一度目にしたら、駄目だった。
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腹に抉り込まれた拳が意識を途切れさせる。だが、頭に走った鮮やかな痛みを前に、安息の地は遠のいた。
前髪をわし掴まれたまま持ち上げられ、呻き声がこぼれ出る。
根本からぶちぶちといった嫌な音が耳に届き、俺は怒りの声を上げた。
くっそ、前方後退予備軍としては死守しなくちゃなんねー部位だってぇのに、豪快にぶちぶちさせやがって!! テメェなんざ、てっぺんからヤラレちまえっっ。
唸るようにわめき立てるものの、悲しいかな。俺の声はちっとも音として出てくれない。
気合いを入れて口を開こうとしても、出るのは呻き声ばかりで俺のやる気を殺ぎまくる。
だが、男たるもの、どんな苦境下においても心は屈せず。
絶対、負けるものか。
こんな訳の分からない男に、屈してなるものか!
ここ数日、俺を闇討ちしてくる、里の名高い上忍を睨み上げ、俺は負けん気を奮い起こした。
この闇討ち男の名前は、はたけカカシという。
今年卒業させた生徒が、下忍に合格したという嬉しい知らせと一緒に、自分たちの師となる男を紹介してくれたのが、俺と男の初顔合わせだった。
上忍とは思えない気さくな態度と、周囲を包む柔らかい空気に、そのときの俺はころっと騙された。
格下の俺を先生と呼び、子供たちについて相談に乗ってくれと頭を下げる男に、俺は乞われるがままに男の相談に乗った。
回数が重なる毎に、いつしかそれは日常となり、男と一緒に食事をとるようになった。
食事が一緒ならば、酒が入る日もあり、会話の内容も子供たちからお互いの話をするようになり、相談役と言うよりは、友人に近い間柄となっていた。
「イルカ先生」とはにかみ、俺の名を呼ぶ男に、上役である男と、階級を越えた友情が芽生えかけたと思えた矢先。
男は豹変した。
その日、男は任務に出ていた。
その頃には、お互い一人身なことも手伝って、ほぼ毎日一緒に食事をするようになっていた。
男は出立する前日、しばらく里を空けると言った。受付を介さないそれに、俺は少し動揺しつつ、帰ったら、好物こしらえますよと返した。
男が無事に戻ってこられるよう、励ましのつもりだった。だが、よく考えてみれば、そんなことを男へ言ったのは初めてのことで、ともすれば、ここに帰ってこいと言ったも同然で。
そのときの俺は全く気づいていなかったのだけど、男が少し驚いた顔をしたのは、そういう意味に捕らえたからなのだと後になって気づいた。
でも、その後、男は頷いてくれた。
楽しみにしてますと、笑ってくれた。
男の笑顔があまりに嬉しそうだったから、俺は単純に喜んでいた。
男が出立して、三日後のこと。
里の上空にあがる半月を眺め、気楽ではあるが味気ない夕飯に何を食べるかと考えながら俺は夜道を歩いていた。
子供たちが日頃から歌っている、戦隊物の歌を口ずさみつつ、任務に出ている男の無事を願っていたとき。
「こんばんは、イルカ先生」
後ろから声がかかった。
気配の欠片も感じなかったことに、一瞬肝を冷やしたが、聞き覚えのある声に胸をなで下ろした。
男が無事に戻れたことを嬉しく思い、出立間際に言った約束を叶えようと振り返ろうとして、体が止まった。
影が走った直後、絡みつくように首へ回る腕。
草木と土の匂いに混じって、生々しい臭いが一瞬鼻を掠め、背後から密着してきた体に動きを制された。
「え?」
視線の先には、声をかけようとした人物はおらず、上空から差し込む光が薄ぼんやりと道を照らしている。
目の前にあるはずの通勤路が、やけに遠く感じた。
慣れ親しんだ景色から切り取られたかのような疎外感。
現実から置き去りにされた気分に陥り、わんと視界がぶれた。
首に回った手が持つのは、柄底に丸い輪のついたグリップで。その先に続く、鋭い切っ先を首もとに押しつけていて。
何かの間違いだろうと、自分の身に起きたことが理解できずにいると、男がそっと囁いた。
「動かないで、イルカ先生。死んじゃうよ」
気安い調子を多分に含んだ言葉だった。
自分を呼ぶ名も、発せられた言葉も、出立前に聞いた声と同じで、違和感はない。
それが、逆に恐ろしく感じた。
暴れるように騒ぎだした鼓動に反応して、手足が出そうになったが、ひたすら耐えた。
今、明確なことは、男は俺を今すぐにでも殺せるという事実だけだ。
毎日飯を食ってたとか、友人関係を築けたとか、そんな関係性は露ほどに役に立たず、俺は野生の獣に喉笛をゆるく噛まれていた。
硬直した体に、じっとりと汗が浮く。
男は俺が抵抗しないことを悟ったのか、小さく息を吐いた。
「物わかりが良くて、助かるよ。ちょっと確かめるだけだから」
そう言いながら、男は静かにクナイを引いた。
頸動脈の上にある薄皮を削ぐように。
男が戯れに刃を押し込めば、致命傷になりうるだろうそれに、息が引きつる。
自然と早くなる呼気に、男はいい子と囁き、頭を撫でた。
つつっと動く冷たい切っ先と、なだめる男の声に、混乱する。
訳が分からない。
沸き上がる唾さえ飲み込めずに、ただ体を押さえることに必死になっていると、男が肩口から覗き込んできた。
覗いた右目が細くたわむ。
男は口布に人差し指を掛けるなり、ゆっくりと引き下ろした。
食事をするようになって見慣れた男の素顔。
現れた口端には笑みが浮かんでいて、怯える俺を見て、嬉しそうに笑っていた。
出立前に言った言葉に笑ってくれたように、あのとき見た笑みと寸分違わない笑みを浮かべ、俺に視線を投げかけていた。
ひっと喉が鳴った。
瞬間、覚えたのは、未知なものに対する恐怖で。
今まで接し知った男の人柄や、在り方を、根底から覆すには十分だった。
首筋に突きつけられたクナイの存在すら忘れ、男の拘束から逃げようとした俺に、男は窘めるように言った。
「駄目だーよ。後少しだから、我慢して。今は、確かめるだけにしとくから」
嬉しそうに笑う男の言葉に何か言った気がする。
「やめろ」とか「どうして」とか、そんな言葉だった気がする。
めちゃくちゃに暴れて、張り付く男の体を遠くへ引き離そうとした。背後から密着した男の存在が恐くて、俺は泣きながら言った。
「嫌だ」と。
その直後、首筋が焼け付いた。
突如走った熱と、その後に続く痛みに息が止まって、混乱の中、視線を走らせた。
そこには、首筋に顔を埋めている男がいて、熱と痛みを感じる理由を頭の片隅で考える俺の目の前で、男は顔をあげた。
薄い唇にべったりと朱をつけ、男は舌で舐めとりながら、俺を見てこう言った。
「あぁ。やっぱりあんただ、イルカ先生」
柔らかい笑みを張り付け、顔を近づけてきた男は、血生臭さの残るその口で、俺の唇を噛み切った。
後のことは、よく覚えていない。
友人だと思っていた奴に、首を噛みちぎられ、唇を噛じられ流血惨事になったという現実は、俺の慎ましやかな日常からぶっ飛んでいて、繊細な俺の理性は断固拒否したらしい。
気づけば、俺は朝の光に包まれた自宅のベッドの上にいた。
起きた直後から、首筋と唇がまず痛みを訴えてきたが、その箇所には丁寧な手当てが施されていた。
しばらくベッドの上で頭を抱えていたが、夢や幻にしては、生々しいほどの記憶と痕跡が残っているため、俺は現実逃避をし損ねた。
男に会うことがとにかく恐くて、本気で登校拒否しようと思ったぐらいだが、俺を待つ可愛い生徒たちに心配させてはならぬと、自立ある大人として外に踏み出した。
唇のガーゼは外したものの、首の包帯は取れずに、だいぶ目立ってしまったが、心配する子供たちと同僚たちにはでかい野犬にじゃれつかれたと言っておいた。七割くらい嘘だが、あながち間違ってはいない。
いつ男が現れるか、俺は内心で超絶にビビっていたが、男がアカデミーや受付所に現れる気配はなく、無事に一日の業務を終えることができた。
拍子抜けしたものの、昨日はどこか虫の居所が悪かったのだろうと結論づけた。
八つ当たりする相手がいなくて、気安い俺にちょっと当たってしまった。
八つ当たりすんなよとまず思うが、うん。きっとそう。昨日のは、きっとそういうことに違いない。
まだ会うのは恐いが、そのうちばつの悪い顔を晒して「ごめんなさい」と謝ってくるんじゃないかと思った。そのときは、拳骨一発落として仲直りしようと、俺は楽観的に考えていた。
男のあのときの行動は心底恐かったが、男と過ごした居心地のいい時間を失うのが、惜しかったのだ。
でも。
「こんばんは、イルカ先生」
再び昨日と同じ道を、戦隊物の歌を口ずさみながら帰っていると、後ろから声を掛けられた。
まるで昨日をなぞるような現れ方に、考えるより先に体が固まった。
月明かりのささやかな光が、前方の道を照らす。
周囲に人の気配はなくて、少し早くなった俺の呼吸が聞こえた。
俺が感じられないだけで男は後ろにいるのだろうと想像がついた。
そうしたら、我慢できなかった。
振り返りもせずに、走った。
振り返れば、また昨日のようなことが起きると、確信もなく思った。
身が竦むような恐怖に駆られ、全速力で逃げた俺に、男は気配もなく俺の耳元に声を落とした。
「逃げるなんてひどいなー、イルカ先生」
手首に何か触れるなり、体が宙に浮かび、投げ飛ばされた。
あっという間の出来事で、受け身を取ることさえできなかった。
背面を壁に打ちつけられ、息が詰まる。
それでも次にくるものが分かっているだけに、横へと避けることができた。
遅れて聞こえてきた鈍い音を耳にしながら、前に飛び込んで男と距離を取る。
むせそうな気管を根性で大人しくさせ、俺は男と対峙した。
「カカシ先生……」
咎めるように名を呼ぶ俺に、男はほんの少し壁にめり込ませた拳を引き抜きながら、振り返った。
「先生、逃げちゃダメでショ。傷つくなー。ようやく、分かったのに」
手を軽く振り、俺に笑いかける男に、実践さながらに構えた。
親しみのこもった声音や穏やかな気配は変わらないが、ここで気を抜けば、昨日のようなことになりかねない。
はっきり言って、あれは暴力だ。人を傷つけるだけで何も生まない、無意味な力の行使。
ここで男にそのことを告げることは、今の関係を壊してしまうと分かっていたが、不穏な気配を漂わせる男を前に、俺は覚悟を決めた。
「一体、どういうつもりですか? 昨日のアレと、今日のそれ。一体、何のつもりですか?」
昨日だけならば、適当な理由をでっちあげて納得することができた。だが、今日も続けて俺を襲う男の考えが読めない。
「俺が何かしましたか? カカシ先生を不快にさせるようなことを、してしまいましたか?」
それでも、自分の非が原因ならそれを取り除いて、元の関係を続けたかった。
はたけカカシという男は、俺にとって日常の一部になっていた。
毎日共に食事をして、隣にいることが自然な、そんな存在は、九尾の事件以降、俺にはいなかったから。
懇願に近い思いで言った俺の言葉に、男は驚いたように唯一覗かせる瞳を広げた。
「不快? 逆ですよ、イルカ先生」
男の言葉が理解できなかった。
戸惑う俺に男は笑い、うっそりと唇を広げた。
「あぁ、分からないんですね? オレの行動の意味が。だったらーー」
男の姿が消えた。
男の姿を追い求めようとして、視線を動かした直後、男は俺の目の前に現れていた。
青灰色の瞳がきれいに弧を描く。口布の上からでも分かるほどに唇をつり上げながら、男は言った。
「分かるまで、教えてあげーる」
それからだ。
男は俺を闇討ちするようになった。
どうしてと疑問の声をあげる俺を殴り、蹴り、時には噛みつきながら、男は問いかける。
「分かった? イルカ先生」と。
男が何を求めているのか、何を望んでいるのか、全く分からない。
俺は男と意志疎通ができず、ただ意味の分からない暴力に晒され続けていた。
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始まりました、キリリク! この度のイルカ先生は体が傷つきます…orz
鬼畜なカカシって、むずかしいです。はい。
白光1