、イルカ! 飲んでるかぁ?! 盛り上がっているかぁ! 青春だ、青春だぞッッ」
「ちょっとアスマ、例のアレはどうしたのよ。約束と違うじゃない」
「仕方ねーだろうが、面倒くせぇな…」
「何よ、その言い草は! 口癖だからってね、言って良いときと悪いときがあるのよッ」
ダンッと上忍の力で思い切りコップと卓袱台を衝突させられ、俺は悲鳴をあげる。あぁ、俺の大事な家財道具が!! いまどき、丸い卓袱台は高ぇんだぞ! 薄給の俺が買える品物じゃないんだぞ!!
ハラハラする俺を尻目に、紅先生はじとりと俺を見つめてくる。
「それに、わたしはイルカ先生にはじぃ〜っくり聞きたい話があるのよねぇ。あぁ、嫌だ、嫌だ。ここにいる男は自分の言葉さえも守れないような、屑どもだったのかしらねぇ…」
ちくちくと急所を攻めてこられ、俺は顔も上げていられない。
そうだ。そうなのだ。俺はここにいる方々の前で言ってしまったのだ。宣言してしまったのだ。
大口叩いている手前、普通なら顔を合わせたくないところだが、これが上忍のカリスマというものなのか、俺はそういう気にならなかった。
そればかりか、カカシさんという縁が切れたのにも関わらず、こうやって度々飲み会 …というか、俺の汚い狭い、ばっちいだけの部屋に乱入して、色々と気にかけてくれる方々に感謝する一方だ。






「……面目次第もございません…」
しゅうんと小さくなって俯けば、隣のガイ先生がばしぃっと背中を叩いてくる。
「何だ、イルカ。何かしでかしたのか?! 元気出せ、生きていれば何だって出来るぞッ」
激励の張り手にもんどりうって痛みに呻いていれば、お冠だった紅先生が上機嫌な声をあげた。
「あら、ガイ。あんたたまには良い事言うじゃない。そうよねぇ、まだ終わった訳でもなし、イルカ先生には頑張ってもらわないと」
ぐびっと喉を鳴らしながらこちらに視線を向ける紅先生に、俺は眉根を下げる。
そうできたらどれだけいいんだろう。でも、全ては俺の気持ちの変化が招いたことだ。
誰よりも側にいたいのに、側にいられない。
俺が望んでいることは、カカシさんが望んでいることじゃないのだから。
うにょりと目前の視界に歪みが入り、慌てて上を向く。
そんな俺を見て、紅先生は深いため息を吐いた。呆れた調子が入っているそれに、びくりと身を竦ませる。
「……あぁ、もぉ……。本当にあんたらどうしてやろうかしら。まったく、イルカ先生は先生で、妙に弱気になっちゃうし、カカシはカカシでドジ踏むし……」
「おい」と小声で咎めたアスマ先生の言葉が遠く聞こえた。今、なんて。






「ど、どういうことですか?! 受付じゃ、そんな情報、一度も聞いたことありませんよッ」
情けなくも声がひっくり返りそうになる俺に、紅先生は鼻で笑う。
「そりゃ知らなくて当然よ。カカシは里の担い手よ。そんな奴が弱っていることを誰もが知ってちゃ都合悪いでしょ。写輪眼のカカシが怪我だなんて、命が幾つあっても足りない」
今更ながらに知った、カカシさんの上忍としての名に、震えがきた。
俺といたカカシさんはいつも穏やかだったから、忍としてのカカシさんをすっかり忘れていた。
俺たち忍びはいつ命を落としてもおかしくないのに。
昨日笑い合っていた身近な人を、一瞬で失う現実を知っているのに。
カカシさんはいなくならないと、根拠もなくそう思っていた自分に吐き気がした。
「カ、カカシさんは今何処にいるんですか?! 状態は?! 無事なんですか?!」
手足の先が冷たく痺れてくる。言い知れぬ不安に鼓動が跳ね上がった。
言葉を紡ぐことさえもどかしく問いかければ、紅先生は興味なさそうに、綺麗に塗られた赤い爪を眺めていた。
「ん〜、どうしようかしらね。カカシがまともになった途端、手の平変えて距離を置いちゃうんだもん。イルカ先生の本気って信じられないわー」
「おい、紅」
紅先生の言葉が突き立つ。顔を上げていられなくなって俯いた。
確かに、何を言われても仕方ない。でも、だけどー
「――お願いです。どうか教えて下さい、何でもしますからッ」
畳に額を押し付け懇願した。
恥も外聞も打ち捨てて、何度も擦りつける。止せと横からアスマ先生の手が伸びてきたが、それを跳ね付け、土下座を続けた。
「…忍が『何でもします』って言うのはいただけないけど…。まぁ、その心意気に免じてあげるわ」
ため息交じりに聞こえた声に、顔を跳ねあげる。
視線の先には、苦笑いを浮かべていた紅先生がいた。
「カカシはイルカ先生と暮らした家にいるわ。自分の持ち家がある癖に、まともになってからも、ずっとそこで暮らしているの」
紅先生の言葉に、涙腺が壊れそうになった。
カカシさんは俺がいない間も一人であそこにいた。あのとき、俺の帰りを待ってくれたように、今もずっと待っていてくれているのだろうか。
自惚れるなと叱咤する声が聞こえる。でも。
「すいません!! 俺、出掛けます」
廊下で待つ男の姿が浮かび上がった瞬間、居ても立ってもいられず、玄関に向かった。
後ろから頑張ってこいと声がかかる。それにすら振り返らず、扉から飛び出し、アパートの手すりを飛び越え、道路に出た。






外灯が照らしだす道をひた走る。
カカシさん。カカシさん。カカシさん。
いろいろな思いがぐちゃぐちゃに混じり合う。
それは後悔だったり喜びだったり、自分の不甲斐なさだったり、楽観的な希望だったり、色々だ。
歪む視界を腕で擦り、全力で走る。
町の端っこにある、俺とカカシさんが暮らしていた平屋の家。駆ける足が遅く感じて、息をすることすら惜しくて、全ての力を両足に込めた。
駆けて、駆けて。記憶にある家を目に収めた途端、体が震えた。
一ヶ月しか離れていないのに、懐かしく、温かい感情が沸き起こる。よく今まで離れられていたものだと、自分の鈍感さと馬鹿さ加減が、歯がゆくてたまらなかった。
軽い貧血で倒れそうになる体を踏ん張り、格子戸の前に立った。
もう逃げない。
隠さないで本当のことを話す。それで離れるならそれまでだ。でも、心を込めて言う。だから―。






「―カカシさん!!」
思いを込めて名を呼んだ。
家に灯りはともっていない。中から気配も感じられない。けれど、すぐ側にいる気がして、俺は疑いもせず声をかけた。
「うみのイルカです。お願いです、俺の話を聞いてください。お願いしますッ」
格子戸を見詰め、返事を待つ。
ここに立ったのは、火影さまから任務完了と言われた時以来だ。あのとき、格子戸は夕焼けに照らされ、長い影を地面に落としていた。今は闇に没している。
物音一つしない闇の中、俺の呼吸音だけが響く。
焦れるもどかしさを抑え、じっと待っていると、小さな声が聞こえた。
「……何?」
思ったより間近で聞こえた声に、奥歯を噛みしめる。
気配はしない。でも、格子戸一枚隔てたところへカカシさんはいる。
格子戸に手を当て、額を押し付ける。
「カカシさん。怪我したって聞きました…。大丈夫ですか?」
まずは心配だった怪我の状態を聞いた。
家で休養できるくらいだから、あまりひどくない状態だと思いたい。
願うように声をかけた言葉に、カカシさんは聞き取り辛いほど小さな声で「平気」と呟いた。詰めていた息がようやく吐けた。
「……用はそれだけ?」
出し抜けに問われ、夢中で首を振った。
カカシさんには見えやしないのに、俺は首を振って声を張り上げる。そのまま奥に引っ込んでしまいそうな危機感を覚えて、悲鳴のような声をあげた。
「違います! 俺、もう一度、いいえ、これからずっとあなたと一緒に暮らしたいんですッ。あなたと一緒に生きていきたいんですッ」
一つ息を吸って待ったけど、カカシさんから反応はなかった。
それでもくじけずに、声を張り上げた。今、夜中だとか、近所迷惑だとか全く考えもせず、カカシさんに語った。
「俺、一ヶ月前までカカシさんとここで暮らしていたんです。覚えてないかもしれませんが、カカシさんは術にかかって自分を犬だと思い込んでいました。それで、俺が世話係という名目で一緒にいました。あなたといるとすごく温かくて、愛しくて、俺、本当にカカシさんが幸せになればいいと思っていました。出来ることなら、俺があなたの幸せを見つけてやりたいと僭越ながら思っていました。でも…、でも!!」
息を吸う。
これから告白するのは、己の汚い欲望だ。
これまでの日々を黒く塗りつぶしてしまうかもしれない、取り返しのつかない言葉。
それでも、後悔はしたくない。
綺麗なものが一瞬にして汚泥となり変わっても、それでもカカシさんがここにいることを考えれば、きちんと俺は言わなければならない。
――勇気をください。あのとき背を押してくれた強さを、感情のひとかけらでもいいから、俺に力を貸して。
瞼の裏、懐かしい面影が浮かんで消えた。
格子戸に両手をつき、顔を上げる。






「俺、カカシさんのことが好きだ。カカシさんに口付けしたい。カカシさんに恋愛感情抱いているッ。……俺がカカシさんを避けたのは、俺が邪な思いを抱いているから。綺麗な思いを抱けなくなったから。だから、話せなくなった。――恐かったんだ、俺ッ。カカシさんに拒絶されるのが、俺を否定されるのが、恐くて……」
鼻がツンと痛む。
中から声は聞こえてこない。
「カカシさんが俺を気にしてくれて、本当は嬉しかった。何度も声をかけてくれて、俺、堪らなく嬉しかったんだ。なのに、ごめんなさい、カカシさん。無視したりして、ごめんなさい」
一歩後ろに下がり、姿勢を正して地面に正座した。
開かない格子戸を見詰め、震える声を叱咤し、腹に力を入れる。
「最後に言わせて下さい。嫌なら断って下さい。これで蹴りをつけるから、未練なんて断ち切るから、最後に言わせてください」
そのまま頭を地面にこすりつけた。
「お願いですから、俺を側に置いてくださいッ。あなたを一生幸せにする権利を俺に下さい」
目を瞑って、念じた。
お願いだ、カカシさん。お願いだから俺を受け入れて。俺、あんたの為なら何でもするよ。あんたが笑ってくれるなら、何でもするから!
歯を食いしばって返事を待った。断られたらどうしようなんて思う暇もない。
ひたすらにカカシさんが受け入れてくれるように願うしかなかった。
どれだけそうしていたのだろう。気付いた時には、体が引き起こされ、温かいものに包まれていた。
銀髪の柔らかい髪が頬をくすぐる。
大きな手が背中に回り、固い胸板が痛いくらいに密着している。






「カカシさ」
抱かれていることが信じられなくて、顔を見せて欲しくて、肩に手をかけた瞬間、柔らかいものが口に押し付けられていた。
あ、と思う間もなく、口内に入り込んできた舌に翻弄された。噛みつくように深く食いつかれ、舌を絡めたと思ったら、口内を擽られ、舌を啜られる。
めまぐるしく動き回る舌に、息も絶え絶えになっていれば、ようやく顔が離れた。
酸素を欲していた肺が膨らむ。苦しくて涙目になった目を瞬かせれば、視界の下で銀色の髪が揺れた。
気付けば、俺は地面に仰向けに倒れていて、その腹にカカシさんが乗っかっていた。俺の胸に顔を伏せ、両手でしっかりとアンダーを掴んでいる。
呼吸がようやく整ってきたのを機に、カカシさんの頭に手を置いた。
最初はびくりと震えたけど、カカシさんは嫌がる素振りを見せない。そのまま指を髪に差しこんで、驚かせないように小さな声でお願いした。
「カカシさん。顔、見せて下さい」
ぶんぶんと首を横に振るカカシさんに苦笑してしまう。
「お願いですよ。俺、カカシさんの返事、まだ聞いていませんし、顔見て聞きたいんです」
「…あれが、返事ですっ」
ぶっきらぼうに小さく放たれた言葉に笑いが零れてしまった。
期待してもいいんだろうけど、大事なことだからきちんとカカシさんの口から聞きたい。
「顔を上げたくない理由も分かりますけど。それじゃ俺、性欲処理の道具かなって勘違いしますよ?」
「違いますッ。そんなこと一度も思ったことありません!!」
悲痛とも言える声を放ち、顔を上げる。そこには思った通り、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔があった。
あまりな顔に思わず吹き出してしまう。
ばっちいやらブサイクやら、とにかくひどい顔だ。
「ひ、ひどいです、イルカ先生! 意地悪なこと言ってッッ」
ツボにはまって笑う俺の胸に一発入る。
さすが上忍という力の入れ具合で、笑っていた顔が瞬時に歪んだ。
「わ、先生、ゴメンッ。大丈夫? 大丈夫?!」
カカシさんは手の平で叩いてきたのに、ダメージを食らう己の体が情けない。
「だ、大丈夫ですよ。それより、カカシさん」
重く痺れる痛みを無視し、俺は上半身を起こす。
胡坐をかいた足の間に座るような格好でカカシさんと向き合い、流れっぱなしの涙と鼻水を袖で拭ってやった。されるがまま大人しくしてくれるカカシさんの顔がようやく綺麗になったところで、俺は口を開く。






「返事、聞かせてくれませんか?」
俺の言葉に、カカシさんの瞳がじわりと潤む。
灰青色の瞳と赤い瞳が、聞かなくても分かっている癖にと、詰るようにこちらを睨んできた。
それでもお願いしますと、両目を覗きこんでいれば、ようやくカカシさんは折れてくれた。
「……返事なんて始めからないです。一緒に行こうって、オレのこと幸せにしてくれるって言ったの、イルカ先生じゃないですか。オレは、ずっとここで待っていたんです。イルカ先生が帰ってくるの、一人でずっと待っていましたッッ」
カカシさんの言葉に、咄嗟に声が出なくなる。
カカシさんは俺と一緒に過ごした記憶を持っていた。
カカシさんは俺を待っていてくれた。たった一人で、二人で過ごしたこの家で、疑いもせずに俺の帰りを待っていてくれていたんだ。
勝手に距離を空け、離れていった馬鹿な俺を、カカシさんは信じて待っていてくれたんだ。
俺もカカシさんを信じれば良かっただけなのに。
そんな簡単なことを、俺はできなかった。






声も出せずに泣く俺を、カカシさんが心配そうに覗きこむ。
心配をかけさせたくなくて笑おうとしても、しゃくり上げることしかできなかった。
「先生、泣かないで。先生、帰ってきてくれたじゃない。オレの側にいるって言ってくれたじゃない。それだけで、オレ、幸せだよ。先生、オレも大好きだよ。ずっと一緒にいて、ずっとオレの側から離れないで」
頭を撫でて、零れる涙を舌で舐めとって、頬を擦り寄せて俺を慰めてくれた。
名前を呼びたくて、でも胸がつかえて言葉が出なくて、それでも思いを伝えたくて、カカシさんに抱きついた。
首筋に顔を押し付けて、脇から両手を突っ込んで背中にしがみつく。
「分かっているから泣かないの」と湿った声で髪を撫でてくれるカカシさんに頷きながら、涙が枯れるまでずっと抱きついていた。










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けもみみしっぽ4