「ぅっ」
小さく息がこぼれ、体が折れ曲がった。
昼に食べたうどんがと一瞬思うが、あらかた消化し終えたらしく、逆流したのはほんのわずかですんだ。
男の不在時以外は、毎夜といっていいほど襲われるために、昼は消化のいいもの、そして間食はとらないと徹底した甲斐があったものだ。
俺の内心のしてやったり感を察することもなく、男はバカみたいにばかすか腹を殴ってくる。
くっそ、ホントにこの男は容赦ねぇな!
髪を掴まれたままだから頭は痛いし、重い一撃を連続で加えてくる拳は岩みたいに固い。
いてー、マジでいてー、つか、気持ちわりぃ。


途中休憩いれてくる合間に呼吸を確保し、体力の温存に努めようとするが、もう少し休んだら回復するという直前を見切って、再び人間サンドバックに精を出してくる。
う、あ。きょ、今日はここらが限界か……。
揺れる視界に、光が明滅する。
意識が無くなりかける俺に、男は吐息を交えて呟いた。
「ねぇ、分からない?」
くっそ、分かるわけねーよ!
胸の内で唸りながら、目の前が暗転した。


******


ぴちゅちゅちゅと、鳥が羽ばたきながら鳴く声を聞きつけて、ぱちりと目を覚ました。
起きあがろうとして、腹に貫いた鈍痛に声無き悲鳴を上げる。しばし宙を足掻いてもだえ苦しんだ後、ゆっくりと体を起こした。
「……また、か…。またなのか…」
起きあがれば、髪は解かれ、俺の体は寝間着に着替えられ、腹あたりのボタンを外せば、昨日殴られたところを重点的に白い包帯を巻き付けられている。薬草の青臭い香りが、手当をしていることを告げていた。
よろけつつも、寝室から居間へと移動すれば、卓袱台には、一枚のメモと消炎鎮痛剤のカプセルが一つ置いてある。
メモには、『おはよう、イルカ先生。昨日は少し頑張り過ぎちゃったかな。夕飯作ったけど食べられないだろうから、冷蔵庫に入れといた。朝食に食べてね。また、夜に来るね』と書かれている。
男の性別と、自分の体を苛む痛みをまるっと無視すれば、朝からにやにやしてしまうこと間違いなしの文面だろう。しかし、現実は無情なもので……。
改めて俺は思う。
あの男、マジで分からん。


犯行予告文とも取れるメモに、そら恐ろしさを覚えつつ、冷蔵庫に入っていた、ラップに包まれた食事を電子レンジに放りこむ。
温め終わった食事を取りだし、食べ物に罪はないと合掌して美味しくいただく。
今日は、知らない魚の甘辛煮に、菜っぱのお浸し、なすと豆腐の味噌汁と漬け物、ご飯だ。
男と飯を共にしていた時は、もっぱら俺が作っていたが、こんなにうまいものを作れるなら最初からーー。
そこまで考えて頭を振った。
どうかしている。
俺は男の暴力の被害者で、男は俺に暴力を加えている加害者だ。
その関係の中で、どうやって昔のように戻れるのだろうか。
今まで美味しく感じていた料理が、途端に苦々しく感じる。それでも無駄にはしたくなくて、口の中に詰め込むように入れて、味噌汁で流し込んだ。
「……期待なんてすんな」
飯を作ってくれるのも、怪我の手当をするのも、碌な目的ではないはずだ。もしかしたら、長くいたぶる為にしていることなのかもしれない。
「もう俺の知っているカカシ先生じゃない」
嬉々とした表情で拳を振るう姿は、狂っているとしか言いようがない。足掻く俺を見つめる瞳が笑みを作る瞬間は、悪魔だとも悪鬼だとも思う。
敵わないと分かっているが抵抗してしまう俺を、失神するまで殴りつけてくる男の理由は、全くもって思いつかない。
今まで何度も疑問を投げかけたが、男は俺の言葉を聞かず、俺を傷つけることで答えとした。
今では男にどうしてだなんて聞く気も起こらない。
ただ、男の暴力を前に、無様な姿は晒すまいと抵抗し続けている。
一体、いつ終わるのか。
男の気まぐれならそれでいい。だが、これがずっと続くならば……。


「これ以上は、無理だな」
食器を洗い場に持っていき、水を溜めた桶につけた。
忍び服に着替えた後、顔と歯を洗い、手早く髪を縛る。
鏡に映る自分を睨み、意識して声を張った。
「情けは捨てろ! いいな、イルカ!!」
ぱんと両頬を叩いて、教材の入った鞄を肩から引っ提げ、玄関の戸を開ける。
何度も考えたし悩んだし、自分に出来うる限りのことはした。男の真意を知ろうと努力もした。でも、男に俺の言葉は届かなかった。
猶予期間は過ぎた。
事を大事にしたくなかったが、これはもう自分でどうにかできる範疇を越えている。
最悪、七班の子供たちには、上忍師交代という憂き目に遭わせるかもしれないが、ああいった人格に問題のある輩を上忍師に据えること自体が間違っているのだ。
今日、火影さまに直訴する。もう、これしかない。
さらば、カカシ先生。
あんたとは、今日限りだ。
瞬間、痛んだ胸を無視して、俺はアカデミーへと向かった。


******


「……真か?」
アカデミーの授業を終え、受付任務が始まる前の時間を利用して、三代目と接触することが出来た。
出来れば人がいない場所でと頼んだ俺に、三代目は執務室に案内してくれた。そこで、今まであった出来事を話せば、三代目はくわえていた煙管を手に取り、表情が見えない顔を俺に向けてきた。
「残念ですが、本当です。昨日もやられました」
ベストのチャックを下げ、アンダーを引き上げる。白い包帯を解けば、ここ数日痛めつけられ、赤、青、黄と実に彩色豊かな痣が現れた。
中には拳の形に綺麗につけられた痣もあって、もろに受けたことが丸わかりのそれに凹む。
里を代表する忍びの拳なんだ、中忍の俺が避けられないのも無理はないさと、己を励ますものの、心は浮上しない。
はぁとため息を吐けば、三代目は俺の腹に刻まれた痣を見た後、他にもあるかと尋ねた。
情けないがある。
俺は再びため息吐きながら、もう面倒くせぇとばかりに上半身裸になる。
腕にはきつく握られ、奴の手形が残った痣があり、背中も殴打の痕があるだろうし、まぁ、とにかく色んなところに不名誉すぎる痕が残っている。
その中でも極めつけなのが。


「その首筋の傷もか?」
指摘されて、右の首筋を撫でた。指先に触れるかさぶたは、男が噛みちぎった痕だ。
男は首筋の傷がお気に入りのようで、かさぶたが剥がれ治りかけた頃を狙って噛みつき、傷をつけてくる。
男が執着する理由も、どういう意図があるのかも、知りたくない。
今は、この傷が痕に残らないことを祈る毎日だ。
「そうです…。情けない話で、思いっきり個人的なお願いになるのですが」
一度言葉を切り、俺は眉根を寄せて懇願した。
「どうにかならないかな、じっちゃん」
幼少の頃から親しく付き合っていたコネを使ってのお願い事に、俺のプライドはいたく傷つく。
これは本当に使いたくなかった手だが、もうどうしようもない。


たぶん、すごく情けない顔をしていたのだろう。
じっちゃんは目を丸くするなり、かかかっと大きな声をあげて笑った。
「よいよい、恥じるな。ナルトの件では決して泣きつかなかったお前のことじゃ。自分で出来る限りの対処はしたのじゃろ? 相手も相手じゃしの。誰にも相談できなかったのではないか?」
見栄を張る間柄でもなく、三代目がじっちゃんとして接してくれるのを見て、素直に頷く。
困ったことに、里での男の評判は、公明にして正大。身を挺して幾人もの同胞を助けた英雄であり、無理と言われた任務を幾度も成功させた、伝説級の忍びでもある。
アカデミーでも受付所でも、男のいい噂は聞くものの、悪い噂は聞いたことがなかった。
その中で、実はと俺が切り出しても、良くて冗談。悪くなると、はたけカカシを貶めようとする浅はかな中忍として、周りから敵視されること請け合いだ。
俺だとて、こんな目に遭わなければ、男とは末永く付き合いたいと思っていたから、周りの認識を責める訳にもいかない。
その点、じっちゃんは俺にとって本当にありがたい存在だ。普通の人なら、一笑して終わるところを、俺の話を聞いて信じてくれる。
逆を言えば、じっちゃんが信じなかったら、俺の人生は詰んだことになっていた。
じっちゃんがじっちゃんで良かったと、しみじみと感じ入っていれば、じっちゃんは俺に服を着ろと言ってくれた。
執務室とはいえ、誰か入ってきてもおかしくない状況だし、俺も異論もなく服を着込む。


「理由に、心当たりはあるか?」
アンダーから顔を出して、首を振る。
俺も理由さえ分かっていれば、自分でどうにか出来たし、もう少し持ちこたえることもできたとは思うが、「分かった?」としか言わない男には、完全にお手上げだ。
「分かりません。何度も尋ねましたが、決まって『分かった?』と問いかけるだけで、答えてくれませんでした」
思い返すと、非常に腹が立ってくる。
俺が分からないと言っているのに、どうして殴る。男の真意を教えてくれと懇願したのに、なんで蹴られて、胃液を吐かねばならない事態に陥るのだ!
今まで疑問が大きくて思いもしなかったが、俺は怒ってもいいはずだ。ふざけるなと、こっちから殴りかかっても文句は言えないと思う。
こうなるなら、じっちゃんに泣きつく前に、こっちから襲ってやれば良かったと臍を噛む。
男の出現場所はだいたい決まっているから、そこにトラップをしこたま仕掛けて、フル装備で挑めば、あんな一方的なやられ方をしなくてもすんでいたかもしれない。
今まで逃げるか、防御するか、ガンを飛ばすかの三択しか実行しなかった己を悔やんでいれば、カンと小気味良い音が響いた。


顔を上げれば、煙管箱に打ちつけたじっちゃんが、執務室の机を見つめたまま何か考え込んでいる。
何か急ぎの用でも思い出しのかなと、黙って見ていると、じっちゃんは一つ息を吐き、視線を上げた。
笠から覗く瞳が俺を射る。意外にも強い視線にちょっと怯んでいると、じっちゃんは口を開いた。
「この件はわしが引き受けた。その代わりと言ってはなんじゃが、以後、カカシに関わるでない」
それは願ったり叶ったりだと声に出す前に、じっちゃんはゆるく首を横に振った。
「おぬしは、良くも悪くも他人に優しすぎる。自分の身が大事なら、切り捨てる非情さも必要じゃ」
俺が何かを言いかける前に、執務室の戸が叩かれた。
じっちゃんとの話はこれで終わりだ。
じっちゃんが里長の顔に変わるのを見つめ、俺は「ありがとうございます」と礼をした。
「また、困ったことがあれば言うんじゃぞ」と、少しだけじっちゃんの顔を見せてくれた三代目に、感謝の笑みを向け、執務室を出た。



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暴力以外の18禁はない作品となりました!







白光2