気絶するように眠りこんだイルカの顔を眺め、髪を撫でた。
この髪に触れたかった、口付けをする日をずっと夢見ていた。
念願叶って触れることのできた黒髪は、オレの想像よりも遥かに艶やかでコシがある。
髪の一房を手に取り、口付けてその感触を楽しんだ。イルカは目覚めそうにない。
イルカへの恋心を自覚してから、何度もイルカを抱く夢を見た。
夢の中のイルカのように卑猥な言葉も、妖艶な笑みもなかったけど、何もかも初めてですと泡を食って反応を見せるイルカは可愛かった。
もうやだと泣くイルカに煽られて、少々無理をさせたかもしれない。
目の下を少し腫らせ、寝息すら立てずに眠るイルカに微笑み、そっと耳元へ囁いた。



「オレとイルカ先生ね、昔、ご近所さんだったんですよ?」
当然だが、眠っているイルカからは反応がない。
仕方ないとは分かっていながらも、イルカが知りたがっていたことを話しているのに、無反応なのが少し寂しくて、イルカの鼻を抓む。すると、途端に苦悶の表情を浮かべた。
眉間に皺を寄せる様が可愛くて、笑いが零れ出てしまう。
イルカは覚えていない。その記憶はオレが封じた。
うんうん唸り始めたイルカの鼻から手を退け、代わりに鼻先へ口付けを送る。
再び安らかな眠りに旅立ったイルカのおでこを撫でながら、昔のことを思い返した。



昔。
オレが中忍になる前の話だ。
そのときはまだ親父も健在で、オレと親父とは、庭付きの一軒家に住んでいた。その隣の家に住んでいたのがイルカだった。
悪ガキといった言葉がよく似合う子供で、子供らしい無鉄砲さ故か、隣近所に悪戯をしては、両親に叱られ、泣きながら謝まる姿をよく目撃した。
親父は、子供らしいイルカに好感を持っており、壁に落書きをされるなどの悪戯をされても笑って許し、そればかりか、叱られて、一人庭の隅っこで泣いているイルカに、こっそりとお菓子をあげて慰めていた。
 イルカは、お菓子のおじちゃんと言ってはオレの親父を慕うようになり、最初はお菓子目当てで、続いて歳の近いオレを発見してからは、オレと遊びたがるようになった。
まだ中忍になっていないとはいえ、すでに忍びとしての自覚と、強くなるために修業をし始めたオレには、てんでガキであるイルカに構う時間も余裕もなかった。
親父はどうもオレとイルカを友達にしたかっていたようだが、あからさまな態度で拒絶するオレを見て、親父はオレに代わってイルカの相手をするようになった。
だが、心身共にすり減る高ランク任務に出ている親父の、貴重な休みを近所のガキの相手に費やす現状にオレが堪え切れず、結局はオレがイルカの相手をするようになった。
今、考えれば、それは親父の作戦だったのかもしれない。



とにかく、両親とも忍びで、一人で過ごすことが多かったイルカは、両親が不在になるとオレの家にやってきた。
そして、馬鹿面下げてこう言うのだ。
「カカシちゃん、あーそぼっ」
嫌な顔をして出迎えたオレを気にもせず、イルカは家に上がり込むなり、色々と仕出かした。
床や壁に落書きしたり、勝手に棚の引き出しを開けては中身をひっくり返したり、食器類を盛大に割ったり。
あのときのオレは、イルカのお守りというよりは、イルカの暴走を止めるために後を追い、何かをしでかした後の尻ぬぐいをしていた。
なかでも衝撃的だったのは、イルカが何か目に見えない物を追いかけて、窓ガラスに激突し、顔を切って血塗れにしたことだ。
さすがにあのときは血の気が引き、動揺して泣いてしまった。
一方のイルカは最初こそ泣いていたものの、滅多に感情を動かさないオレが泣いた姿を見て逆に冷静になり、血塗れのままオレを慰めてくれた。
帰ってきた親父がその現場を見て、事態を収拾してくれたが、何かあると親父はこのときのことを笑いながらオレに言ってきた。
「あのときのカカシは、本当に可愛かったよ」と、優しく、オレを見つめた。



イルカの両親は、自分たちが不在の時、イルカの面倒を見てくれるオレに深く感謝していた。
オレは見たくて見ている訳ではないと何度も言ったが、親父が裏で「カカシは恥ずかしがり屋で」などと吹聴したせいで、オレの言葉は全く届かなかった。
親父も親父で、「イルカくんのことはカカシに任せてください」と言っていたものだから、ますますイルカはオレの家に来るようになった。
遊ぼうと言いながら、イルカは物を破壊することに専念し、それをオレは阻止した。
早く親父のように強くなって、親父の手助けをしたいと望んでいたオレには、イルカはとにかく邪魔な存在だった。どこか知らない山奥に連れて行き、置き去りにしたいと何度思ったかしれない。
だが、オレの苛立ちもある日を境に消えてなくなった。



親父が使役していた忍犬の一頭が歳を取り、引退した。人の言葉を話し、賢く博識であったその犬は、番犬としてオレの家で暮らすようになった。
名前はシロ。
名のように白い毛並みを持ったその老犬は、とにかく我慢強く、そして優しかった。
シロが家に来てから、イルカは新しい住人に夢中になった。
最初こそ悪戯をしてはシロを困らせていたようだが、何をしても怒らず、じっと我慢してイルカのすることを見ているシロに何かを感じたのか、イルカの悪戯は影を潜め、シロの側にいる姿を度々見るようになった。
オレの家に来る理由が、オレからシロに代わり、オレは喜んだ。これでイルカに邪魔されることはなく、思い切り修練に励めると清々したはずだった。



なのに。
修練を終えて家に帰る度に、シロとイルカが二人でいる姿を見ると、何故か胸の内がもやもやした。
イルカがシロに話しかけ、笑い、嬉しそうに抱きつく姿が不快で堪らず、オレはイルカを見る度に嫌味を言うようになった。
イルカの背が小さいことを馬鹿にしたこともある。両親が忍びの癖に、まだ忍術アカデミーにも行けないイルカは落ちこぼれだと、笑ったこともある。
前までのイルカだったら、泣いていた。カカシちゃんのバカと言って、泣きじゃくって家に逃げ帰っていたのに。
イルカは泣きも、反論もせず、ただじっと我慢していた。
真っ赤な顔で、小さな手を握りしめて、イルカは歯を食いしばって感情を押さえ込んでいた。
面食らったのはオレの方で、あれほど傍若無人に悪戯をしまくっていたクソガキが、冷静を保とうとする姿にただただ驚いた。
「カカシ」
シロが小さくオレの名を呼んで、急に身の置き所がなくなった。何かを言い含めたその調子にばつが悪くなって、オレは逃げた。どちらがガキか分からないと、自分でもその行動を恥じた。
オレが家に入るなり、外からイルカの押し殺した泣き声が聞こえた。
シロに顔を押し付けているのか、くぐもった泣き声の合間に、「よく耐えた」「イルカはえらい。きっといい忍びになれるぞ」と、シロの声が聞こえてきた。



その時から、イルカのことが気になった。
修練は毎日したが、それと同じようにイルカのことをこっそり観察するようになった。
イルカがシロと一緒にいるのは、遊ぶだけじゃなく、忍びとしての基礎を教えてもらうためでもあるようだった。
イルカは何も出来ない子供で、足運びや呼吸法の一つも満足にできない、ただの子供だった。
時折、出来ないことに癇癪を起して泣いたが、シロは辛抱強く宥め、そして、イルカも必死に忍びの基礎を学んだ。
後にシロから聞いたところ、イルカはずっと忍術を教えてもらいたかったそうだ。
悪戯をしていたのは、以前、悪戯を仕掛けた人がいて、その人の悪戯を、忍びの技を使って回避した人を見たからのようだ。
悪戯をすれば忍びの技を使う人を見つけることができると信じ、その人に忍術を教えてもらおうと考えたらしい。
両親に教えてもらえと、始めシロはそう言ったのだが、両親共に忍びで、留守が多く、忙しそうな二人に頼むことは気が引けたみたいだった。立派な忍びになりたいと言うイルカの熱意に打たれ、シロは忍びの基礎を教えることにしたらしい。
時折、オレも顔を覗かせ、忍びの技を教えてやってもいいと告げたが、その頃にはオレは、嫌味ないじめっ子という認識がなされており、頑なに拒否された。
オレもそのときはまだてんで子供で、イルカの隠しもしない嫌悪の言葉が頭にきて、イルカが泣くまで罵倒した。シロが止めろと割って入っても悪口を言い続けた。
今、思えば、若気の至りというやつだ。
そこで終わればいいものの、オレも懲りない性格のようで、たまにふらりと現れては、イルカに教えてやってもいいと告げ、それをイルカが拒否し、頭にきて罵倒するというサイクルを何度も続けた。
そのうち、イルカはオレの顔を見るだけで逃げるようになった。当然面白くなくて、オレはイルカを追いかけ、追い詰め、その度にシロがイルカを助けに現れた。
オレとイルカの関係はおもしろいほど険悪になり、反対にシロとイルカの仲は反比例するかのように親密になった。



そして、あるとき、イルカはオレに言ったのだ。
毛嫌いを通り越して、拒否反応すら出始めたオレの前に立ち、真っ青な顔で土下座をしてきた。
曰く。
「シロさんを僕にください。幸せにします」
とのこと。



始め、イルカはシロを飼いたいと言っているのだと思った。当然、元忍犬であったシロは、親父と契約を結んだ関係柄にある。第一線から退いたとはいえ、契約はまだ生きており、イルカを飼い主にすることは無理だった。
だから、オレは言った。
「お前、バカじゃないの? 元忍犬を飼い犬にしようなんて無理に決まってるでショ。お前にはそこらで売られているバカ犬がお似合いだ。両親に泣きついて、買ってもらえ」
しっしと手を振り、追い払うように言ったオレ。
だが、このときのイルカは、大の苦手なオレに怯みもせずに顔を上げ言い切った。
「シロさんじゃないとダメ! シロさんと僕は結婚するんだからっ」
と。
空いた口が塞がらないとはこのことだ。
シロがメスだったこともこの時知って驚いたが、シロを見れば、シロもまんざらではないような顔をして、イルカを見つめているから、頭が痛いどころではない。
「シロさんとの結婚をみとめてください」と、地面に額を押し付け、懇願するイルカの姿は今でも覚えている。
何度も何度も、オレに向かって頭を下げ、許しを乞うイルカに言葉が出なかった。
結局、その後に帰ってきた親父が、茫然としているオレの前で土下座を繰り返すイルカを見つけ、事態を収拾してくれた。
このときのことも、親父は事あるごとにオレに言ってきては、オレを赤面させた。
「あのときのカカシ、本当に困っていたな」と。
あの話が出る度に動揺するオレをからかっては、嬉しそうに目を細めていた。



イルカの真っすぐに語るシロへの愛の言葉と、シロの満更でもない態度を見て、親父は言った。
「結婚は無理だけど、婚約なら許そう。イルカくん。君が大きくなって、立派な忍びになって、シロを守れるようになったそのとき、結婚を許すよ」
親父の言葉は巧妙だった。
歓声をあげて喜ぶイルカに、オレは内心毒づいた。
シロは老犬だ。イルカが一人前の忍びになるまで生きられる訳がない。
色艶が格段に落ちてきたシロの毛並みを見、イルカにそのことを告げようとすれば、シロがオレに視線を投げかけてきた。
黙っていて欲しいと。今は夢を見させて欲しいと、懇願してきたシロに、オレは衝撃を受けた。
シロは優秀な忍犬だった。
親父がもっとも信頼し、命を躊躇いなく預けるほど、忍びとしても優秀だった。
そのシロが、親父の残酷な嘘に、イルカの荒唐無稽な願い事に、騙されたいと望むなんて。
オレよりも、よほど忍びとしての経験と知識を持つシロが、こんな戯言に付き合うなんて理解ができなかった。



親父から了承をもらったイルカは、手作りの首輪をシロに、シロはイルカに四つ歯のクローバーをあげた。
二つとも、みすぼらしくてちっぽけで、紙で作った首輪は数日で汚れて壊れるだろうことは分かったし、シロが贈った四つ葉のクローバーなんて、探せばどこにでもあるし、がさつなイルカがあんな小さな物を取っておける訳がないと確信していた。
オレの予想通り、イルカとシロが交換した物は、数日で見かけなくなった。それでも二人はいつも一緒で、忍びの基礎を学ぶ時間以外は、仲睦まじく寄り添っていた。



けれど、それもわずかな時間だった。
ある寒い夕暮れ時。
年老いて体力のなくなったシロが風邪を引き、看病の甲斐もなく息を引き取った。
親父も任務で、その日はオレしかいなくて、オレがシロの最期を看取った。イルカはアカデミーに通い始めた頃で、シロの死に立ち会うことはできなかった。
シロの呼吸が小さく、弱くなるのを見守りながら、オレはシロの最期の言葉を聞いた。
親父とオレに礼を、長い間世話になったと、親父に仕えたことを誇りに思うと。そして、
「イルカに、伝えて。幸せだったと。残されたわずかな時を、あなたと共に過ごせて、私は幸せだった」
年老いて、ほとんど見えなくなった白みがかった瞳を細め、シロは小さく吠えた。
それきり、シロは動かなくなった。



イルカがアカデミーから帰り、息せき切ってオレの家に現れた時のことは忘れられない。
オレの前には、横たわったまま動かないシロがいて、それを目にしたイルカはひどく顔色が悪くて。でも。
イルカは笑ったのだ。
たかだかアカデミーを通い始めた子供のイルカが、震える頬を無理矢理引き上げ、ぼろぼろと涙を零しながら、懸命に笑みを作った。
笑みの理由は、イルカがシロに語りかけた言葉で知った。
「シロと約束した通り、僕笑うよ。笑って、シロを送るよ。シロが大好きって言ってくれた笑顔で、さよなら言うからね」
涙も鼻水も拭くことすらせずに、イルカはシロに「さよなら」と言った。
笑みを作りながら、ぼろぼろと涙を零し、声を引きつらせながら、イルカは冷たくなったシロを抱きしめ、「大好き」「ありがとう」「さようなら」と繰り返し繰り返し、言葉を紡いだ。



日が没し、夜が訪れて、イルカの声が途切れた頃、ようやくオレはイルカを家に連れて入った。
シロの亡きがらは、その場で燃やした。忍犬も忍びだ。その身には、他里に渡ればまずい情報がごまんと宿っている。
意外なことに、シロに火をつけたオレを、イルカは非難しなかった。オレの隣で、シロが灰になるまで、黙って見つめ続けていた。
たぶん、シロがあらかじめイルカに教えていたのだろう。自分の身は、忍びと同様に欠片も残されない、と。その理由と重要性を、事細かに説明して。
その日、イルカの両親が不在だということは知っていたから、オレはイルカを風呂に入れ、ご飯を食べさせ、一緒の布団に入れてやった。
柄にもなく、大人しいイルカに調子が狂ったと、そのときのオレは必死に言い訳をしていた。
隣で眠るイルカは小さくて、触れたら消えそうで恐かった。だから、その体を引きよせて、いつかイルカがシロにやっていたように抱き寄せた。
途端に、イルカの体は小さく震えて、華奢な腕がオレの背に縋ってきた。顔を胸に押し付けて、必死に泣くのをこらえるイルカが健気で、ひどく甘やかしたい気分にさせられた。
だから、言った。
シロは灰になって星になったんだよ、と。星になったシロから、今だけイルカを隠してあげるから、泣いてもいいよ、と。
イルカはオレの言葉に、一つ息を飲み、何度も頷いて、小さく泣いた。
シロシロと名を呼びながら、大粒の涙を零すイルカの頭を撫でながら、イルカが泣き止むまで、オレはずっと抱きしめ続けた。



そのときに、はっきりと思った。
シロが羨ましいと。
オレが死んだ時も、こうして誰かがイルカのように泣いてくれないだろうかと。ただ一途に、オレの名を呼び、涙を零してくれる誰かが欲しいと、そう思った。
それから、イルカは頻繁にオレの家に遊びに来なくなったが、険悪な仲だったオレたちもそれなりに親しくなった矢先のことだった。



親父が起こした事件が切っ掛けで、オレと親父は家を出ていくことになった。
親父に対する誹謗中傷が激しく、里の全てが敵となり、町中に住むことができなくなったためだ。
当時、イルカと両親は、引っ越すオレたちを必死に止めてくれたが、イルカたち家族にも被害が及ぶことを恐れ、親父と相談した後、オレはイルカたち家族の記憶を操作した。
隣に住んでいたのは、あまり家にいない外回りの忍び。その家には一匹の犬がいた。
オレと親父の印象を最大限に薄め、犬のシロがいた事実だけを、イルカたち家族に残した。
これから仲良くなれると期待していただけに、イルカの記憶からオレが消えることはひどく寂しかった。けれど、甘いことを言っていられなかった。
親父への中傷は日を追うごとに増し、とうとう親父は自ら命を絶ってしまった。
オレは一人になり、後見人にミナト先生がついてくれた。そのミナト先生の元でスリーマンセルを組んだが、それも直に終わり、九尾の事件が起きた。
先生は里を守りきって死に、そして、一人になったオレは、暗部へと入った。

















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カカシ先生の視点+回想です。





けもみみしっぽ6