しんと、空気が冷えた。
微かに聞こえていた虫の音が止む。
これから起こることの前触れを感じて、一歩後ろに下がった。
じりっと地面と靴が擦れた音が響き、悔恨の呻き声を内心で漏らす。
わずかな音でも何かのきっかけになりそうだ。
冷たい汗が吹き出、男との距離が縮まったような、遠くなったような、あやふやな錯覚を覚えた。
「どういうこと?」
男は再び同じ問いを口に出す。
今日は任務はなかったらしい。男の衣服は乱れておらず、血の臭いも感じ取れなかった。
口内に溜まった唾を飲み込んだ。
ごくりと嚥下した音が響き、ひやりと恐怖を覚える。
男に変化はない。
だが、男の気配がひどく尖って痛い。
場を圧迫し、肌の表面がちりちりとした痛みを訴えてくる。
男は、怒っている?
一体何故と、何度も思ったことが浮かんだが、この度の疑問の答えはほどなく出た。
俺が、火影さまに泣きついたからだ。
俺が暴力を受けていると、火影さまに直訴したことで、きっと男に何らかの罰が与えられたのだろう。
一介の中忍が、里の最高権力者と親しい事実を知らなかったが故に、手痛い反撃を受けた。
格下にしてやられ、男は怒りを覚えているのだ。
油断なく息を吐く。
周りに加勢してくれる者がいないか、気配を探るが、男のただならぬ様子を感じているのか、周囲はひっそりと静まり返っていた。
まずいと思う。
暴力に晒され続けた時には感じなかった恐怖と焦りが、平穏を取り戻した今となっては、倍以上に膨れ上がり、体を硬直させている。
がたがたと小刻みに震える体が忌々しい。
不意打ちだったせいもあるが、この有様では思うように体が動かない。逃げようという感情ばかりが膨れあがって、体の感覚がついていかない。
落ち着けと自分に言い聞かせながら、深くゆっくりと呼吸を繰り返す。
男は動かない。
俺の返答を待っているように、唯一出ている右目をこちらに投げかけている。
「……、なにが、ですか」
額から落ちた汗が顎に滴る。
言葉を発すだけでも気力を殺がれる。油断すれば、ひっくり返りそうになる声を押しとどめ、男の反応を窺った。
「分からないの?」
何度も聞かされた言葉に、顔が歪む。
ダメか。やはり無理なのか。男と俺は、分かりあえない。何度向かい合っても、もうあの関係に戻ることはあり得ない。
瞬間走ったのは、確かな痛みで。
暴力を振るわれてもまだカカシ先生を信じたいと思っている俺がいた証で。
脳裏を駆ける、二人で過ごした時に、小さく別れを告げた。
震える体を叱責する。
拳をきつく握りしめ、歯を食い締めて、男に視線を向けた。
本当に終わりだ。
鋭い息を吐き、震えを殺した。
目の前にいるのは敵だと、己に確認し、ホルダーからクナイを抜いた。
男の気配は変わらない。
手持ちの札と、武器を頭で諳んじ、戦闘態勢に入る。
やるならば全力で、それしか逃れる術はない。
「……それが、あんたの答え?」
構える俺に、男は問う。
それには答えず、一気に駆けだした。
足先にチャクラを込め、男の眼前へとクナイを走らせる。
男は何事もなかったように、斜め後ろへと体勢を傾け、切っ先を避けた。避けられることは端から分かっている。
隠し持っていた礫を男の死角から弾く。
小さな鉛の玉だが、チャクラを込めればそれだって立派な武器になる。ただし、一般人相手ならば。
五つの鉛玉を眉間、鼻、喉、両目に向かって一斉に弾くが、男は揺れるように体をぶらせ、気付いた時には俺の背後に回っていた。だが、それも想定内。
指弾の直後に、後ろへと向きを変えていたクナイの刃を確認もせずに押し込む。
密着している男の気配にわずかな驚きの感情が漏れた。
バックステップでかわした男の気配を追いながら、振り向きざまに、印を組む。
住宅街で忍術を使うことは処罰ものだが、男を撤退させたいなら形振り構っていられない。もし、男に当たらずとも、この騒ぎで警邏隊が駆けつけてくることも見越してのことだ。
息を大きく吸う。
つまらない心配なんてしない。この一撃を持って、男と縁を切る。
火遁、豪火球の術。
術を発動させるために、最後の印を切る寸前。
「オレが聞きたいのはそんなことじゃなーいのよ」
視線の先にいる相手の声が、横から聞こえた。
影分身?!
いつ印を切ったのか分からず、瞬間気を取られた。
「っっ、が!」
真正面から衝撃が走る。
鋭い一撃が腹に当たり、呻いた口から、術の力が失われていくことを感じた。
「気、囚われ過ぎ」
正面、拳を突き入れている男が耳元にそっと囁き、不意に消える。今まで相手をしていたのは影分身だったのかと、いつ変わったのか、それを思い返そうとして、横から持ち上げられた。
「っ、っ」
首を掴まれ、足が中に浮いた。それに伴って、自重で喉が締まる。
足掻くように、掴まれた手に爪を立てれば、男は無感動な声を放った。
「もう少し前なら、相手をしてあげたけどね…。今は、そういうことじゃないの。もう一度聞くから、ちゃんと答えなさい」
酸素を求めて口を開く。横にいる男へと視線を向ければ、男は怒りの感情を滲ませながら、問うた。
「オレ以外の奴に殴られるなんて、どういうつもり? しかも、顔だなんて目立つところを」
男の言葉が、素通りする。
何を言われているか分からない。
酸欠も手伝って、何を考えていいか分からなくなった時、正面から滑り落ちた。
ざりざりと耳元を騒がせる音の後に続き、むず痒い熱を感じた。
四つん這いになり、息をする。
絶え間なく呼吸をする音に思考を邪魔されながら、男が問うた言葉の意味を考えた。
『オレ以外に殴られる?』どういうことだ。男が怒っていたのは、俺が火影さまに告げ口をしたことではないのか。
地面を見つめ、考えをまとめている矢先、腕を捩じられた。
激痛が走り、仰ぐように体が後ろへと傾く。
そこにあったのは、背後からこちらを見下ろす男の顔だった。
「答えなよ。分からないなんて、言わせなーいよ。あんたは一体何を考えてるの?」
痛みに目が閉じそうになりながら、男を睨む。馬鹿かと吠えたかった。だから、喉を震わせた。
口の中にある砂利をかき混ぜ、俺は男へと叫んだ。
「うる、せ、知る、か…! お前の言っている、こと、何一つ、俺には、わかんねーんだよ…っ」
歯を軋ませ、見上げた。
怒りだけが男と向き合える最後の支えだった。
何一つ分からない。
俺も、男も。
何一つ、お互いのことを分かっていなかった。
癇癪とも言ってもいい怒りだった。
男の言葉が分からない。
男も俺の言葉が分からない。
一体、何なんだ。
これは、どういうことなのだ。
切り捨てる以前の問題だ。
俺の言葉に、男はしばらくしてため息を吐いた。
参ったとでもいうような、少し気の抜けた仕草。
「……そう。そうなの」
顔を俯けて、頭を掻く。男が困った時の仕草。
見慣れた仕草を見て、少し心が緩む。男は、俺の言葉を理解してくれたのだろうか。
「――それじゃ、仕方ないね」
男の気安い言葉に、笑みさえ浮かべたその顔に、瞬間、希望が見えた。
まだ男との、カカシ先生との関係の修復が出来るのだろうかと、期待をしたのに。
俺の口から迸ったのは、悲鳴だった。
叫んだ直後、口を塞がれた。それでも声しか出せない自分に何が起きたのだと混乱していれば、口を塞いだ手とは逆の手に俺の腕があった。
肘を持ちあげ掲げられている俺の手は、まっすぐ天に向かって伸びず、あり得ない方向へと折り曲がっている。
目にした瞬間、男が何をしたかを知る。
男は、俺の腕を砕いた。
ぐわっと涙で視界が曇った。
痛みのせいじゃない。男の仕打ちに絶望した。
口を塞がれたまま、声を放って泣いていれば、男は背後から圧し掛かり、俺の顔にすり寄るように己の顔を触れさせ、歌うような声で囁いた。
「あー、ごめんねぇ。オレも先生の声聞きたいけど、先生が三代目に惚気ちゃうから接近禁止令が出ちゃったからねぇ。仲イイのもほどほどにしとけっていうから、ほとぼり冷めるまで遠くから見てたーんだ」
優しいと言っていいほどの声音なのに、男の手は無情に動く。
ぱき、ぽきと、体の中から響く度に、悲鳴が零れ落ちる。焼ける。真っ赤に。痛みとは言えず、体を燃やしつくされる業火を身に浴び、狂ったように叫んだ。
「でも、先生、分からないのかぁ。こんなにもオレが伝えているのに、分からないなんて、先生って鈍いね」
口を塞ぐ男の手に噛みついていた。口内が血の匂いで満たされる。
男は嬉しそうに笑いながら、骨を砕く手を俺の頭に持っていき、ゆっくりと撫でた。
「あーぁ。せっかく手入れした髪が元に戻っちゃったーね。でも大丈夫。またオレがやってあげるから。先生は安心してオレに全部任せていいんだーよ。大事な大事な先生だもの。オレの一番、大事な人」
頭が痛い。目が痛い。どこもかしこも痛い。男に触れられている全てが痛い。
がたがたと震えてきた体を制御できず、目を見開いていた。
男の手が髪を撫でるように、横へとずらす。
男の息が首筋に触れた。
「邪魔される前に、オレの部屋へ行こうか。鈍い先生には負けたよ」
そう、言いながら、男の牙が俺の首筋に埋まった。
イルカ先生、ずたぼろにされるの段。