恋唄
桜が咲く頃になると、必ず行くところがある。
風避けに最適な茂みで周りを囲んだ、ひなたぼっこに最高の俺の昼寝場所。
お日様で温められた草は温かくて、母ちゃんを思い出す。
俺のとっておきの場所で、大事な大事な秘密の寝床だったのに。
なんでかな。あの場所に行くと、何かが足りないって思うんだ。
あおーん
そこかしこで響く、勇ましい声を聞きながら、俺は足取り軽く秘密の寝床へと向かっていた。
今日もお日様はお空の天辺で輝いて、冷たい風ばかりじゃなく温かい風も吹いている。
絶好のお昼寝日和だと、俺の尻尾がぴんと立ってご機嫌を伝えてくる。
早く行きたいと心は焦るのだけど、ぐっと我慢して、近道じゃなくて、みんなと出会わないような道を選んで用心深く進む。
凍える寒い日を抜け、温かくなっていろんな花の匂いが香ってくると、周りが途端に騒がしくなる。
どうしてかなんて、俺には分からないけど、ここの界隈で一番物知りな酒屋のトラさんが言うには、それがお天道さんの道理ってものらしい。
トラさんの言うことはとっても難しくて、やっぱり俺にはわかんない。
上を見上げれば、頭上に薄い桃色が覆うように張り出している。満開の桜の香りに混じって、心がざわめくような魅惑的な匂いを嗅ぎとって、俺の胸はどきりと高鳴った。
匂いが香る方向へ首を巡らせば、三毛のきれいな女の子がこちらを見つめ、とろけるような甘い声をあげた。
地面に体を擦りつけるように体をくねらせ、長いしっぽが手招きする。
その魅力的な仕草にふらふらと勝手に体が引き寄せられそうになったけど、それは一瞬で、頭の中にとっても綺麗なキラキラが光って、俺の足を止めた。
銀色でぴっかぴっか。
心の中で呟けば、浮き足だった心はあっという間に静まり返る。
足を止めた俺を不思議そうに、三毛の綺麗なあの子は一声鳴く。
「こっちに来て」と。
でも俺はごめんねと尻尾を一度振り、塀の上を歩いてその子をやり過ごした。
不満げに鳴く子を見ないで、真っ直ぐ歩けば、その直後に背後でけたたましい声が轟いた。
びっくりして振り返れば、三毛のあの子を巡って、体格のいい男たちがにらみ合い、戦闘態勢に入っている。
いつの間に移動したのか、塀の上からそれを満足げに見下ろす三毛の子は、振り返った俺に気づいて、小さく笑った。
見せつけるような綺麗な笑みだったけど、やっぱり銀色のぴっかぴっか以上に綺麗に思えない。
余計なことに巻き込まれるのは嫌だから、そそくさと逃げるように走れば、後ろから「つまんない男」と綺麗な声が追ってきた。
一瞬、足が止まりそうになったけど、足に力を入れて、全速力であの場所に向かって走る。
俺は今、行くところがあるんだ! よそ見はしないんだからッ。
ふしゃーと短い声を上げて、恐ろしいうなり声ともみ合う音を背中で聞きながら、俺は一目散に駆けていった。
ぜーぜーと荒い息をついて着いたのは、俺のとっておきの場所だ。
古いじいちゃん桜が満開に咲いて、時々そよぐ風と一緒に花びらが落ちる。
くるくる回る花びらは見ているだけで楽しいし、お日様の光もいっぱいで、俺の大好きな寝床を温めてくれているだろうことも十分に分かった。
わー楽しいと俺は尻尾を振って、花びらを追いかける。右左とパンチを繰り出し、くるりと一回転して地面にひっくり返る。すぐさま起きあがって、今度は飛びあがり様に掴むように手を合わせるが、俺の手からひらりと花びらが落ちてしまった。
惜しい!!
あとちょっとだったのにと、うーなっと声を上げて、そこら中を駆け回る。耳を反らして、体中の毛を立たせて、無我夢中に走って、疲れたところでその場に座る。
乱れた毛並みを毛づくろいして落ち着いたところで、幸せな寝床へと体を埋め込む。
ふわっふわでほかほかで、お日様の匂いと草のいい匂いがして俺の喉が勝手に鳴り始める。
やっぱりここ好きだなぁ。ここは俺の大好きなとこだな。気持ちよくって、温かくて最高だもんなー。
しばらく幸せに浸っていたのだけれど、急に背中とお腹が寒くなって、鳴っていた喉が止まる。
閉じていた目を開けて、そっと周りを確認する。
ぴちちと小鳥がさえずりながら飛んでいく気配が一つ。あとは微かに吹く風のざわめきと、小さな虫たちの音。
「わおー」
我慢できなくなって鳴いた。
気持ちのいいはずの寝床から起きあがり、温かいけど固い石の上に座る。
周りを見渡して、何もいないことが分かって、腰を下ろす。背中を一舐めして、ちらりと周囲を伺うけどやっぱり何もいない。
なんだか、お腹が空いてきた。
お腹が空きすぎて、胸のあたりまで腹の減り具合が進んで、胸がとってもすーすーすした。
葉っぱの影からかさこそとトカゲの長い尻尾が見える。おやつになるって分かってるのに、俺の体は石の上から動かなかった。
お腹が空きすぎて動くことも面倒なのかな。
自分のことなのによく分からなくて、仕方なしに丸くなる。
ぽっかぽっかの日差しが上から降り注いで、温められた石は十分気持ちよくて、微睡むことだって眠ることだってできるのに。
一度閉じた目を開けて、俺はまた我慢できなくなって、身を起こすなり大声で叫んだ。
「あーおん。あーおぅん」
俺の喉からびっくりするほど大きな声が出る。
出るままに何度も何度も叫んだ。
石の上に爪を立て、ぐぅっと背中を反らして、俺の大っきらいなあいつらのような姿勢で声を震わせる。
「あーおぅ、あーおぅぅ」
でも、応えてくれる誰かはいなくて、俺は必死に声を振り絞る。
聞こえないんだ。
俺のこんな小さな声じゃ聞こえない。
名前を呼べないなら、もっともっと声を出さなきゃ。
もっと、もっとお腹の底から振り絞らなきゃ、届かない。
酒屋のトラさんの家に行った時。
春になるとあの場所で、びっくりするくらいの声をあげてしまうんだ。最近、俺おかしいんだと言った俺に、トラさんはこりゃめでてぇと盛大に声を上げて笑った。
『ようやくイルカも年頃か。おかしいことなんて何一つありゃしねぇ。これもお天道様の道理ってやつだ』
どういうことって尋ねた俺に、トラさんは静かに笑って、俺の問いとは違うことを言った。
『なぁ、イルカ。ただ鳴くだけじゃダメだぞ。ちゃーんと名前を呼ばなきゃ、思いは伝わらねーぞ』
名前と首を傾げると、トラさんはそうだと深く頷いた。
『オレたちが鳴くのは、愛しい誰かを乞うているからだ。恋しい恋しいという思いが体から溢れて、声に出るんだぞ』
だから、絶対に名前を呼ばないと届きゃしねーんだぞと、トラさんは髭を震わせて言った。
トラさんの言うことはやっぱり俺には難しくて、でも名前を呼んで鳴かないとダメだってことは何とか俺にも理解できた。
でも、トラさん。俺、名前知らないんだ。よく分からないんだ。あの場所が全てで、あとはわかんない。銀色のぴっかぴっかしか覚えてないんだ。
よほど俺が困った顔をしていたのか、トラさんは一度大きく目を見開くと、こりゃ本当にめでてぇと笑った。
なんで笑うのと聞けば、トラさんは耳をせわしなく振り、ご機嫌な声を出す。
『イルカは本当にお天道様の道理ってやつにぶつかっちまったんだなぁ。めでてぇ、めでてぇ』
何がめでたいのか分からなくて、何で笑うのと剥きになって聞けば、トラさんは非常に勿体ぶった言い方で言った。
『人生の先輩が助言してやる。気の済むまで叫べ。名前が分からなくても、とにかく叫べ。お前が本気なら、お天道様だって応えてくれらぁ』
そう言って、トラさんはねみぃから寝るぞと一言言って、そのまま眠ってしまった。
それから、俺は春になる度、叫んでいる。
心にくすぶっているものを吐き出すように、俺は叫んでいる。
家に帰るときには、喉が痛くて痛くて、何度もこんなこと止めようと思うのに、お日様がてっぺんまで上ると、俺はここに来て、やっぱり叫んでしまう。
ねぇ、銀色、ぴっかぴっか。
ねぇ、聞こえてる。
俺の声、ちゃんと届いてる?
俺ね、大きくなったよ。声も昔と比べていっぱい出るようになったよ。
ねぇ、聞こえてる?
ちゃんと届いてるでしょ?
銀色、俺、よく分かんないけど、一つだけ思ったことがあるんだ。
なんで、俺、お前の名前知らないんだろう。
なんで、俺、自分の名前を伝えなかったんだろう。
トラさんが言ってたんだ。
名前を呼べって。名前を呼んだら届くぞ。お前の気持ちも、銀色の気持ちも通じ合うぞって。
だからさ。
俺、言うよ。叫ぶよ。
何度でもずっとずっと言うからさ。
俺の声が聞こえたら、ちゃんと応えてね。
俺とお前が会ったとき、真っ先に教えて。
息を吸う。
深く、深く、一番大きな声を吐き出せるように。
胸一杯に吸い込む中に、お日様の匂い、草の香り、それとじいちゃん桜の甘酸っぱい匂いが香る。
胸が痺れるような、お腹がかっかと熱くなるような気がした。
脳裏に走るのは、銀色のぴっかぴっか。
とっても綺麗なぴっかぴっか。
『お前の名前は? 俺の名前はイルカって言うんだ』
おわり
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春へ
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ここのイルカ先生はまんま猫です。特殊設定です。いずれまた書きたいです。