「……カカシさん?」
突然の行動に不審気に名を呼べば、カカシは一瞬ムッとした気配を立ち上らせ、無言でイルカの手を動かす。
大きく撫でるように上下に動かす手を見た直後、とっさに顔を背けた。カカシの意図に気付き、腹の底からぐわわと温泉が吹きあがったかのように熱くなる。
なんて、可愛らしいことをするんだ、この人は!!
ツバキの視線を感じるため、礼節ある大人の態度を崩さないよう必死で表情を戒めているが、カカシの行動によってイルカの顔は崩壊寸前だった。
ツバキがここにいなかったら、問答無用でめちゃくちゃに撫で回して、ぎゅっと抱きしめていた。勢い余って、顔中に口づけくらい降らせていたかもしれない。
イルカの手を自分で動かすカカシを窺えば、イルカが動かしてくれないことが悲しいのか、俯けているカカシの眉がへにゃりと垂れている。
その様もツボにきて、イルカはこぼれでそうになる笑いを必死で堪えた。
ツバキの目が気になるが、少しだけ、ほんの少しだけと、イルカはカカシの頭を優しく撫でる。
すると、カカシは丸めていた背をぴんと伸ばし、かすかに見える顔には喜色が広がる。もしカカシに尻尾があれば、スゴい勢いで左右に動いていたことだろう。
可愛いと感動すら覚えて笑いをかみ殺していると、服の裾が後ろへ軽く引っ張られた。
振り返れば、ツバキが所在なげな風情で俯きがちに佇んでいる。
一瞬、ツバキの存在を忘れていた己に気づき、慌ててカカシの頭から手を離して、腰を屈めた。
「ツバキ、どうした?」
イルカの問いに、ツバキは俯いたまま小さな声を漏らす。
「……私、ここにいても、いいですか?」
突然言われた言葉に、どきっと鼓動が跳ねた。
「え?」
聞き返せば、おどおどと視線をさまよわせツバキは続ける。
「綱手さまの命で、仕方なく引き受けてくれたこと、知ってます…。私、忍びとしてしか、役に立たなくて、他にできることも、なくて……。でも、あの」
視線をさまよわせ、ツバキはたどたどしく話す。
どう話せばいいのか分からなくなったのか、諦めるように口を閉ざしてしまったツバキを見て、自分が犯してしまった失態を知る。
療養生活を終えたツバキにとって、ここは隔絶していた世間と初めて触れ合う入り口だ。しかも見知らぬ大人が二人もいる、極めて緊張を強られる場所。
そこで今日から暮らさなければならないツバキの不安を、イルカは分かってやれなかった。
そして、すでに関係が出来上がっているイルカとカカシの中に入っていかなければならないツバキは、非常に居心地が悪かったことが想像できる。
それなのに、イルカはカカシの可愛さに目が眩み、一瞬でもツバキを邪魔者として見てしまった。
対人関係において過敏になっているツバキは、イルカのその一瞬の思いを感じ取ったのかもしれない。
対人関係のリハビリをするために、イルカはツバキを任されたのに、その逆をしてしまってどうする。
今、ツバキに必要なのは、固く、怯えている心を少しでも柔らかく広げてやることだ。それには、イルカが積極的にツバキとかかわり合って、人との信頼関係を思い出させなければならない。
固く縮こまっているツバキの頭に手を乗せ、ゆっくりと撫でる。撫でる度にびくつくツバキへ、イルカはゆっくりと言葉を紡いだ。
「ツバキ。ここにいる間、俺とカカシさんとツバキ、三人で家族ごっこをしてみないか?」
イルカの言葉に、ツバキの顔が上がる。
「……家族、ごっこ?」
戸惑うように呟くツバキにそうだと頷き、イルカはしゃがんで華奢な手を両手で包み込んだ。その手はイルカの手にすっぽりと入りこむほど小さくて細かった。
「最初はフリでいいんだ。それも難しいなら、俺たちをツバキの身近だった人たちに置き換えてもいい。まずは、お互いがそういう努力をしてみよう。ここを自分の家だと思って、俺たちを本当の家族だと思って一緒に暮らすんだ」
ツバキから返答はない。ただイルカの顔を見つめている。どこか困惑するような気配を忍ばせたツバキに、イルカは苦笑した。
「意味がないと思うか?」
反応のないツバキの意志を肯定と捉え、イルカは自分の考えを語る。
「俺は無意味だとは思わないし、やる価値は十分あると思ってるよ。だって、木の葉の者は皆、家族なんだから。今からやろうとしていることは、これからツバキが忍びとして、そしてツバキ自身として生きるためにも、強くなれる根っこの部分になる。やってみた結果、俺たちに家族のような感情が持てなくてもいいんだ。振りしかできなくてもいい。けどな、ツバキが本当に大切な人と出会った時、俺たちと一緒に暮らした時間がツバキにとって役に立つはずだよ」
だから家族ごっこをしようと続けたイルカに、ツバキは微かに首を傾げた。
相変わらず表情は変わらなかったが、細い眉根が少し寄せられている。
「先生、先生、オレ無視してません? もしかして無視されてますか」としきりに言い募り、背中から抱きしめてくる存在を華麗に無視し、イルカはツバキの言葉を待った。
イルカの肩口から顔を突きだし、喋りたてようとした男の口に手を当て黙らせていると、ツバキの口が開いた。
「……忍びとしての適正と、どう関わるのか、理解できません。それに、……そんなこと、言って、いいんですか?」
積極的にイルカと会話をする気になったのか、こちらに質問を投げかけてくるツバキの変化に、イルカは嬉しくなる。
促すように見つめてやれば、ツバキは視線を落とした。
「うみの中忍が気に入るよう、取り繕うこと、簡単です」
きゅっと唇を噛みしめる様に、イルカは破顔する。カカシの口を塞いではいない手で、ツバキの頭に手を伸ばし、イルカは声を上げて笑った。
ツバキは、イルカの見る目がないことを綱手にバレてしまうことを危惧しているらしい。
対人関係に問題があるとは言っていたが、ツバキは人を思う気持ちを持っている。
「バッカだな。子供はそういうことまで考えなくていいんだよ」
笑いながら強めに頭を撫でる。
容赦なく手を動かせば、ツバキの黒い髪が右に左に流れて、きれいに揃えられていた髪はあちらこちらに乱れた。
一瞬だが、むっとした表情を作ったツバキに、すまんすまんと謝り手を退ければ、ツバキは手櫛で素早く髪を整え始める。
この時点で、ツバキはいずれ忍びとして復帰できるだろうことを、イルカは確信する。けれど、せっかくなので、ツバキが家族ごっこに専念できるように、発破をかけてやることにした。
「じゃ、ツバキ。家族ごっこで俺を完璧に騙してくれよ。そうしたら、五代目に胸を張って大丈夫って言えるし、ツバキだって自分の思い通りになっていいだろう?」
破格の提案に、ツバキは再び無表情になる。きっと裏があるのではないかと必死に考えているのだろう。
イルカはくすくす笑いながら、ふと懐かしさを覚えた。
カカシと出会って間もない頃も、イルカが何気なく言った言葉に、カカシは顔色を変えずにしきりと動向を探るような言動を返してきた。それも、カカシが少しでも得をする場合は、何気ない会話に尋問内容をよく忍ばせては答えさせられた。
喉が渇いたとぼやいたカカシに、自分が飲もうと買っていたお茶を未開封のままあげた時も、カカシはイルカの今朝から今までの行動をしきりに聞き、忍犬に裏付けをとらせ、お茶をあげるだけの行為が大事になったことは、今では良い思い出だ。
カカシの場合は、高名なために里内でも危険があるが故の仕方ない処置なのだろうが、その頃のイルカには里内の仲間を疑っているカカシがカルチャーショックもいいところで、半ば意地になってカカシに自分は安全な仲間だということを主張すべく、必死こいてアピールした。
それがきっかけで仲良くなっていき、気付けばカカシの恋人になっているのだから、人生何が起こるか分からない。
イルカにとっては予想外の展開だったが、カカシは可愛いし、イルカはカカシの恋人になれて良かったと思っている。
もがもがと未だ喋りを止めない背後のカカシに、相変わらず可愛い人だなと忍び笑いを漏らしつつ、ツバキに視線を移す。
いくら考えても裏を想像できなかったのか、ツバキは諦めたように息を吐くと、一つ頷いた。
「分かりました。……やってみます」
良かったと笑い、イルカは早速具体的な話をすることにする。
「じゃ、役柄でも決めるか。ツバキにとって俺とカカシさんはどういう位置具合だ?」
「ちょ、んもがんが、が、むむむ!!!」
問うた瞬間、カカシの口の動きが激しくなった。それを押さえ込もうと、両手でカカシの口を塞ごうと格闘していれば、ツバキはしばし考え込んだ後、質問してきた。
「家族同然だった相手でも、良いですか?」
「いいぞ。って、カカシさん、ちょっと落ち着いてくださいって!!」
黙っていられるかとばかりに、イルカの手を剥ぎにかかるカカシと揉めている最中、ツバキは一度頷いた後、無表情な顔で言った。
「では、イルカさんは、お隣で兄妹同然で育った私の初恋相手のお兄さんで、はたけ上忍はお隣で飼われている、お兄さん大好きなあまり私に絶対懐かない愛犬ポチで、お願いします」
深々と頭を下げるツバキに、カカシの妙に合致する配役にイルカは爆笑し、カカシは怒り狂った。
ここのカカシとイルカはラブラブです。