「アンタ、本気でやるつもり?」
両腕を組み、カカシは洗い物をしているイルカの背後に立った。
イルカは暢気なもので「やりますけど、それが?」と何の危惧も覚えていない様子で、カカシに聞き返してくる。本当にイルカは何も分かっていない。
皿を洗うイルカの隣に立ち、一人でやれますよというイルカの言葉を無視して、夕飯の汚れ物を一緒に洗う。
いつもは食事を作らない方が皿を洗う担当だが、配役が犬になってしまったカカシは、料理を作らなくてもよくなり、かつ食器洗いも、洗濯物も、風呂掃除も、部屋の掃除も何もしなくていい存在となってしまった。
そのカカシの代わりを担当するのはツバキで、家事でも何でもソツなくこなすカカシの力量に劣るようだったら、犬の配役は返上してやると息巻いていたのに、蓋を開ければツバキはカカシ以上に家事をこなした。
「やっぱり女の子が台所に立つと華がありますねぇ」と夕飯を作るツバキの後ろ姿を見て、イルカは朗らかな笑みを浮かべていたが、カカシとしては脅威以外の何者でもなかった。
イルカが家族ごっこをしようと言った時点で、カカシの危機センサーは大振りに反応を示していたが、それを利用して、この家のもう一人の主たる自分を排除せんばかりか、成り代わろうかとするツバキのやり口に、腸が煮え返る思いだ。



「だいたい、どうしてオレだけ犬なの!! それってどんな差別よ?!」
数時間前に抗議したことをもう一度口に出せば、イルカははきはきと答えた。
「ツバキが家族以外で身近な人を、あれ以上思い浮かべられないんだから、仕方ないじゃないですか」
皿を洗う手はきびきび動き、鼻歌でも歌い出しそうな空気に、カカシは横目で睨む。
「……随分と機嫌がいいですね」
あのガキの初恋相手になれたことがそんなに嬉しいのかと、とげとげしく睨んでいれば、イルカは何かを感じたのか、慌てて否定してきた。
「ち、違いますよ! ツバキがカカシさんを隣の家の犬ぐらいの感情しか覚えてな……、いえ、これなら変な間違い犯さな……って、違いますよ! これは一応任務なんですから、任務の遂行上、円滑に進ませるには必要なことで、だから良かったと思っているだけで!!」
急に手元と口が慌ただしくなったイルカに、ぽかんと口が開く。
カカシに凝視され、イルカは見る間に顔を赤らめ、失言したとばかりに顔を俯けた。
耳まで真っ赤になっているイルカに、ふわふわした甘い感情が胸を満たす。
つまりは、イルカはツバキがカカシに懸想する心配事がなくて、上機嫌なのだ。
年下の女から思われて有頂天になっていたのだと思っていたのに、イルカはツバキよりもカカシのことをずっと考えていたのだ。
イルカの心にはカカシしかいないのだと告げられた気がして、カカシの機嫌は上向く。
未だにカカシがよそ見すると思っているのは心外だが、そんな可愛いことをされて、カカシはじっとしていられなかった。



いつもより食器洗剤を多く使い、食器が見えないほど泡を作って食器を洗うイルカへ、甘えるように体をもたれさせる。
「な、なんですか。重いですよ」
ぎこちない調子で返ってきた言葉に、内心、くすりと笑いながら、カカシは泡まみれの手を水で流し、蛇口をひねって水を止める。
不思議そうな顔を向けたイルカに笑みを浮かべ、そっとイルカの後ろ髪に触れた。途端に、びくりと大げさに跳ねるイルカの耳元へ唇を寄せ、甘く囁く。
「なーんか、嬉しくてムラムラしてきちゃった」
髪に触れていた手を下ろし腰を抱き、若干もよおしている下半身を故意にぶつければ、イルカの顔は瞬時に赤くなった。
目を見開き、絶句したように黙り込むイルカの反応に、いけるのではないかと甘い予感を覚える。
邪魔者のツバキは今、風呂だ。女は大抵長風呂が相場だし、見積もってあと30分くらいは猶予があるだろう。
甘えた口調で「ねぇ」と囁き、耳へ息を吹きかければ、イルカの体が震え始める。
「や、あの、ツバキがいますし……まだ食器が…」
逃げるように腰を引くが、その力は弱々しい。
嫌な時や駄目な時は、本気で抵抗してくるから、もう少し押せば流されてくれるだろう。
もしかして、ツバキがいることで妙な刺激になってるのだろうか。他人、しかも、イルカが大事に思う子供がいる状況下で、危ない橋を渡るスリルに興奮しているのかもしれない。
このときばかりはツバキの存在に感謝しつつ、嫌がっていないのならおいしくいただいちゃおうと耳をかじった。止めていた手を動かし、引き締まっている太股を撫でれば、手の下でびくびくとイルカの体が跳ねた。
「カ、カシさん」
吐息と同時に、咎めるように名を呼ばれた。でも、嫌がっていない。その証拠に、イルカのものもゆっくりと反応し始めている。
イルカの興奮具合を確認しつつ、首筋を舐めて、喉元を軽く吸う。押し殺した吐息が、カカシの欲を煽る。アンダーをたぐり寄せて、素肌に触れようとすれば、イルカは我に返ったようにカカシの腕を掴んできた。
「だ、駄目です、カカシさん…!」
目元を赤く染め、制止の声をかけるイルカの言葉は全くもって意味がない。
中途半端な嫌がり方をされれば、男の本能は止められなくなるというのに天然って恐いなぁと笑う。
なおも嫌がる言葉を吐く唇を塞ごうとした、そのとき。



「ポチ、おいたがすぎます」
背後から水が浴びせられた。



忍びの性で、とっさにイルカを抱え込んで瞬身したから良かったものの、二人がいた場所は水浸しになった。
イルカは今度こそ我に返ったようで、「やべ」と一声叫ぶなり、泡だらけの手でカカシの顔を押しやり、雑巾雑巾と口走りながら走り去ってしまう。
カカシでいっぱいだったはずのイルカの頭が雑巾に占拠され、カカシは引き留める言葉さえ出せずに見送ってしまう。
絶好のチャンスを逃してしまうなんて、本当にあり得ない。
それもこれも全てお前がいるせいだと、やるせない思いを瞳に込め、カカシはツバキを睨んだ。
「……お前なぁ…!!」
後少しでめくるめくいけない台所情事ができたのにと、慨するカカシに、ツバキは風呂桶を脇に持ち、無表情の顔で告げた。
「人としての道は外させません。私の目が黒いうちは、イルカさんに獣姦なんてことさせませんから」
当然のように言うツバキに、カカシの頭の血管はぶち切れそうになる。
犬設定はツバキが押しつけたことであり、あまつさえその設定を守り、二人の愛の交歓を獣姦呼ばわりするとは!!
「ガキ…。イルカ先生が優しいからっていい気になってると、痛い目遭わせるぞ」
頭二個分低いツバキを見下ろし、本気の殺気を差し向ければ、予想に反してツバキは平然とした顔でカカシを見つめた。そして、小さく息を吐き、年寄りじみた口調で呟く。
「……やれやれ、写輪眼カカシともあろうものが」
無表情だったツバキの顔が、目の前で感情のあるそれに変わる。
豹変したツバキに、ずっとくすぶっていたカカシの疑惑は確信に変わる。
対人関係のリハビリだ、忍びとしての適正を見極めろとか言っていたが、綱手とグルになってこいつは何か違う目的で動いている。
一体何が目的だと切りこむように視線を向けたカカシへ、ツバキはイルカが駆けつけてくる気配を認めると、一度イルカの方向へ視線を向け、再度カカシに戻すと、少女には似つかわしくない妖艶な笑みを浮かべた。
目は口ほどにものを言う。
カカシの天性の勘がけたたましい警鐘を鳴らした。間違いない。こいつ、イルカ先生を誘惑するつもりだ!!
あまりの衝撃に言葉を失ってしまう。
頭の中では、だからこんな任務引き受けるんじゃないよとイルカに怒りを覚えるカカシと、あの純情無垢でお人好しで過激に可憐でくノ一の対処経験値皆無なイルカが、海千山千のくノ一相手に落ちないわけがないと恐怖に引きつるカカシがいた。
こうなれば、話は別だ。
古来から伴侶を得るものは、勝者ただ一人と決まっているのだから。



ごぅんと空気さえ震える殺気を漲らせ、カカシは意識を変える。
ツバキの華奢な体に視線を向け、脳裏でツバキの体を切り刻む。
この場で半殺しにして二度とイルカに近づくことができないようトラウマを与えてやろう。
綱手に唆されたのだろうが、了承した愚かな自分を恨むがいい。イルカに手を出そうとする者は、誰であろうと容赦はしない。
袖に隠し持っていたクナイを握り、顔色を変えて震えるツバキに迫った瞬間。



クナイが華奢な腕を飛ばす前に、大きな影がカカシの視界を埋め、その身を投げ出した。
反射というより本能がカカシの腕を止める。
大きく手足を広げ、カカシを受け止めるように体を広げたイルカの胸の前、心臓に近い場所を貫く寸前で、クナイは止まっていた。
髪の毛すら入らない隙間を残し、止まった切っ先を認め、カカシは詰めていた息を吐く。
遅れて這いあがってきた恐怖に鼓動が激しく波打つ。喉からこぼれ落ちそうな心臓の音に、カカシは服をかきむしるように掴むと、馬鹿なことをと怒りの声をあげかけた。



「大馬鹿もんがーーーっっ!!!」
顔を上げて詰ろうとした声は、それより上回るイルカの大音声にかき消される。そして、続いて落ちてきた痛みに声のない悲鳴をあげた。
あまりの痛さに頭を抱えてしゃがみこむ。痛みで涙がこぼれ落ちそうだった。
それでもイルカの行動が許せなくて、その場で顔を上げれば、怒りで真っ赤になっているイルカの顔とかち合った。
眦はきつくつり上がり、いつも優しい色を湛えている黒い瞳は激しい感情の色で染めあがっている。
本気で怒っているイルカの姿に、カカシは動揺する。イルカに叱られたり怒られてばかりのカカシだが、それはカカシを思ってくれているからのもので、カカシに対して純粋な怒りだけをぶつけるイルカは、中忍試験の言い争いの一件以来のことだった。
カカシの頭を占領していた怒りが消えてなくなる。代わりにわき起こったのは不安と悲しみで、突然襲った感情はカカシの声を消してしまう。



怒りの形相で立っているイルカを見上げていれば、イルカの瞳に浮かんでいた強い光が急に勢いを無くし、眉根を下げ唇を震わせ、くしゃりと顔を崩した。
一転して泣きそうな、悲しみの満ちたイルカの表情に、カカシの心臓が別の意味で跳ね上がる。
頭の痛みも忘れ、今にも崩れ落ちそうなイルカを支えようと肩に手を伸ばせば、イルカに手を跳ねつけられた。
弱々しく、音さえも鳴らない動きだったのに、カカシの心臓は鋭い痛みを覚えた。
いつも受け入れてくれた手が拒絶する様を信じたくなくて、偶然かち合っただけだろうと、なけなしの勇気でもう一度手を伸ばせば、イルカは痛いと叫んでいるような顔を向け、カカシに言った。
「……今は、触らないで、ください」



鼻を鳴らし大粒の涙を目元に湛え、カカシを見た後、イルカは力なく顔を俯けた。
「……ツバキを預かっている間、カカシさんは自宅に帰ってください」
突然の発言に、カカシはなんでと思う。それを察したのか、イルカは震える息を吐いた。
「あんたが、ここまでするとは思っていませんでした…。俺は、自分の認識を誤っていました。ごめんなさい、カカシさん」
カカシは行き場を無くした手を掲げたまま、イルカを見下ろす。
妙に静まり返った空気の中、イルカの鼻を啜る音がこだましていた。イルカは袖で何度も顔を拭い、一つ息を吐くと、吸うと同時に背筋を伸ばし、カカシへ強い意志のこもった眼差しを向けた。
「ツバキに危害を加える以上、今は、あんたと一緒に暮らせません」
きっぱりと言い切った言葉に、反論の余地はなかった。
名前を呼ぼうと喉を開いたが、カカシの声は一向に出てくれない。
そうこうしている間にイルカはカカシの腕を掴み、玄関へ連れていくと、何も言わずカカシを座らせて靴を履かせた。
「カカシさん」
イルカが名を呼ぶ。頭がうまく回らない。ぼんやりとしたカカシをイルカが手を引っ張って立たせ、玄関戸の前に追いやる。
玄関の格子を見て、自分が追い出されようとしているのだと自覚したカカシは、勢いよく振り返った。



「イルカ先生……」
きっとひどく頼りない顔をしているのだと頭の片隅で思いながら、寂しそうに、困ったように軽く眉根を潜ませているイルカを見た。
「今生の別れじゃないんですよ。そんな悲しそうな顔しないでください」
カカシの情けない顔が哀れに映ったのか、イルカが歩み寄り、カカシを抱きしめてくれた。でも、イルカは慰めてくれても、カカシを引き留めてはくれない。
その事実が悔しくて、悲しくて、カカシはイルカの肩に顔を伏せて、イルカの体温にしがみつく。
「カカシさん。この任務が終わったら、また帰ってきてください。俺、その日を待ってますから」
イルカの声は優しい。それが逆に胸を締め付ける。
一度決めたことは決して翻さないイルカを知っているから、力ずくでも何をしてもイルカの心は決して変わらないから、カカシは何も言うことができなかった。



何でこんなことになったのだろうと思った。
カカシにはイルカが必要で、イルカもカカシが必要なのに、どうして一時とはいえ離れなければならないのだろう。
答えは分かっているのに認めたくなくて、惜しむようにイルカの体温を覚え込む。そのとき、廊下から微かな気配を感じた。
そっと目だけあげて窺えば、憎たらしいほどに勝ち誇った笑みを浮かべたツバキがカカシを見つめていた。
まさか、あのガキ。全て仕組んで……!!
腹の底から殺意が芽生えてくるが、再びイルカにあんな顔をさせたくなくて、カカシはどうにか殺意を押さえ込む。
小賢しい敵を前に、カカシは決意した。
上等だ、くそガキッ。目にものを見せてくれるわ!!



射殺さんばかりにツバキを睨んだ後、カカシはイルカの体を引き離す。
「分かったーよ。辛いけど、しばらくこの家には寄らないことにする」
安心してと小さく微笑みかければ、イルカの顔に悲しみが広がる。
カカシの方が追い出されるのに、イルカがそれよりももっと辛そうな顔をしている。なんだかんだいって愛されてるんだよなと自分の心を慰め、カカシはイルカの頬に手を寄せる。
「しばらくここじゃできないから、いい?」
何を言われているのか気づいたのか、イルカはさっと頬に朱を染め、ぎこちなく頷いてくれた。
「ありがと」と小さく呟き、ゆっくりと顔を近づける。
恥ずかしいのか視線を伏せていたイルカの瞼がゆっくりと閉じるのを見つめながら、唇を合わせた。
始めは軽く、徐々に深く。
啄むと震える睫を可愛いと思いながら、もっとイルカを感じたくて、カカシも目を閉じる。
イルカの存在がぐっと近くなった気がした。
お互いの咥内に舌を滑り込ませ、飽きることなく触れあわせる。
「ん」
小さく鼻にかかった声に欲が煽られたが、さっきのこともあり、押し倒そうとする不埒な体を無理矢理抑え込む。
あそこでもう少しツバキが遅かったら味わえただろう、イルカの痴態と甘い接合を惜しく思いつつ、その代わりに口付けを濃厚なものへと切り替えていく。
本当は全て欲しい。イルカの全て、丸ごと欲しい。全てのものと引き替えに得られるのなら、カカシは迷いもなく全てを捨ててイルカの手を取る。でも、そんなに欲張ったらイルカは泣くから。悲しいことを言うなと、痛いほどに傷ついた顔をして泣くから、カカシは口に出せないでいる。



「イルカ先生、好きだよ。オレにはあんたしかいないこと、忘れないでね」
ありのままには言えないから、本気を滲ませ、少しだけ茶化して告げる。
激しい口付けから解放されたイルカは、カカシが抱き込んだままの状態で大人しく身を預けてくれていた。
「……また、あんたはそういうことを」
息を弾ませ、イルカは呆れたように言葉を漏らす。
「本当だも〜ん」
ちゅっと最後に鼻先に口付けを落として、今度こそ体を離した。
縋りついていたイルカの指先が落ちるのを寂しく思いつつ、口布を上げる。視線をイルカに合わせれば、イルカは口を真一文字に締めて、カカシの動向を見守っていた。
イルカだって寂しいのだ。
自分一人だけではないことに少し励まされ、今度こそカカシは踵を返し、玄関戸を開ける。
「じゃ、任務終了後に、また」
わざと振り返らずに告げれば、イルカの小さく息を飲んだ音が聞こえた。何か葛藤しているのか、少し時を置いて、イルカは「はい」と一言答える。
これで、イルカとこの家で会うのは一ヶ月先のこととなった。
一息に駆けて、イルカの家から出る。
「……カカシさん!」
思わずといった風に名を呼ばれ、少しばかりの感傷に浸る。イルカの側で生活できない一ヶ月はどれほど辛いことだろう。
自分のイルカへの傾倒ぶりをまざまざと実感しながら、カカシは跳んだ。








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カカシ先生、してやられるの巻。H25.5.17





誘惑 3