「先生、イルカ先生。分かる? 感じる? ねぇ、オレの気持ち、分かるでショ?」
声は出なかった。
涙も出なかった。
砕かれた両腕は抵抗することさえ知らず、ただ投げ出され、男の動きに反応して勝手に動いているだけだった。
男は嬉しそうに笑っている。
俺の体に噛みつき、血を流させながら、それを舐めとり、感じいった声でため息を零す。
男が触れなかった場所はなかった。
自分でさえ触ったことのない内側まで男は指を伸ばし、手を伸ばし、そして穿った。
新しい痛みに、びくりと体が跳ねれば、男はことのほか喜んだ。
「感じる? 今、先生の中にオレがいるんだよ。分かる? 分かる? イルカ先生」
無邪気に喜ぶ声は、場違いのようだった。
ぶつけられる振動に、穿たれた物に、何かを感じる余裕はない。
目の前が真っ暗だった。
男の白い顔や肢体は確かに見えるのに、全てが暗い。
汗にまみれた男が俺を見下ろす。
幸せだと言うように微笑む。
爪を立てて肌を抉りながら、男は囁く。
「愛してるよ、イルカ先生」
腰の動きを速めながら、男は一心不乱に、俺へ愛を告げていた。




******




目を開ければ、真っ白な天井が見えた。古臭い板張りの天井が自分の見慣れた天井だから、ここはどこか違う場所なのだろう。
ぼんやりと見上げながら、ここがどこかを考える。
息を大きく吸えば、消毒液の匂いがした。
そこでようやく場所が分かる。ここは、病院、か。




「目が覚めたようじゃの」
静かな声が耳を打った。
軋む首を動かして、声がした方向へと視線を向ける。
俺が眠る寝台の横に、じっちゃんが座っていた。
「……じ、ちゃ」
喉を開いて音を出す。いちいち意識しなければ掠れる音を不便に思いながら、疑問を口にしようとして、押し止めるように手を向けられた。
「無理に口に出さずともよい。聞きたいことは分かる。じゃが、最初に、謝らせてくれ」
じっちゃんは、編み傘を脱ぎ、深く頭を下げてきた。
「すまぬ。この度のことは、わしの失態じゃ」
そのまま頭を下げ続けるじっちゃんをぼんやりと眺めて、違和感を覚えていく。
どうして俺は病院にいて、じっちゃんであるけども三代目火影の御前だというのに眠ったままで、そしてあろうことか三代目は俺に頭を下げているのだろうか。
……これって、まずくね?
そう思った瞬間、がばっと起き上がった。
体がみしみしと変な音を立てていたが無視して、三代目へと向き直る。
「あ、頭を上げてください、三代目!! 一介の中忍にそんなことしちゃいけませんって、誰かにでも見られたりしたらっっ」
泡を食って止めたものの、三代目は頑として頭を上げてくれなかった。
俺が許すというまで頭を上げないつもりかと、三代目の意志を見てとり、分かったと俺は叫ぶ。
「わ、分かったって。許す、許してるから、頭を上げてよ、じっちゃん!!」
三代目には恐れ多い言葉だが、幼少時からお世話になっているじっちゃんにならまだ言える。
俺の気持ちが通じたのか、じっちゃんは小さく笑って頭を上げてくれた。
ひとまず頭を上げてくれたことにほっと息をつきつつ、何故ここに自分がいるのかを予想立てる。
「……俺、カカシ先生にずたぼろにされました?」
視線を外し、頬を掻きながら尋ねれば、じっちゃんは一度頷いた。
「あやつの家でお前を見つけた。重傷じゃった…」
じっちゃんの言葉に、そっかと天井を仰いだ。




混乱。
一言でいえばそうなる。
カカシ先生が言った言葉。そして、俺にしたこと。
全く相入れないそれは、どう理解していいか分からない。




『表情豊かでね。顔を見ていれば、だいたいマキの言いたいことが分かるんだ』




ふと思い出したのは、オリさんの言葉だ。
オリさんの言葉に従うなら、俺にも、カカシ先生の言いたいことが何となく分かっていた。
カカシ先生は、素顔を隠していたとはいえ、驚くほど表情が豊かだったから。
俺を見つめるカカシ先生の瞳はいつも穏やかで、優しかった。




俺に、暴力を振るっている時でさえ。




顔を覆って息を吐く。
バカだとも、アホだとも、己を詰る。
どんなことをされてもカカシ先生を信じたいと思う自分がいる。
じっちゃんに泣きついた後も、繰り返し考えていたのはカカシ先生のことだった。カカシ先生の優しさを見つめ、何度も何度も自問自答している己がいた。
だったら……。




「じっちゃん。じっちゃんが知っていることだけでもいい。カカシ先生のこと、教えて欲しい。俺、カカシ先生と向き合いたい」
じっちゃんを見つめた。
悲しそうに悔やむように、じっちゃんは表情を歪めたけれど、俺の眼差しが揺らがないことを見てとり、諦めたように息を吐いた。
「考え直すつもりは、ないんじゃな?」
うんと頷く。
俺がカカシ先生をどう思っているのか、実はよく分からない。
でも、失いたくないと思っていることは確かだ。
今はそれで、十分じゃないかと思った。




じっちゃんは脱いだ傘を手に取り、頭に被った。
そして、もう一度、俺に向かって頭を下げた。
驚く俺に、じっちゃんは、三代目は、静かに言った。




「虫のいい話かも知れぬ。じゃが、カカシを救ってやってくれんか。頼む」
息を飲む俺に、三代目は静かに語り始めた。




******




はたけカカシの父親は、里きっての英雄と誉れ高い男だった。
名は、はたけサクモ。
白い牙と異名を持つ、木の葉の里を代表する忍び。




実力は、伝説の三忍を凌ぐと言われ、誰をも引き付けるカリスマ性と、寛大で広い心を持ち、自里は無論、他里の忍びたちからも尊敬されるような、武勇共に人柄も秀でた人物だった。
だが、はたけサクモはいつの頃から、心の病を患っていた。
いつからなのか。原因は何だったのか、それさえも分からない。
褒め称えられ、周囲の羨望や憧れを一身に受けながら、はたけサクモは人知れず病んでいた。
表向きには分からない、サクモの変調。




サクモの異変を他者が知ったのは、サクモが死んだ日。
自ら命を絶つ直前だった。




その頃、サクモは人道を重んじたが故に任務を失敗し、里に多大な損益を与えるという事件を起こしていた。
今までサクモを崇拝していた周りの者たちは、期待をかけていただけ、一度の失敗が許せずにサクモを糾弾した。
時は戦乱の世だった。
世が不安定になればなるほど、強く正しい者へと縋りたい気持ちが増していたのだろう。
自分の身を任せるべき相手を失くしたことに、人々は失望し、それが怒りとなってサクモへ向かった。
手の平を変えたような周りの態度は、サクモの病に致命傷を与えた。




その日。
波風ミナトは、任務を終え帰途についていた。
夜も更け、周りは夜の闇に覆われ、人の気配もほとんどなかったという。
ミナトがサクモ宅の近くを通りかかった時だ。
何かの悲鳴が聞こえた。
小さなそれは、風が吹けば消してしまうほどの小ささで、風の唸り声とも思えたという。
だが、どうにも気になったミナトは、何気なく生垣の向こう。サクモの家へと視線を向けた。
そのとき、だ。
広い庭先に面した障子戸に、人影が見えた。
蝋燭の火を灯としているのか、頼りない光の中、障子に影が写りこみ、ミナトに部屋の中を見せたという。




首を絞められている子供がいた。
大きな人影が子供の華奢な首を覆い、その身を持ちあげていた。




ただ事ではないと、生垣を越え、障子を蹴飛ばし中に踏み込んだミナトが見たものは、鼻を突きさす異臭と、吐しゃ物と血が散らばった荒れ果てた部屋だった。
その中にいるサクモは、まるで悪鬼のようだったとミナトは後に語った。
今にも首を折りそうなサクモを殴り、子供を助けたミナトは「何故」と叫んだ。
助けた子供の体には、いつから傷つけられていたのか、深い傷が刻みつけられ、今しがた傷つけたであろう真新しい傷もあった。
誉れ高かったサクモとは思えぬ所業に、面食らうミナトに、サクモは笑ったそうだ。




「あぁ、これで父さんはようやく死ねるなぁ」
止める暇もなかった。




「カカシ、可愛いカカシ。これも全てお前を愛しているが故だ」
そう告げた後、サクモは愛刀のチャクラ刀で己の首を刎ねた。




保護した子供は、じっと黙ってそれを見ていたという。
自分の父親が死ぬ瞬間を、目をそらすこともなく、ずっと見続けていた。




それから、カカシは助けられたミナトへ保護された。
親譲りの忍びの才と、努力を惜しまぬカカシの性格は、カカシを忍びの高みへと駆け上がらせた。
親に受けた傷は深いだろうが、前向きに生きようとするカカシに安堵の気持ちを覚えた頃、カカシはミナトに質問をした。




「どうして、会ったこともない人を傷つけるの? 愛してもいないのに、何故殺すの?」
ミナトはそのときになって、サクモがカカシにした片鱗を見た気がして、血の気が引いた。




カカシは、サクモに殴られ蹴られ、時には切り刻まれて育てられた。
「愛してる」と言いながら、「可愛い息子」と囁きながら、サクモはカカシに暴力をふるった。
サクモが己の人格を保つためなのか、単なる憂さ晴らしなのか、それは今となっては分からない。
だが、確かなことを言えるのは、カカシは愛というものを常人とは違うものとして捉えているということだ。




これではいけないと、ミナトは必死に説得した。
忍びについて、人について、正しい在り方は何か、愛とは何か。
ミナトの涙ぐましい説得に、カカシは徐々に社会性を身につけ、忍びが何たるかを理解していったが、ただ一つ、愛については理解を示そうとしなかった。
ミナトの言葉に首を振り、だったら、自分が受けたことは何だったのか、父が自分にしたことは何だったと問うた。
言葉を失くすミナトに、カカシは言った。
自分は確かに愛された。父は自分を大事にしてくれた。体が動かなくなった自分に付きっきりで面倒を見て、夜も寝ないで介抱してくれた。大丈夫と言って頭を撫でてくれたと、カカシはミナトの言葉を聞かなかった。




何度も何度も語りかけたが、カカシは分かろうとしなかった。
ミナトからその話を聞かされていた三代目は、そのときカカシの在り様に戸惑ったという。
サクモと同様に、里を代表する忍びに育つカカシ。
生前のサクモと同様に、人柄も申し分なく、人々からの支持を集め始めている、若い芽。
だが、カカシは常人とは異なる愛を持つ。
唯一の救いは、カカシが愛を囁くような相手が今までいなかったということだった。




ミナトは死ぬ間際まで、カカシのことを心配していたという。
カカシが愛し、愛される相手がいて欲しい。でも、それは破滅にも似たものだ。一体、誰がカカシを受け止めてくれるのだろうか。狂気じみた愛と共に歩んでくれる者はいるのだろうかと、よく三代目に溢していた、と。




******




語り終わり、三代目は疲れたように息を吐いた。
言葉が出ない。





沈黙が続く中、三代目は小さく息を吸った。
「それでも、おぬしはカカシと向き合いたいと言えるか?」
編み傘の下、老いた目が優しく微笑む。
頼むとは言ったが、無理はさせたくないという表情だった。




分かっている。
四代目火影である方が説得できなかったことを、自分が説得できるはずもない。
父親の愛を暴力だと信じ、愛とは、傷つけることにあると疑ってもいないカカシ先生に、間違っていると、その愛は嘘だと叫ぶこともできない。
でも。




こちらを窺っている三代目を意識しながら、鼻傷を掻く。
笑いが出てしまうのは、自分でもお笑い草だ。
「カカシ先生が、俺のことを嫌っていなかったと知って、嬉しいと思う俺はどっかおかしいんでしょうね」




カカシ先生の愛を受け止めることは無理だ。
俺はマゾでもないし、痛いことなんて大嫌いだ。
けれど、三代目の話を聞いて、心が軽くなっている自分に気がつく。
今まで理解できなかったことが胸に落ちた。
カカシ先生にようやく近づけることを喜ぶ自分がいる。
だったら、答えは一つだ。




「三代目、カカシ先生と会わせてください。ぶつかり合ってきます」
言いきった俺に、三代目は泣き笑いに似た顔を見せた。






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サクモさん、捏造しまくりで、すいません…。





白光6

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