突っぱねていた両腕を力なく抜く。
下ろした手に当たる固い感触に、自分の体は受付所の机に乗り上げているのだと知った。
あ〜ぁー、報告書は一枚だけだったけど、アカデミーの書類があったのになぁとぼんやりと思う。
……あぁ、分かっているさ。これは現実逃避だ。
俺はとんでもないことに今気づいてしまった。
どうして取り巻きどもが俺に対して執拗なまでに当たっていたか、そして、カオリさんが何故泣きながら走り去っていったのか……。
――それは、つまり。
俺は態のいい、虫除けに使われたということだったのだ……!!
里に帰った途端、群がってきた者たちに嫌気がさして、偶然顔見知りになった、頭は鈍いが、体が丈夫そうな冴えない中忍を利用して、自分の身辺を静かにさせようという腹だったんだ…ッ。
下位の者を、しかも俺を利用するなんてッッ、なんて奴だ!
腹ただしくて、頭が沸騰してくる。
それに、怒りの原因はまだあった。
先ほどの取り巻きくのいちはいいとして、問題はカオリさんだ。
悔しいが本当に惜しいが、彼女はこの男に純粋に惚れていたのだろう。そして告白をしたが、俺という存在を仄めかして断ったに違いない。
それが切欠で、カオリさんは俺に声をかけてくるようになったのかな。
時期が微妙に合うんだよな。俺がこいつと会ってやり取りをするようになってから、カオリさんが積極的に話しかけてくれるようになったのって………。
いや、止めよう。今、問題にしなくてはならんのは、この男の所業だ!
カオリさんを振るだけでも腹立つというのに、何てことをしてくれたんだッ。
俺との会話から、男の事実無根のでっち上げに気づいたカオリさんは吹っ切ることができずに、今日という日を、再挑戦として選んだのだろう。
今思えば、あのときのカオリさんは不安と期待がない交ぜになったような表情をしていた。
一縷の望みにかけて来たとでもいうべきか…。
あぁぁぁ、何か理不尽だ!
カオリさんのなけなしの勇気をこの男は殺気という最悪な形で答えを出しやがった!!
カオリさんを思うと遣る瀬ねぇ…ッ。
「はたけ上忍」と憤りを込めて呼んだ名前に、ぴくりと男の体が反応した。
ぐりぐりと顎で頭を押さえつけられていたのが不意に離れ、両手が肩にかかり、ぐいと体を引き離される。
ようやく離れた体にほっと安堵の息がこぼれ出る。
だが、ここで安心してはいかん。もう虫除けは御免だと言わなければ、更なる被害が……っていうか、被害が俺に目白押しにやってくる。
こんな思いは一度だけで十分だと、恋に発展し損ねた淡い思いの残骸に、心の内で涙を流した。
ぎっと男を睨み、俺は叫んだ。
「どうい―」
「どういうこと?」
のもつかの間、逆に問いかけられた。
「は?」
気勢を殺がれて思わず声を漏らせば、男は不機嫌そうに眉を逆立て、こちらをまっすぐ見つめていた。
瞳が青い。
夏の空のような真っ青な色ではないが、海の濃い群青色に似たその色に、新鮮な印象を受けた。
今までずっと灰色だと思っていたのに。
そこでようやく気づく。
そういえば、顔を何度となく合わせていたにも関わらず、真正面から見るのは初めてのことだった。
「ちょっとアンタ、何、ダンマリしてるの? 意地もそこまで張ると、面白くな――……。いいや、そんなもんじゃない〜ネ」
そこで言葉を区切り、男は机に座る俺に顔を近づけた。細まる目が怖い。
完全に飲まれて、おたつくように後ろへ下がろうとして手を取られた。
「アンタの存在には苛々されっぱなしだ〜ヨ。こっちはアンタの要望を飲みまくってんのに…って、別にアンタの機嫌損ねたくないからじゃないよ、勘違いしてもらってもウザイから言うけど、上忍の責務でショ。責務。でも、十分オレはやったから、もうアンタの要望は無視する〜ね」
独特な伸ばし口調が穏やかな空気をかもし出すが、男の目を見れば、どういった状態なのか、嫌でも思い知らされた。
男の目はえらくぎらついている。
…や、やばい…。
男の言葉を理解しようと頭を働かせている時ではない。
よく分からない身の危険を感じ、手を振り放そうと身を捩ったところで、もう片方の手も捕まえられた。
ぎゃひぃっぃと頭の中は大パニックだ。
痛いほど握られた手が痺れを訴えてくる。その力の強さからも、男の不機嫌度が推し量られるというものだ。
だらだらと汗を流す俺を見下ろしていた男が、突然にっこりと笑った。
刺激を与えるのも嫌で、こちらも引きつる頬を叱咤して、にっこりと笑みを形作れば、意味不明な言葉で宣言された。
「オレの忍犬になりなよ」
頭が真っ白になった。
今度こそ男の言葉の意味が分からずに、目を見開き、口が開く。
は? 何て言った? この男、何て言った??
呆然としている間に、男の手が重なり、視認できない速さで次々と印を組み上げていく。
「まんまはさすがに日常生活に支障が出るから〜ね。これが最大限の譲歩。言っとくけど、拒否は許さない〜よ。これでアンタも少しは長くオレの側にいられるし、嬉しいでしょ?」
俺に話した直後、聞いたこともない奇怪な音が男の口から出た。
それが、最後の印だったらしい。
ボフンと間抜けな音を立てて、男のチャクラと俺のチャクラによって作り上げられた術が発動した。
途端に、頭皮を剥がされるような痛みと、お尻の付け根辺りに感じたこともない痛烈な衝撃が走った。
「うぎゃっ!!」
パニックになる俺に、男は至極冷静な手つきでクナイを取り出すや、痛みで暴れる俺に走らせる。
ぱらりと目にかかる髪と同時に、二つの痛みが嘘のように引いていく。
一体何だったんだと、痛みが走った頭に手を乗せて愕然とした。
「な、な………!!」
言葉を失う俺に、男は目を細めた。
「ん〜、まぁまぁってとこだ〜ね。頑固で意固地なアンタには、飼い主以外懐かないその犬耳がぴったりだ〜よ」
「ま、当然だけど飼い主はオレだ〜よォ」と世迷言を言う男を尻目に、俺は何度も何度も両の掌の中にある、触る度にふるふると震えるものを確かめた。
もふもふとした感触。それは三角で、ピンと真上に立っている。
おまけに自分で触るとくすぐったい。間違いなく神経が通っている。
ついでに、やたらと周りの音が響いて聞こえた。
「あ〜れぇ、気に入らないの? ご自慢の尻尾が垂れてる〜よ。アンタは喜ぶことしか能がないんだから、ちゃんとそういう態度取ってよね」
男の目線にまさかと思う。
そんなまさかと、祈るような気持ちでちらりと斜め下に視線を走らせれば、果たしてそこには立派な黒いふさふさの尻尾がぐったり垂れ下がっていた。
ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!
心で絶叫を、口では声にならない悲鳴をあげ、俺は頭を抱えた。
抱えた拍子にぴくぴくと軽快な動きを見せる耳に軽く凹む。
しかも、俺、ズボンに穴開いてるんじゃないか?! あれが出るための穴が!!
一着ズボンを駄目にしたと、妙に冷静な俺もショックを受けている。
いやいや、ズボンよりも、そう、ズボンよりもだ!! あんた、何、考えてるんだぁぁぁ!!!
眦には液体が零れ出んばかりに溢れかえっている。
きぃっと睨みつけ、とにかく戻せと掴みかかろうした寸前、
「カカシ! てんめー、こんな所で油売ってやがったか…! これからおれと任務だろうがよ。何時間待たせりゃ気が済むんだ…ッッ」
俺の怒りを上回る怒りを体に巻きつかせ、髭の大男が受付所にズカズカと入ってきた。
鬼気迫る勢いで近づく大男、もといアスマ先生に俺の怒りの言葉は喉の奥へと引っ込んでしまう。
アスマ先生は「メンドくせぇ」が口癖なのに、面倒見がよく、温和な性格の持ち主だ。
そのアスマ先生をここまで激昂させるなんて……、一体この男は何時間待たせたのだろう……。
「いい? アンタはこれでオレの忍犬になったんだから、今までみたいに他の女、特に男なんかの尻を追いかけちゃダメだ〜よ。そんなことしたら、お仕置きだから〜ね、お仕置き」
「お仕置きされんのは、テメーだ、このバカたれッッ」
人差し指を突きつけ、説教する男の頭に拳が命中する。
男の頭が面白いように落ち込む。だが、効いてないかのように男は平然と頭を起こし、俺に向き直るとくどくどと言葉を重ねる。
ふりふりと人差し指を振る、おまけつきだ。
「尻尾振り回して、喜ぶのも厳禁だから〜ね、厳禁! アンタは飼い主だけを見てればいいの、余所見なんて以ての外。俺の忍犬になったんだから、そういうところもちゃんとしてもらわないと困る〜よ。いいね、約束だよ、約束」
まだ続くかという男の言葉に、アスマ先生は深いため息を零し、顔を覆った。
「…イルカ。オメェにゃ悪いが、こいつ連れて行くぞ。オメェも大変だろうが、こっちが急ぎだ。すまんが、こいつが帰ってから、じっくり話し合ってくれや」
男の口から本来出るべき謝罪の言葉がアスマ先生の口から飛び出、俺は慌てて居住まいを正した。
「いえいえ、俺の方はお気になさらず。どうしようもなくなったら、三代目に泣きついてでもどうにかしますので……。任務頑張ってください。無事のご帰還、お祈りしております」
深く頭を下げ、里の留守を守る者として見送る。
顔を上げれば、苦い笑みを口元に刷きながら、目元を柔らかく緩ませたアスマ兄ちゃんがいた。
「おう、ちょっくら行ってくら」
ぽんと大きな手が頭に降ってくる。
アスマ兄ちゃんとは、幼少のとき遊んでもらっていたせいか、今でも目をかけてくれる。
上忍、中忍と階級差はあるものの、時々アスマ先生がこうやって昔のように構ってくれるのは素直に嬉しかった。
「髭熊! 気安く触るんじゃないよッ」
そんな嬉しくて温かい時間もあっけなく終わった。男がクナイを振り回したせいだ。
腕に切りかかってきたクナイを避け、アスマ先生はため息を吐いた。
ぶつぶつと口の中で、何か文句を言っているが、俺には聞こえなかった。
「うるさいよ、髭熊の癖にッ! アンタもアンタだ! 今、言ったってのに、すぐ破るような真似して……! あぁあ、もぅ熊一人で行けよッ」
「八つ当たりすんな。子どもか、テメェは…。さっさと終わらしゃ済む話だろうが」
ちらりとアスマ先生の視線がこちらに向いた。
よく分からず首を傾げれば、男が突如髪を掻き毟り、苦悶の声を上げる。
「心配だ、心配だ」と何度も呟くお前の頭が心配だ。
「行くぞ、カカシ」
「チッ。…アンタ、約束は守りなさい〜よ! 破ったら、本当に許しませんからねッッ」
一体、なんの約束だ。
ぶちぶちとまだ煮え切らない態度でこちらを睨む男の背を蹴り、受付所から去っていくアスマ先生の背にもう一度礼をして、俺は見送った。
男はどうでもいいが、アスマ兄ちゃんは無事でいて欲しい。
つぅか、くたばりやがれ、写輪眼ッッ!!
心の中で中指をおっ立て、恋する乙女のように一途な視線を、男の背に向ける俺。
うぅんと足元で呻く新人くんの存在に気づいたのは、二人の背が見えなくなった直後だ。
俺は慌てて介抱しに回ったが、俺の姿に悲鳴をあげた新人くんが再び失神してしまった。
……まぁ、驚いたんだろう。
新人くんを医務室に連れて行って、目を覚ました途端、失神するというやり取りを何回か続けた後、今日という日がそれだけで終わってしまった。
俺がいたのでは一生目を覚まさないであろう新人くんを医務室のベッドに捨て置き、俺は暗くなった道を歩き帰途へとつく。
まばらな街灯が道を照らす中、今日という日が無駄に終わったことに、深いダメージを負っていた。アカデミーの書類が残っていたのに、あれって確か提出期限は明日だったよなとか、採点付け、まだしてねーよとか、火遁の授業の準備とか色々あったのに……などなど。
明日は残業決定だと、真っ暗い空の下、輝く星を見つめ、俺は心の中でもう一度叫んだ。
くたばりやがれッ、写輪眼!!
だが、そんな純粋で強い思いは、この里の長の言葉にて見事撤回されることになる。