「……正気、ですか?」
動揺のあまりイルカは口走ってしまった。
部屋の主は礼を欠いた言葉に怒ることもなく、大振りな執務椅子の背もたれに体を任せ、足を組み上げ軽快に笑う。
「正気さ。色々考えたが、お前が一番適任なんだよ、イルカ」
綱手の視線が、執務室ドア付近へと向けられる。つられるようにイルカも振り返れば、無表情で直立不動に立っている少女がいた。
名は、ツバキという。
綱手からは幼い頃に両親と死別したこと、そして拷問を受けた経験があることだけを告げられた。
長く療養の身であったが、対人関係のリハビリも兼ねて一か月間共に暮らし、彼女が忍びとしてやっていけるか見定めて欲しいと頼まれた。
いつもなら不躾な行為のため大っぴらにやることはないが、この時ばかりは、マジマジと少女を上から下まで眺めまわしてしまう。
ツバキは無表情が故にどことなく近寄り難い雰囲気をまとっていたが、姿形だけ見れば綺麗な少女だった。そして、歳の頃は17、8歳の思春期真っ只中の少女。
イルカはツバキから目を離し、額を押さえ深いため息を吐く。
これはどう考えてもまずいだろう。



「……綱手さま。私的なことで申し訳ありませんが、私にはお付き合いをしている方がおり、ただ今、一緒に暮らしている状態です」
姿勢を正し視線を向ければ、綱手はつまらなさそうな顔でああと相槌を打った。
「知ってるよ。お前ら二人のことは、上から外から内からよぉく聞いてるよ」
耳たこだと半ば呆れた様子で喋る綱手に、ならば話は早いと拳を握りしめる。
「だったら、お分かりでしょう!? あんなケダモノがいる私の家で、いたいけな少女を住まわせるなんて、そんな」
無茶なことをと声をあげる寸前、イルカの背後に何かが落ちる。それは落ちると同時に背中へと張り付き、耳を貫く奇声をあげた。
「そうじゃないでしょー!? アンタ、そこは『俺には相思相愛の人がいますから、任務とはいえ女と同居なんてお断りします』って言うところでショーが!」
何考えてんの! オレがいなかったら、ほいほいこの女を引き受けた訳? この浮気者と、肩を掴み、前後に激しく揺さぶる男に、イルカはいつの間にと呻いた。
「おい、カカシ。私はお前なんぞ呼んじゃいないよ。警備はどうした」
ひどいひどいと半泣きでイルカを揺さぶるカカシは、綱手の言葉を聞いていない。しょうもないと頭を掻き、警備をしていた暗部を呼ぶ。すると、数分して天井から落ちてきた。
「も、申し訳あ、りませ」
何とか起き上がろうともがいているが、芋虫のように床に落ちたままの暗部に、綱手は深いため息を吐き出す。
イルカのことになると、カカシは非常識な行動が増える。
身を起こし暗部の元へ赴き、診察すれば、痺れ薬を飲まされていることを知った。
該当する解毒剤を口に放り込んでやり、綱手は眉根を押し揉む。大方、先輩面したカカシが、持参した痺れ薬を飲めと強要したのだろう。
解毒剤が効き、反省するように正座してしょげ返っている猪面の暗部に、綱手は気にするなと退室を促した。どう考えても、カカシのアホが悪い。



未だイルカを前後に揺さぶるカカシへと視線を向ける。こちらから見えるイルカの顔は顔面蒼白で、口を覆い、非常に気持ち悪そうにしていた。
やれやれと口の中で呟き、綱手は重さ5キロの文鎮を取るなり、カカシ目がけて投げた。
ゴツと鈍い音が響き、文鎮はカカシの頭へと直撃する。そのままカカシはあっけなく床に倒れたが、大きな音を響かせたのは文鎮をめり込ませた丸太だった。
「何すんですか! まかり間違ってイルカ先生に当たったらどうするんです!? イルカ先生は中忍なんですよっ」
何て鬼婆だと、斜め前に現れたカカシは非常に憤慨している。本当にこの男は。
しっかりして下さいイルカ先生と後ろから抱きしめ、どさくさ紛れに顔やら首に吸い付き、アンダーの下に手を這わせるに至り、堪忍袋の緒が切れかけたとき。
「中忍で悪かったな!!」
イルカの左拳がカカシの顔面に直撃した。
「すいません、本当にすいません。暗部の方も、本当に申し訳ありませんでした!」
ぺこぺこと綱手に頭を下げ、暗部が落ちてきた天井を見上げ、これまた頭を下げるイルカに、少しだけ苛だちが和らぐ。
「先生、せんせ! 鼻血っ。オレ、出血多量で死んじゃいますよっ」
親鳥の後を必死についていくヒヨコのように、カカシはイルカの後ろをぴーぴー言いながら付いて回る。
任務時の面影の欠片もない里の誉れに、綱手の口から再びため息が零れ落ちる。こんな姿、他国には見せられりゃしない。



「あー、もういいよ。カカシと合同でいいから、お前ら、ツバキを任せたよ」
席に腰かけつつ、面倒臭くなって投げやりに言えば、イルカとカカシは綱手に迫り、同時に異議を唱えてきた。
「だから、五代目! こーんな、とんだ種馬男がいる家で、いたいけな少女を預かることはできません!! 腐っても上忍、はたけカカシなんですよ。少女が抗えきれるとは思えません。どうしてもとおっしゃるなら、火影命令ではたけ上忍を出入り禁止にしてくださいっ」
「何て恐ろしいことを言うんですか! 純情可憐で無垢な中忍のイルカ先生が、ガキとはいえ一端のくノ一の腹黒手口に騙されて、汚され犯されるのは火を見るより明らかッ。こんな天然記念物並みのお人好しを利用するなんて、何を考えてんです!?」
耳を塞いでやり過ごす綱手の前で、お互いはお互いの言葉を聞き、同時に視線を向けて火花を散らす。
「ほう。聞き捨てなりませんね。確かに俺は中忍ですが、れっきとした忍び。しかもアカデミー教師ですよ。俺にはツバキのような少女を保護できないとおっしゃるおつもりですか?」
「こっちこそ聞き捨てならないねぇ。言っとくけど、アンタが言ってるのは過去のオレ。アンタに出会って、アンタしか眼中にないの。いい加減、オレの本気を分かりなさいよね」
教師の癖に石頭なんだからと首を振るカカシの言に、イルカの顔が瞬時に真っ赤に染まる。
瞬間湯沸かし器を脳裏に描きつつ、綱手は一応成り行きを見守った。



「なぁにが『過去のオレ』だ! だったら、未だ俺に突っかかってくるあいつらはどうなんだッ。よりにもよって、一楽スペシャルサービスデーの日を狙って地味に嫌がらせしやがって!! 俺の至福の時間がもう三回も潰されてんですよっ。三回も!!」
半泣きに言葉を紡ぐイルカに、カカシは衝撃を受けたように後ろへよろけ、何よそれと目に涙を滲ませる。
「アンタ、オレの過去に嫉妬してんじゃないの?! 素直じゃないアンタのことだから、斜め上の反応しちゃって可愛いなってときめいたオレはどうしたらいいのよっ」
「うっせ、知るか!! だいたいあんたの身汚さが悪いんだろう!? 俺は被害者だっつってんだ、このモテ男めっ。女にモテない男が綺麗な女の人から浴びる罵声はどれだけ胸に堪えるか、分かんねぇだろ、節操なし男めッ」
「何ですってー! オレはアンタに心を根こそぎ奪われた後、一度たりとも他の生き物にも、無機物にも現を抜かしたことはないヨ! それにアンタにはオレだけいればいいの! そもそも、オレの愛と一楽のラーメンとどっちが大事なのよっ」
掴みかからんばかりに迫るカカシを前に、なにをぉと食ってかかろうとしたが、横から冷ややかな眼差しを感じ、イルカは口を閉じた。
これはいかん、落ち着け落ち着けと心の中で唱え、イルカは必死に平常心を思い出す。
何たってここは火影室。
イルカにとっては譲れない話題であろうとも、火影の御前で言い合う話題ではない。
イルカは深呼吸を繰り返し頭を冷やすと、話を切るべくつっけんどんに言い放つ。
「カカシさんの愛は大事ですけど、腹減っている時と、期間限定時は、一楽のラーメンも大事なんです。愛で腹は膨れませんしね」
ずばんと言い切り、もう話すことはないと顔を背けるイルカに、カカシは逆に食ってかかってきた。
「い、言いやがりましたね! そしたら、今晩、アンタに愛をたらふく食わせてやるからねっ、愛で腹が膨れることを証明してやるんだから!」
がくがくと肩を掴んで揺さぶるカカシの言を鼻で笑い、イルカはあくまでカカシの視線を避けた。
「え〜。生臭い愛なんて、俺は絶対口にしませんからね〜」
「だったら、甘くしてやる」と奇声をあげたカカシに、綱手はこめかみを押し揉む。こいつらは人の目というものを気にしないのか。
このまま放置しても面白いことは何一つ起こらず、ただうるさい痴話喧嘩が長引くだけだと悟った綱手は、早々に話を進めることにする。



「おい、思春期の難しい少女がいるんだ。言葉を慎め。それとな、イルカ。お前に任せるにはそれなりの理由がある。ツバキは対人関係に難があると言っただろ。それは、特に女と中年より上の男に激しい拒絶反応を示すんだ」
詳しく言わなくても分かるだろうと視線で告げてきた綱手に、イルカは言葉を失う。
急に黙り込んだイルカを横目で認め、カカシは厄介なことになったと内心呻いた。
両親を共に早く亡くし、自身は拷問のトラウマで対人関係に問題がある。そして、イルカの庇護をもっとも買いやすい子供。
一体どんな役満だと唾棄しつつ、カカシはとことん不利な状況下にある己を嘆く。
だいたい、イルカは子供に甘すぎるのだ。しかも子供という定義が広すぎていけない。
自分の教え子は全て子供、20歳未満も子供、知り合いの子供も子供と、イルカと付き合うようになってから、カカシの胃は度々しくしくと痛みを発する。
子供を守るのは大人の義務ですからと目を輝かせて豪語するイルカは、その子供に襲われたことが何度もある。殺傷沙汰から色恋関係まで、それはそれはとんだ危うい人なのだ。
カカシからすれば、子供だろうが何だろうが、同じ土俵にあがり、こちらへ敵意を見せるならば全て切って捨てる対象だ。
頼むから、刃物を持って威嚇している子供を抱きしめようとするなとか、あからさまに秋波を送る元生徒について行こうとするなとか、こんなこと言わなくても分かるでショと言いたいことを、毎回言って聞かせなければイルカは平気で行動してしまう。
そんなイルカを周りの者たちは、教師の鑑だ、まさに聖職者と、陰で信仰にも似た思いを集めているようだが、カカシからしたら子供馬鹿としか言いようがない。
その子供馬鹿をカカシ馬鹿にしてくれたらいいのにと、身悶えたことは数限りなかった。



しかしと、カカシは綱手と後ろに突っ立ているツバキを順に視界におさめ、鼻を鳴らす。
なーんか、気に食わないんだーよね。
確証はないが、綱手の手回しといい、ツバキというガキの存在といい、どうも胡散臭い。
直感に近いものだが、カカシはこの感覚を大事にしている。過去、何度もこの感覚に、自分の命を、仲間の命を助けられた。些細なことでもこの感覚を疑ってしまえば、今立っているカカシを否定することになる。
すでに八割方絆されかかっているイルカの様子に、カカシは腹の底から吐息をつく。厄介な人だ。だが、それもカカシを魅了してやまないイルカの一部分でもある。
こうなればこの茶番劇にある裏を調べつつ、いつものようにイルカを守るしかないと心に決めた時、カカシの決意を追うようにして、イルカが宣言した。
「分かりました。どれだけ力になれるか分かりませんが、中忍うみのイルカ、五代目のお心に添えられますよう、務めさせていただきます!!」
きらきらと輝く瞳は意気込みに溢れ、仄かに紅潮した頬はまるで少年のよう。
くっそ、可愛いなぁと思いつつ、例えどんな目に遭おうとも、イルカの意志を尊重してしまう自分に気付き、吐息を漏らすカカシであった。



******



「ツバキちゃん、ここが今日から一カ月、君が生活する家だ。遠慮しないで、何でも言うんだぞ」
町はずれにある、平屋の一軒家の玄関戸を開けて、イルカはツバキを歓迎した。
ここは、イルカの生家である。
昔の思い出が濃く残った家は、手放したいとは決して思わないが、一人で住むには辛く、長年放置していた。
だが、紆余曲折を経てカカシと付き合い始めてから、イルカの部屋に半ば強引に住み始めたカカシが、イルカの狭くて壁が薄い貧乏アパートでは色々と支障が出たことと、忍犬使いであるカカシが庭のある家に住みたいと言ったことを契機に、最近、こちらへ移り住んだのだった。
いい加減年数も経っているため綺麗とは言い難いし、風呂とトイレは共同となってしまうが、完全な個室もあるため、少しはツバキも落ち着けるとイルカは思う。
どうぞと中に入るよう勧めれば、ツバキは無表情な顔でイルカを見上げた。
「……ツバキで、いいです。お世話になります、うみの中忍」
ぺこりと頭を下げるツバキに、イルカはじんわりとしてしまう。
悲しく厳しい過去を持ちながら、ツバキはこの小さな体でどうにかしようと頑張っているのだ。自分にできることは何でもしてあげようと、心意気も新たにイルカはツバキの目線と合わせるように軽く腰を折る。
「うん、分かった。それじゃ、ツバキって呼ぶよ。俺のことも堅苦しく呼ばないで、イルカでいいんだぞ?」
もっと気安い感じにと笑みを浮かべたところで、後ろから体を引かれた。そのまま背後から抱きしめてくる存在に、イルカはため息を零す。



「……カカシさん、何ですか」
呆れたように名を呼べば、カカシは恨みがましい目でイルカを見つめ、口を尖らせた。
「何、早速絆されてんのよ。何度も言ったことあるけど、ガキはガキでもれっきとしたくノ一ってことを忘れるんじゃなーいよ。そんで……」
キッとカカシの目がツバキへと向く。
「ガキ…。イルカ先生はオレの物だ。妙な考え起こしたら、ただじゃ――」
背後から極悪な気配を発してきたカカシへ、後ろ手で拳骨を頭に落としてやった。
痛いと叫びながらも、カカシはイルカの体を離そうとはしない。そればかりか、ツバキからイルカを隠すように体を移動させて、胸へと抱きついてきた。
「もー。イルカ先生ってば、暴力的っ。照れちゃって可愛いんだから〜」
唯一出る右目をだらしなく下げて、無防備に擦り寄るカカシに思わず怯む。こうやって甘えられるとイルカが強く出られないことを知っているのか、それとも無意識なのか。
ちくしょー可愛いなと、自然と熱くなる頬を擦りつつ、にやけそうになる顔を叱咤して、鋼鉄の理性を作動させてカカシを胸から引き離した。
「……俺は物ではありません。ほら、カカシさんも上がった、上がった。三人で玄関先で突っ立ってるのも変ですよ」
カカシの肩を押して玄関框に座らせ、脚絆を解く。両方の靴を脱がせて、行った行ったと奥に追い立てようと顔を上げれば、覆面の上からでも分かるほどカカシがにやけていた。
一体何だと眉根を寄せるイルカに、後ろにいたツバキが小さく呟いた。
「……いつも、そうしてるんですか?」
イルカが我に帰った時はすでに遅く、今度はカカシが嬉々としてイルカを座らせると、脚絆を解き靴を脱がせにかかった。
「そうよ〜。一緒に帰った時は、オレのはイルカ先生が、イルカ先生のはオレがしてるの〜。まぁ、時々、それすらももどかしい時はオレが全部脱がせて、ここで」
「教育的指導っ!」
余計なことを言うなとカカシの頭をはたき、イルカはツバキに向き合う。
「ま、まま! 何だっていいじゃないか! ささ、ツバキも上がった。今日はツバキの歓迎会だから、ツバキの好物を作ろうな。何が好きだ?」
顔を赤らめ、イルカは誤魔化すように言葉を返す。ツバキは自分で靴を脱ぎ、「お邪魔します」と小さく言った後、首を振った。
「……分かりません」
顔を俯け呟くツバキに、イルカはあ、と思う。
ありませんではなく、分かりませんと言ったツバキ。
ツバキの今までの生活を垣間見たような気がして、切なくなった。
「……それじゃ、オムライスにするか。今日は特別に旗も書いて、お子さまランチ風にするよ」
暗くなる自分に取り込まれないよう、イルカはニッと笑い、ツバキの頭を撫でる。その瞬間、ツバキは身を竦ませたが、気付かない振りをして撫で続けていれば、体は緊張を保ったままだが、ぎこちないながらも笑みを見せてくれた。
人との接触は慣れていないというよりは、体が勝手に防衛反応を返してしまうようだ。
きつく手を握り、何かを押さえようとしている様を目の端で捕らえ、できるだけ接触するように心がけようと思う。
もう一撫でしようと手を浮かした直後、横から手首を捕まれた。そして、イルカの手はカカシの手によって、前かがみに腰を倒したカカシの頭へと乗せられた。





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オリキャラ出張ってすんません…。H25.5.17








誘惑 1