「お願いだから、頼むよ!」
 何なら一楽を奢ってもいいと、縋りついた俺に返ってきたのは無情な一言だった。
「イルカー、残業くらい一人でやれって。どんだけ寂しがり屋なんだよ」
 呆れた顔で俺の手を払いのけ、同僚はそそくさとかばんを持って出入り口へと進んだ。
「違うって、違うんだって! 決して寂しくてお前を引き取めているじゃないんだよっ、だって、あれが、あれが……!」
 追い縋り引き留めようとする俺に振り返り、同僚は厳しい顔を見せた。
「何が違うんだよ。もういい加減一人でやってくれよ。今日こそはオレ帰るからな。んじゃ」
 最後の言葉と同時に、鼻先でドアが閉まる。
 待てよとドアに手をかけようとして体が固まった。ぞくりと全身に走った、覚えのある悪寒に息を飲む。
 ここ一週間ほど、ずっとあった気配。だが、その存在に気付いた時よりも、今は重く暗く痛い。
 その気配が俺を見つめている。あの、何もない空洞のような眼で俺を見つめている。
 生唾を飲もうとして体が凍り付いていることに気付いた。声は出ず、指も動かず、唯一動かせるのは両目だけ。
 助けを求めようにも同僚の気配はどんどんと小さくなっていき、ついには捕らえられない場所まで行ってしまった。
 しんと静まり返った職員室の中、息を殺して相手の出方を窺った。
 ざわざわと体が何かを嗅ぎとり、俺へと異常を伝えてくる。途端に職員室の温度が下がり、俺の吐く息が白く染まった。
 寒さだけではない震えが走る。
 職員室の電灯がちかちかと明滅し、目の前の扉に映る俺の影が消えては現れた。
 粘つく汗が顎を伝う。そのときだった。
 背後から音が聞こえた。湿り気の帯びた、何かが床を這う音。
 それはゆっくりと、だが、確実にこちらへ向かって迫っている。
 音は小さい。けれど、俺に近づいていることを知らしめるように、その音は徐々に大きく耳へと響く。
 鼓動は大きく打ち鳴り、息もそれに従って荒くなる。所構わずわめきたい。だが、声は喉に張り付き、呼気だけを口から吐き出す。
 瞬きさえできない中、滝のように流れる汗が目に染みた。
 背後の気配がぴたりと止まった。すぐ後ろ。一歩下がればぶつかってしまうだろう距離感。
 このままでは捕まってしまう。
 瞬間浮かんだ思いに呼応するかのように、気配が揺れ動いた。はっはっと小さく荒く、嬉しそうな息づかいが聞こえてきた。
 恐怖に視界が歪んだ。かたかたと震える体を抑えられない。
 背後から頬へと触れた息に、一瞬向けそうになった視線を無理矢理真正面に向けた。見ては駄目だと自分に強く言い聞かせる。
 いなくなれと念じた。いなくなれ、いなくなれ、消えちまえ、俺の前から消えろ!
 けれど、気配は消えない。
 気配が笑う。逃がさないと明確な意志を忍ばせ、俺の視線を引き寄せるように音を発した。
「いぃぃ」
 ひび割れた雑音のような音。
 わめくように心の中で助けを求めた。恐怖で震える体で何度も何度も叫ぶ。
 後ろの声は止まない。それでも何かの助けを叫んだ俺に、救いの主が現れた。
「あれ、まだいたんですか、イルカ先生」
 がらりと前触れもなく開いた戸から、暢気な声が発せられた。
 その声に、詰めていた息が一気に吐き出た。
「おっと、大丈夫ですか?」
 床にヘたり込む寸前、俺を抱き止め、引っ張りあげてくれるのはたくましい腕だ。
 諦めたそのときに、何度となく救ってくれた、俺にとっては救世主のような。
「ががじぜんぜぇ」
 ひぃんひぃん言いながら、目の前の体に縋りついた。

 突然だが、俺は見える。
 何がだと言われたら、アレだ。夏の時期になると、こぞってテレビが放送したがるアレが見える。
 幼い頃から見えた訳ではない。俺が見えるようになったのは、つい最近だ。前触れもなく、突然俺は見えるようになった。
 自覚するまでは、だいぶ時間がかかった。
 おかげで、日中問わずにそこにいるアレと、生きている人との区別がつかずに、普通に接してしまったことにより、アレからは懐かれ、周りの同僚たちからは憐れみの眼で見られるようになってしまった。
「イルカ、病院には行ったか?」
「ストレス発散してないから、こうなるんだぞ?」
「今からでも遅くはない。可愛い姉ちゃんに慰めてもらえ」
 同僚たちに囲まれ、肩を優しく何度も叩かれたことは、今でも涙がにじみ出そうになる。俺はまともだっつぅの! ていうか、お前ら俺をどんな目で見てたんだ!
 とにかく、現状を理解した俺は、まずはその手の本を買い求め読みあさった。そして、アレには無視することが一番だということを学んだ。
 対処法を知り、これで周りからの奇異の目から避けられると思っていたのに、物事はそう簡単には運んでくれなかった。
 アレにもネットワークというものが存在するのか、俺が無視しても無視してもアレは俺が見えることを知っているかのような行動に出てくる。そして、これまでと変わって、俺に危害を与えようとしてくる始末だった。
 川に突き落とされたり、階段から突き落とされたり、とにかくよく突き飛ばされるようになった。
 俺だって中忍だから、それくらいのことで怪我はしないが、一番問題なのは夜だった。
 アレは夜になると力が強くなるのか、空恐ろしい気配と共に現れ、俺に触れようと近づいてくる。まだアレに触られたことがないからどうなるか分からないが、妙な危機感を覚えることは確かだ。
 今宵もからくものところでカカシ先生に助けられた訳だが、俺がアレに襲われていると高確率の割合でカカシ先生が現れ救ってくれる。しかも、どういう訳か分からないのだが、カカシ先生が現れると例外無くアレは消えてしまうらしい。
 アレについて書いてある本には、アレを弾き飛ばしたり、消滅させたりする力がある者もいると記されていた。修行して身に付く者と生来的に持っている者がいるらしく、そういう者たちを総じて除霊師と呼ぶらしい。
 殺しも生業にしている忍び里では、アレの存在を信じている者は皆無といっていいので、カカシ先生はきっと後者なのだろう。
 俺はすこぶる幸運者だ。
 アレは、夏の暑さを和らげるテレビネタの一種としてしか捉えていない木の葉で、アレと唯一対決できる除霊師と出会えちゃったのだから。

「イルカ先生は、本当に寂しがり屋ですねぇ」
 夏の暑さが和らぎ、涼しい風が吹くようになった夜の道を、カカシ先生と二人で歩く。
 俺は鼻傷を掻きながら、すいませんと小さく頭を下げた。右手にしっかりとカカシ先生の袖を掴み、離れないように、カカシ先生の不快さを与えない距離感を保ったまま、帰り道を行く。
 カカシ先生が、上忍には有り得ないほど親切で、格下相手にも気さくな人柄であることにつけ込んで、俺はこうして度々、というより、カカシ先生と夜に出会ったら必ず家まで送ってくれるように頼み込んでいる。
 不思議なことに、カカシ先生に触れているとアレが見えなくなる。しかも、接触時間が長ければ長いほど、見えなくなるというおまけ付きだ。
 まさに、除霊師カカシ先生さまさまだ。
 家に帰っても容赦なく現れるアレのせいで寝不足になったことも数え切れない身としては、カカシ先生は俺にとって癒しであり救いであり、本当にありがたい存在だった。
「本当にすいません。この歳で情けない限りです」
 いい歳した男が、寂しさのあまり何か掴んでいないと泣きそうという俺の主張を、カカシ先生は頭から信じてくれた。
 普通なら男だろうふざけんなで話は終わるだろうに、人ができているカカシ先生はあろうことか率先して俺を送っていこうとしてくれる。ほんまにええ人やで。
 影でこっそり涙を拭く俺を見て、カカシ先生は不思議そうな顔をした後、
「いいんですよ。困ったときはお互い様ですし。それに……」
 一旦言葉を区切り、顔を傾けて顔の中で唯一表情が見える右目を見せると、柔らかく笑った。
「寂しいってことを、素直に言えるイルカ先生は強い人だと思います」
 たわむ瞳は優しく、こちらを卑下してくる感情はどこにも見られない。
 本気でそう思ってくれるカカシ先生を騙している俺は、時々とんでもない悪党ではないかと思ってしまう。
「そ、そう言ってくださると、こちらとしても非常にありがたいです」
 へこへこと頭を下げ続ける俺に、カカシ先生は「ただ」と言葉を続けた。何かと思って顔を上げれば、カカシ先生は右手を俺に差し出している。
 何だろうと見つめていれば、カカシ先生は小さく笑うなり、俺の左手を握って体をぐいっと反転させてきた。
 カカシ先生の左隣にいた俺が右隣ヘ移動したところで、カカシ先生は口を開く。
「ここまできたら、遠慮しないでくださーいよ。今度からは手を繋ぎましょう」
 ね、と微笑まれ、あまりに優しい雰囲気に頷きそうになったが、ここは忍びの里だ。俺ごときがカカシ先生と手を繋いでいたら、妙な噂に拍車がかかってしまうだろう。
 こうして送ってくれている今でさえ、口さがない連中はカカシ先生が宗旨変えしただの、男の尻を追っかけているなど、とんでもないことを言っているのだ。
 嘘をついて送ってもらっている今でも十分心苦しいのに、そんな噂が真実として語られるようになったら、それこそ俺の良心は瀕死の重傷を負ってしまう。
「いえいえ、カカシ先生の彼女に申し訳ないです。こうして送ってもらえるだけで本当に十分ですから」
 カカシ先生の口から付き合っている人がいるとは聞いたことがないが、性格良くて、忍びとしても優秀で、稼ぎも有り余るほどで、顔の大部分は口布と額当てで見えないけど、輪郭からしてかっこいいオーラを漂わせているカカシ先生に恋人がいない訳がない。
 そう思い言った言葉に、カカシ先生は驚いたように目を見開いた。思わぬ反応にこちらも目を見開けば、カカシ先生はふいに視線を逸らして頭を掻き始める。
「……あれ? もしかして今までずっと? じゃ、今までの行動は」
 ぶつぶつと独り言を呟くカカシ先生を尻目に、握られている左手を外そうと右手を乗せる。
 失礼にならないよう細心の注意を払って、カカシ先生の指を持ち上げようとしたが、逆に力がこもってしまった。
「うん、モロタイプ」
 何がだ?
 にんまりと嬉しそうな気配を漏らすカカシ先生に戸惑う。
「あの、カカシ先生。手を離していただけますか?」
 態度で駄目なら口で言いましょう。
 ずばりと言えば、カカシ先生は嬉しそうな気配を出したまま小さく笑いだした。
「遠慮しなくていーよ。イルカ先生が心配するような恋人なんていないから」
 だから大丈夫ときゅっと握られ、俺は言葉に窮す。それでも今後の交際相手に悪いと口を開こうとすれば、カカシ先生は察したように言葉を継いだ。
「いいじゃなーいの。オレは、イルカ先生と手を繋げて嬉しいよ」
 突然の邪気のない笑顔に言葉を見失う。そして、胸がきゅっと痛んだ。
 幼少時から忍びとして実力を持っていたカカシ先生は、子供だったら当たり前にすることをしていないのではなかろうか。
 同性と手を繋ぐという行為も、もしかしたら初めての体験なのかもしれない。そうでなければ、俺のようなもさい男の手を繋いで嬉しそうな笑顔を浮かべる訳もない。
 いい笑顔を見せるカカシ先生に、涙がこぼれそうになる。けれどここで泣いたりしたら、せっかくの笑みに水を差してしまうとばかりに、俺も笑みを作ってカカシ先生の手を強く握った。
「ご迷惑でないなら、ぜひ! 俺も嬉しいです!!」
 カカシ先生とは違った意味の嬉しさだが、ありがたいことには変わりないので言っておく。
 俺の言葉はカカシ先生にとって予想外だったのか、少し目を見張ったけど、覗いている肌がうっすらと色づいた。
 照れたように目を逸らす様は、高名な忍びにも関わらず可愛いなと思ってしまった。
 意外な発見がくすぐったくて小さく笑えば、拗ねたように髪を乱暴に掻くからなおのこと笑えた。
 一気に親しみを覚え、カカシ先生が除霊師で良かったなぁとしみじみ感じいってた時だ。俺の体が何かの気配を感じ取った。
「いぃぃぃいぃぃぃ」
 直接脳内に叩き込まれる不協和音。
 捉えた瞬間、体の自由が利かなくなる。突然止まった俺に、カカシ先生の歩みも止まった。不思議そうな顔をするカカシ先生を見ながら、俺は混乱のただ中にいた。
 あり得ない。
 硬直した背に冷や汗が流れ伝う。この重く暗く痛い気配。あの声。そして、俺を見つめる視線。
 何もない、虚の目を思い出し、がたがたと体が震え始めた。
 目の前にはカカシ先生。俺が唯一頼みにしていた人がいるのに、何故、あいつは近づいてこれるのだ。
 いつもとは違う状況に絶望すら覚えた。
 何かを引きずる音が背後から迫ってくる。耳にはあれの声。
「いぃぃぃぃぃぃるぅぅぅぅぅ」
 意味を持ち始めた声に、思わず目を閉じた。
 嫌だ嫌だ嫌だ!!
 耳を塞ぎたいのに塞げない。目を閉じたことで余計に音を意識してしまう。自分の鼓動がうるさい。今にも耳元で囁かれそうで、恐怖のあまりわめきたくなる。不規則にこぼれる息の根に助けを求めた。
 誰か、誰か、誰か!!
 音にならずに叫んだ声は、諦めと共に消えるはずだった。なのに。
「イルカ先生、だいじょーぶ」
 耳元で囁かれたのは、独特な甘さのある聞き慣れた声だった。
 包むように抱きしめられ、自分と同じ生きた体温に触れて体の戒めが解けた。
「カ、カシせんせい」
 触れる熱を掴み、顔を押しつける。カカシ先生は宥めるように背中を撫で続けてくれた。
「イルカ先生、大丈夫だーよ。だから、目開けて。ね?」
 ゆっくりと言い含めるように掛けられた声に首を振った。この腕も体温もすべて偽物で、目の前にあいつがいたらと、もしものことを考えてしまい、たまらなくなった。
「嫌です、無理です! ここにいたくありません、お願いです、このまま!!」
 どこかへ連れ去って欲しいと叫んだ。カカシ先生の体に縋り、ここから去りたいと願うのにカカシ先生は俺の言葉に頷いてくれない。そればかりか、ここに留まるようなことを言ってくる。
「嫌です、カカシ先生!!」
 抱きついた腕に爪を立て握りしめた。苛立ちもこめたそれに、カカシ先生はいつものように力が抜けた空気で笑い飛ばす。
「大丈夫、オレがいるんだーよ? それにここでやっとかなきゃ、後々まずいから」
 未だ声も音も止まない。勝手に震える体は恐怖を感じ続けている。
 音はすぐそこまで迫っている。カカシ先生は動こうとはしない。一人で逃げようにも立っているだけでやっとな足で逃げきれる自信はなかった。
「イルカ先生、目、開けて?」
 響きは優しいのに有無を言わさない声だと思う。嫌だと言いたい気持ちまで封じ込まれて、なけなしの気力を奮いたたせて目を開けた。


「ごーかっく」
 目を開ければそこにはカカシ先生がいた。安堵と同時に驚きもした。カカシ先生がいつも着用している口布は下ろされ、素顔がさらけ出されていたから。
 息を吸ったまま、しばらく止まってしまう。初めて見るその顔の秀麗さに、一瞬恐怖を忘れる。
 口布をしていても美形だと分かるだけあって、生で見ると威力はすごいものだった。白磁の肌に通った鼻筋、写輪眼があるという左目は額当てで隠されたままだったが、少し下がった眦は大人の色気を感じさせ、まさに男も見惚れるほどの美丈夫だった。
「イルカ先生?」
 見惚れていたことがおかしかったのか、笑いが混じる呼びかけで我に返る。
 ばつが悪くなって顔を背けようとすれば、カカシ先生が頬を挟んできた。それと共に顔の近さに気付いて声がひっくり返る。
「カ、カカシ先生!」
 近いと腕で突っ張る寸前、カカシ先生は優しい笑みを浮かべた。
「もうちょっと時間掛けたかったんだけどーね。こうなるのも、ま、運命だったっていうことで」
 何を言っているか分からない。分かるように言ってくれと詰ろうとした言葉は、急接近してきたカカシ先生に文字通り塞がれた。
「ん、ん!?」
 続いて口の中に入り込んできた感触に驚きびびる。俺の気が確かならば、今、俺はカカシ先生にぶっちゅうとされている状態だ。
 いや、まさかと混乱しながら足掻くように顔を動かそうとしたが、頬を押さえこんでいる手はがっちりと固定され、顔は微動だにしなかった。
 びびって縮こまる俺の舌に柔らかくて熱いものが絡みつく。根元を擽るように触れ、口内の中をねっとりと動く舌は、何かをもたらしそうで恐慌状態に陥った。
 顔が茹って熱い。心臓が急速に動いて、酸素が足りずに苦しい。でも、苦しさだけではない甘さを感じ、それを気持ちいいと思っている自分に気が付いた。
 絡みつく舌の熱が、厚さが。
 触れられる感触が。
 過去にした誰よりも濃厚で甘く、淫らで、しっくりと噛み合った。
「イルカ先生、見て。やっぱりオレたちの相性って抜群みたい。あいつ、あそこから近付けないでいる」
 気付けば、俺はカカシ先生にほぼ抱えあげられるような形で地面に座り込んでいた。おまけに俺の手はしっかりカカシ先生のベストを掴んでいて、まるで離れるなと言わんばかりの有様だ。
 慌てて手を離して、カカシ先生の言葉の意味を掴もうと闇雲に視線を飛ばす。気持ち良かったからってこれはないだろう。しかも男だぞ、いくら美形でも野郎とキスして骨抜きってどういうことだ。
 考えがまとまらず右往左往とさ迷っていた視界に、異質なものが移った途端、茹っていた頭が急速に冷えた。
「いぃぃぃぃぃぃぃるぅぅぅぅぅぅぅうぅっぅぅぅぅかぁぁぁあぁぁ」
「ひっ」
 言葉の意味と共に、自分へ真っ直ぐ向けられた視線に小さく声をあげてしまう。
 初めて直視したあれは、濡れた長い髪を持ち、地面を這っていた。水分が飛んだ肌は黒ずみ、年も性別も判断つかない。這う理由は下半身を見て知る。
 あれの下半身は何かに潰れ、原型を止めておらず、腹から破れ出た臓器を引きずっていた。
 何も映さない瞳を向け、俺に向かって手を伸ばす。そこから動けないのか、唯一動く腕を足掻くように振り回し、地面に爪を立て引っかいていた。
 これ以上近付けないでいるあれを理解して、余裕が生まれた。怖いことに変わりない。だが、自分を見つめ進もうとする愚直なまでの動きが何となく哀れを誘う。
 あれは、俺の名をずっと呼んでいたのか。
 口内に水分がないせいか、声はひび割れ嗄れている。その状態で何度も俺の名を呼ぶあれに、そうまで必死になって何を求めているのだろうかと気にかかった時、後ろから目を塞がれた。
「ダメだーよ。全くイルカ先生は優しすぎるんだかーら。変な情なんか掛けちゃダメ。あれはもう死んでんの。オレたちとはすでに世界が違う存在なの。余計な情をかける方がよっぽど酷ってもんですよ」
 閉ざされた視界の中、耳元で囁かれて目を見開いた。カカシ先生にはあれが見えているのか? いつから? もしかして最初から?
「カカシせ」
「あー、ほら。あいつ情かけられたことに気付いちゃった。調子づかせちゃって、本当にしょうのないイルカ先生ですねー。ま、でも、これはこれで次のステップにいけるんで役得かーな」
 疑問を口に出す前に、カカシ先生はため息を吐きながら、それでも口調を弾ませ呟いた。一体何のことを言っているか分からない。
 何が起こっているのか知りたくて、目を塞ぐカカシ先生の手を掴めば、逆に掴まれて顎を掬われた。そのままカカシ先生の方に顔を向かされ、悪戯っぽい瞳を見せてくる。
「イルカ先生好きですよ。状況に迫られただけじゃないことだけは知っておいてくださいね」
 言葉尻と同時に唇を啄まれ、気付けば風景が変わっていた。
 申し訳程度の本棚とタンス、ベッド脇に置かれた観葉植物と写真立てに、7斑の子供たちとカカシ先生の姿を見つけ、カカシ先生の部屋なのかと思う。
 ベッドの上に土足で上がり込んだことに気づき足を上げようとすれば、押し倒された。
「カ、カカカ!!」
 突然の行動に洒落にならないと名を呼ぼうとすれば、カカシ先生は額当てを後ろ手に投げ捨てた。ベッドに押し倒されたこともそうだが、秘していた物を自ら曝け出す行動が、その先を暗示しているようで気が気でない。
 ベッドの上に横たわる俺の上に、カカシ先生は四つんばいで跨った。そして、俺の手を取るなり整った唇を押し当て、うっそりと笑った。
「思い出に残る初夜にしましょうーね」
 色気の含まれた笑みにガッと血がのぼった後、言葉の意味を理解し血の気が引いた。
 何かの間違いだと叫ぼうとした俺の口に食らいつかれ、あれよあれよという間に、俺は抵抗する隙さえ与えられず、一晩中貪られてしまった。






戻るカカシ編


----------------------------------------

某さまに寄稿しようと企んだものの、締め切り前に書ききれなかった作品です。
そして、いまだ書ききれていない……。いえ、あと少しなんですけども…。
追記:
題名変えました…orz 
イルカ編を足して書きました。このままでは訳分からないと思いますが、カカシ編にて判明する予定。




見えない イルカ編