カカシ先生は、地下深くにある独房の中にいた。
凶悪な忍びを収容するために作られたもので、チャクラ封印の結界が施され、現在に至るまで忍び込むことはおろか、脱出できた者もいないと言われる、いわくつきの牢だ。
カカシ先生がその物々しい独房に入れられることになったのには、理由がある。
俺がじっちゃんに泣きついてすぐ、三代目はカカシ先生に接近禁止令と、暗部の見張りをつけさせた。
そのときのカカシ先生は不平不満も何もなく、素直に受け入れたようだ。
だけど、俺がカカシ先生と会ったあの夜。
カカシ先生は見張りについていた暗部を気絶させ、俺の前に姿を現した。
それから、カカシ先生は俺を自宅に連れ込み、監禁したらしい。
気絶した暗部から事を知った三代目は、カカシ先生の自宅を囲み、交渉したそうだ。
うみのイルカを今すぐ返すならば、罪は不問にする、と。
見張りの暗部をしばき倒し、同胞に危害をくわえたにも関わらず、罪に問われないなんて、本来あり得ない。
木の葉は人道を重んじる里だし、火影さまの指揮の元に動く暗部に刃向うということは、反逆と捉えられても仕方ない行為だ。
その時点で、カカシ先生がどれだけ木の葉にとってなくてはならない存在かが窺えるところなのだが、カカシ先生はその申し入れを蹴った。
カカシ先生曰く、「イルカ先生の看病はオレがする」とのこと。
そこで交渉は決裂し、力勝負へと移行し、俺を奪われまいとするカカシ先生と、保護しようとする三代目チームと切り合いを演じたようだ。
結局は、数の勝利で、カカシ先生は取り押さえられた。
それでも俺を奪い返そうとするカカシ先生に、三代目は禁固刑に処したのが事の顛末という。
「大事になってたんだなぁ…」
ぶっちゃけ、ずっと寝込んでてよかったと思う。
三代目とカカシ先生が俺を取り合うような構図に、眩暈ばかりか、胃がきりきりと痛む。
カカシ先生の名前に傷がつくから、この件はきっと極秘なのだろうが、上忍師としての仕事は大丈夫なのだろうか。
おそらく単独任務扱いになっているカカシ先生に、ナルトたちは自分だけずるいと、ぶーぶー文句言ってんだろうなと想像して、少し笑えた。
石で造られた螺旋階段をゆっくりと降りていく。日の光が一切入らない中、壁にはめ込む形で灯る蝋燭が、おどろおどろしい気分を盛り立ててくる。
三代目にお願いして、俺一人のみの対面を頼んだ。
少々渋ったが、ぶつかり合うには一対一じゃないと、話にならない。
独房への唯一の出入り口である戸の錠前を開けてもらいつつ、看守さんに「興奮しているから、気をつけろ」とのお言葉をいただいたが、カカシ先生がここに収容されて一週間経つというのに、まだ元気があるとはさすがは上忍、はたけカカシと唸るべきだろうか。
カツンカツンと石の階段をあえて音を立てて下りていれば、下の方から何かの声が聞こえてきた。
丸く上下に長い空間は、音を反響させて、言葉を意味の分からないものへと変えてくる。
不気味だ。かなり、不気味。
俺だったらこんなところに一人で閉じ込められたら、気が狂いそうだ。
ぐるぐると回りながら、ようやく地下の底が見えてきた。
その底で、壁に埋め込まれた鉄格子と、その鉄格子を握りしめ、こちらを窺っている人影が確認できた。
「イルカ先生」
喜びに溢れたその声に、一瞬体が硬直する。
いかんなと思うが、そうそうあの暴力を忘れることはできない。
尋問や拷問訓練を思い出し、己の出来事を切り離す作業を目をつぶって行う。大丈夫。大丈夫。あれは俺ではない、俺ではない。
胸の内で数度繰り返し、一つ息を吐いて目を開ける。そして、止まっていた足を動かす。
カカシ先生は待ちきれない様子で、顔を鉄格子にくっつけ、束縛されている鎖を鳴らしていた。
「……カカシ先生」
階段を降り、同じ目線でカカシ先生と向き合った。
階段沿いの壁から漏れる明かりが唯一の光だ。
全体的に影に覆い尽くされながらも、鉄格子の色よりも薄い、カカシ先生の銀の髪が、蝋燭の灯りを受けて鈍く輝いた。
口布も、額当てもない。木の葉の忍服ではない、布一枚で作った簡素な囚人服に身を包んでいる。
「イルカ先生、ごめんね。オレ、ちゃんと看病したかったのに、できなくてごめんね。側にいられなくて、ごめんね」
三代目から話を聞かなければ、到底理解できなかったカカシ先生の言葉。
顔を歪め、許しを請う姿は、哀れなほど憔悴していた。
ろくに眠れなかったのか、目の下には濃いくまができ、鉄格子や壁に向かって拳を突き入れたのか、その拳は傷だらけだった。
俺に会うために、何度もその手を己の血に染めたのだろうかと考えながら、ゆっくりとカカシ先生に近づく。
カカシ先生は、鉄格子の隙間に肩ごと入れ、俺に触れようと手を伸ばすが、指先はぎりぎりのところで届かない。
触れられない位置に立ち、それ以上動かない俺を見て、カカシ先生は悲しみの表情に変わった。
「先生、怒ってるの? あれは違うんです。オレは先生の世話見たかった。でも、火影さまが邪魔したんです。突然怒り出して、オレからイルカ先生を奪ったんです!!」
だから怒らないでと、懇願に似た声を絞るカカシ先生に、俺はバカだなぁと笑ってしまった。
「先生、どうしたの? ――どうして、泣いてるの?」
カカシ先生の泣きそうな声を聞きながら、目を擦った。
変わっていない。
カカシ先生はちっとも変わってない。
俺が一緒に過ごしたカカシ先生と何一つ変わらない。
それが証拠に、きっとカカシ先生はこう言う。
人情物のドラマや動物番組を見ていたとき、あまりにも切なくなって泣き出した俺を見て、カカシ先生はいつもこう言った。
「先生。あんまり泣くと、目が溶けちゃいますよ?」
落ちる涙から手を退け、視線を上げれば、眉根を寄せて首を傾げるカカシ先生がいる。
泣きやめさせたいけど、なんで泣いているのか分からなくて、でも放っておけなくて、おずおずと声を掛けてくれた。
昔のトレンディドラマで聞かれた、気障な台詞まがいな言葉に、初めてカカシ先生が言った時、俺は泣いていたことも忘れて大笑いした。
カカシ先生は、今度は笑う俺を不思議そうに見ていたけど、俺が泣き始めるといつもその言葉をくれた。
でも、それでも泣き止まないと、カカシ先生は続けてこう言う。
「目が溶けちゃうの嫌でショ? だから、いつものように笑ってください。オレに笑顔を見せてください」
そして、ふわりと笑うのだ。
あやすように、包み込むように。
安いドラマで泣く俺に、ただ可哀想だと思って涙をこぼす俺に、カカシ先生はいつも真摯になって俺を慰めてくれた。
カカシ先生の言葉は全部本気で、全部まっすぐで。
上忍という立場でありながら、写輪眼のカカシという二つ名を持ちながら、俺なんかよりもずっと過酷で、何度も生死の境をさ迷っているだろう人が、変わらずにずっと純真な気持ちを持ち続けられる強さと、その奇跡に、俺は何度も胸を打たれた。
口を覆って、情けない声を聞かせないようにする。
泣いている俺を見て心配するといけないから、顔を俯けて隠した。
「イルカ先生」
俺を呼ぶ声が震えている。
カカシ先生には何度も泣かされた。
血がいっぱい出て、痛いこともいっぱいされて、一度は絶望感に突き落とされた。
でも、カカシ先生は、自分以外のことで泣く俺は見たくないと、笑っていて欲しいと本気で願っている。
自分以外のことで泣く俺を心配して、それを解消できないことに苛立って、泣きそうになっている。
バカだなぁと思う。
こんなにバカで、純粋な人は見たことがないと、本気で思う。
でも一番バカなのは、こうして向き合って、ようやく自分の気持ちを知った己だ。
愛しいと思う。
カカシ先生が俺の名を呼ぶ度に、胸が震える。
俺を一身に求めてくるカカシ先生のその姿は、全てを貫く光のように俺の胸に突き刺さる。
これほどまでに求められたことはない。
これほどまで、純真に透き通った思いを寄せられたことない。
必死に、全身で愛を叫ぶカカシ先生を抱きしめてやりたいと、俺の気持ちを返したいと叫ぶ俺がいる。
「イルカせんせい」
小さく、不安げに何度も呼ぶカカシ先生の声に、しっかりしろと己を鼓舞する。
自分の気持ちが決まったなら、後はやれるだけのことをするまでだ。
袖で涙と鼻水を拭って、涙を抑える。
一つ息を吸って、顔を上げた。
涙を止めた俺を嬉しそうに見つめるカカシ先生の瞳と合わせて、俺は一歩踏み込む。
「カカシ先生」
カカシ先生の指先が伸びて、俺の頬を撫で、抉る。
焼けつくように走った痛みと、顎に伝った液体を無視して、もう一歩踏み込む。
「イルカ先生」
目の前で、カカシ先生の顔がほころぶ。
幸せそうにふわりと笑って、視界の端にカカシ先生の伸ばした両手を捕えた、直後。
鈍い音と共に、脳を揺らす衝撃が襲った。
眩む視界を瞬きで正常に戻し、状況を把握する。
目の前には鉄格子。顎に手をかけられて、思い切り鉄格子にぶつけられたようだ。
額当てに守られたおかげで軽い脳震盪だけで済んだ。大丈夫。いける。
次の行動に移される前に、カカシ先生の手に自分の手を重ねて、思い切り握りしめた。
鉄格子を挟んだカカシ先生の表情が、一瞬驚きに変わり、再び笑みに変わった。
何かを言われる前に、先に声を出す。
主導権を握れるように、目を逸らさず真正面から挑む。
「カカシ先生、俺はあなたのことが好きです。これからもずっと、共にいたい。あなたの隣にいるのは、俺でありたい」
「……イルカ先生」
声に涙が混じる。安らいだ表情が浮かぶのとは裏腹に、顎にかけられた手が爪を立ててきた。
一瞬息が詰まるが慌てず手を引き離し、俺はゆっくりと下へ下げた。
「でも、カカシ先生は? カカシ先生は俺のことをどう思っているんですか? 愛していると言ってくれましたが、どれくらい? 俺はあなたにどれくらい愛されているんですか?」
口が開く。
カカシ先生が答える直前、俺は自分の喉にカカシ先生の手を押し付けた。
「行動で示して下さい。あなたの愛を」
賭けだと思う。
無謀な、賭け。
それでも、引けぬなら。
俺は告げる。
「俺は、あなたに愛されていますか?」
あと、三話くらいで終わるかと思われます…!!