一瞬、動きが止まった。
息使いさえ聞こえぬ中、お互いの瞳を見つめ合い、そして――
「――愛してます。誰よりも」
濡れた声が耳を打つ。
カカシ先生は一粒の涙を流した。
気配もなく、それはやってきた。
喉が絞まる。
徐々に、けれど確実に。
鉄格子の先にいるカカシ先生は、何度も俺に愛していると囁いている。
指先に力をこめながら、一心不乱に愛を告げていた。
舌がせり出す。心臓の鼓動がうるさいほど高鳴って、カカシ先生の声が聞こえなくなる。
苦しくて、苦しくて、足掻くように口を開いたけど、カカシ先生の手を外すようなことはしなかった。
視界もぼやけてきた。
酸欠でぼんやりとする頭で、ここまでかなぁと思う。
俺に出来たのは、ここまでで、そこから先に進むことはできなかったと、少し残念に思う。
カカシ先生。
カカシ先生。
カカ、。
******
「――カ先生っ、イルカ!!」
胸に入った衝撃で、体が跳ねると同時に、胸が膨れ上がる。
目の裏に、白い光が何度も瞬き、喉から悲鳴が出るように咳が突き出た。
四つんばいになって、吐くように咳を繰り返し、その合間に息を吸う。
ひーひーと変な音が聞こえると思えば、自分の呼吸する音で、指先が痺れて小さく震えていることに気付いた。
何度も呼吸を繰り返し、ブレまくっていた視界がようやく安定の兆しをみせる。
目の裏に絶えず光が走っていたのは、どうやらカカシ先生の銀髪だったようだ。
地べたに這いつくばり、俺の顔を見ようと鉄格子に顔を押し付けている姿が目に入った。
「イルカ先生」
呼ばれるが、まだ答えることはできない。
しばらく呼吸を整えることに専念し、そうしてようやく深い息を吐けた。
色々出たものを袖口で拭う。
噛むように息を飲んで、自分が生きていることを確認した。
どうやら、賭けに勝てたらしい。
はぁーと大きく息を吐いて、顔を覆う。本当に死ぬかと思った。
どっと疲れが出て、後ろに倒れこむように座り込んだ。
痛いほど眼差しをくれる相手に視線を向ければ、顔を真っ青にして、手が白くなるほど鉄格子を握り締めている。
「……俺、生きてますね」
喉をさすりながら声を掛ければ、カカシ先生の瞳から涙が溢れた。
小さくしゃっくりを繰り返しながら、「ごめん、ごめん」と謝られる。
「本当に愛してる。本当に。でも……」
「殺せなかった」と吐き出すように呟き、カカシ先生は顔を俯けた。
俺を殺せなかったことがよほどショックだったらしい。
俯くカカシ先生の先の地面は、黒く濡れ始めた。後から後から落ちる涙は、降り止まない雨のようで、直に水溜りができるのではないかとさえ思わせる。
俺が泣いた量の方が絶対多いと思うが、まぁ、ここらで勘弁してやろうと、俺は一つ息を吸った。
「カカシ先生」
名を呼ぶ。
鉄格子の中に手を入れて、俯けるカカシ先生の顎に触れて、顔を上げさせた。
俺の目線の高さに合わせ、下に視線を向けようとする瞳を引き上げるように指で頬をくすぐり、もう一度名を呼ぶ。
「カカシ先生」
俺の呼びかけにようやく観念したのか、青灰色と赤い瞳が正面を向いた。
それに一つ笑みをくれ、カカシ先生の顎を両手でしっかりと持つ。そして、「言っておきますけど」と口火を切った。
「あんたの愛情表現、俺はすっげー苦手だし、嫌いです」
きっぱりと言い放てば、始めは目を見開いただけだったけど、言葉の意味を理解したのか、ひどく衝撃を受けた表情を見せた。
考えもしなかったという顔に苦笑いがこぼれ出る。だが、重要なことなのだから、しっかりと言っておかなければ。
「だいたい俺、痛いの大嫌いですし、いくらあんたでも殺されるなんて真っ平ごめんです。言うなれば、今までずーっと俺の好むこととは真逆のことしてたんですよ、あんたは」
ひっと息を吸って、カカシ先生の顔が歪んだ。
「だって、知らないんです。オレは、それしか知りません。オレは、それしかできません」
そのまま大粒の涙を流して、泣きじゃくるカカシ先生に、俺ははぁと大きく息を吐く。
それだけでびくりと体を震わせ、怯えるように俺を見据えてきたカカシ先生に、俺は笑った。
「でも、カカシ先生は、最後の最後、俺を殺しませんでしたよね。……なんで、ですか?」
萎縮している瞳に優しく微笑む。
カカシ先生は、しゃっくりを繰り返しながら、震える息を吐いた。
「あなたがいなくなることを想像したら、怖くなったんです。もう、あなたに触れられなくなる。声を聞けなくなる。あなたの温もりを失うことが、恐ろしくて、オレは――」
鉄格子にぶつけるように頭を倒して、カカシ先生は俺から顔を隠す。
顎をつかむ俺の手を強く握り締め、手の平に涙を落とした。
首を竦ませるカカシ先生に、バカだなぁと口の中でつぶやく。
顎から手を抜き取って、つむじを見せる頭を乱暴に撫でた。ぐりんぐりんと首を回すように撫でていれば、カカシ先生は目を白黒させて顔を上げてきた。
とんでもなく眉根が寄っている顔を認め、俺は回す手を止めて、ぽんぽんと柔らかく二度叩く。前髪を梳くように後ろへと手を動かして、後頭部に手を回して引き寄せる。
鉄格子越しに、ぐっと近づいた距離を少し照れ恥かしく思いながら、自分の気持ちを正直に告げた。
「……思い止まってくれたからこそ、俺は、あんたと歩むことができるんです」
目を見開いて何か言おうとした唇を、引き寄せて塞いだ。
「、なにを」
驚いて逃げようとするカカシ先生のうなじを押さえて、鉄格子越しに睨みつける。
「あんたは黙ってじっとしてなさい。文句なら後で聞きます」
言い切って、再び何か言おうとした唇に舌を突っ込んだ。
うろうろと動く色違いの瞳を見届けた後、目を閉じる。カカシ先生の顔を引き寄せて、自分の顔を鉄格子に押しつけて、角度を変えながら、口内の中を思う存分味わう。
あれだけ傍若無人な行いを平気でしていた癖に、カカシ先生はされるがままで、縮こまっている舌を突っつけば、戸惑うように右に左に揺らめいていた。
カカシ先生のファーストキスの相手は、俺だな。
物慣れない仕草に、胸中で会心の笑みを浮かべる。
俺がリードせねばと、数少ない経験を元に、呼吸のタイミングを計ってやりつつ、何度も何度も丁寧に舌を這わせた。
口端からどちらからとも言えない唾液が零れ、息をするタイミングに合わせて、ゆっくりと唇を離す。
額は合わせたまま目を開ければ、頬を上気させ、どことなくぼんやりしているカカシ先生の顔が見えた。
俺が何度も啄んだから、カカシ先生の唇は腫れぼったい感じで生来の色よりももっと鮮やかな色を見せている。
すり寄るように一度額を合わせて、顔を離した。
いつまで経っても、動こうとしないから、口端から零れているものを親指で拭ってやる。
「……今の、なに?」
親指を退けようとしたところで、引き止められるように手を握られる。
戸惑う視線が、本気で分からないと伝えてきた。
これからの、二人の行動指針が決まる内容なだけに少し緊張しつつ、口を開いた。
「今のが、俺の愛情表現です。……不快、でした?」
おそるおそる尋ねてみれば、カカシ先生はすぐさま首を横に振った。
まずは第一関門クリア。
安堵の息をつこうとして、握られた手を引き寄せられた。後を追うように視線を上げれば、カカシ先生は熱に浮かされたような顔を晒して、鉄格子に顔を寄せてきた。
「イルカ先生、もう一回、して」
吐息を吐くようにお願いされて、ぐわっと顔に熱が集まる。
元が美人で、しかも今は顔を赤く染め、瞳を潤ませ、薄く口を開く様は、とんでもない色香を放出している。
さっきまであった余裕がぶっ飛ぶのを感じつつ、途端に乾いてきた口内の中に、なけなしの唾液を飲み込んだ。
「い、いいですよ」
縋るように服を握りしめられ、鼓動が早鐘を打ち始める。
大丈夫、さっきはうまくできた。落ち着いてやれば、大丈夫。
自分に言い聞かせて、ではと顔を近づける。
鉄格子の先にあるカカシ先生の唇に覆いかぶさるように、唇を開けば、逆にこちらが食われた。
「っ? ん?」
思わず目を見開いて、疑問の声を上げてしまう。
焦点がぶれて見にくいが、カカシ先生は目を閉じて、鼻で呼吸をしている。
な、なんだとっ?! こいつ、もう鼻呼吸を覚えやがったのか!!
キスは息を止めてするものだと長年思っていた自分としては、ぺーぺーにあっさり苦も無くされてしまうと立場がなくなる。
「息が苦しくて」と唇を悔しそうに外すカカシ先生に、「バカだな。鼻ですればいいのさ」と経験者の余裕とやらを見せつける予定だったのに、とんだ番狂わせだ。
くっそと胸中で地団駄を踏んでいれば、カカシ先生が舌を入れてきた。
あ、俺の立場が、俺の立場が!!
負けじとこちらも舌を入れて、争うように吸い付き絡ませ、カカシ先生の感じるところを探すように舌を這わせた。
ぴくりと身じろいだところを逃さず、ここだとばかりに熱心に突けば、カカシ先生の舌の動きが止まった。これで俺の立場は確保されたと思ったのに、次の瞬間、カカシ先生の舌はあり得ないほど柔軟に俺の口内で動き回っていた。
「っ、ん、んん、んんん!!!」
歯の裏や、舌の付け根、まさかの喉近くを舐めてきたカカシ先生に抗議の声を出してしまう。
あり得ない。初心者の若葉マークにして、この柔軟な対応。
玄人だと言われても納得してしまうかのような連続のテクニック技に、頭が混乱してくる。
「んっ」
自分でも知らなかった場所を責められ、勝手に声があがる。
鼻で息をするのも限界に思えてきた。
ストップ、ストップと、頬を軽く叩いてみるが、ぐいぐいと舌入れられ、痛いほど鉄格子に押しつけられて、涙が滲む。
「ん、んんっ」
鼻にかかる嬌声をあげる己にどん引きしてしまいそうだ。
こんなにもキスが気持ちいいなんて知らなかった。
徐々に反応しだした己のものを意識しながら、こんなはずじゃなかったのにと呻き、背筋の走る快感に気を取られていると、
がじり
妙に生々しい音が口内から聞こえた気がした。
口内が鉄臭い臭いで充満し、体に冷水を浴びせかけられたような寒気が全身を貫く。
遅れてきたのは、まぎれもない痛みで。
「いってぇぇぇぇぇぇぇえっぇ!!!!!」
目の前のものを突き飛ばし、口を覆った。
だらだらと溢れる血の匂いに気分が悪くなりそうだ。
こいつ、唇の裏を噛み切りやがった!!
一体何しやがると睨めば、カカシ先生はぽっと頬を染めて、恥ずかしげに言った。
「イルカ先生が可愛過ぎて、我慢、できなかった」
人差し指を突き合わせ、悪びれずに言うカカシ先生に、軽く怒りが芽生える。
これからもこういうことがありそうだと、猛っていた己のものが沈黙したのを感じ取り、気が重くなる。
まぁ、それでも、だ。
今までなら唇を噛み千切って終わっていたのが、こんなにも情熱的なキスをすることができた。
それは、俺にとっては救いで、カカシ先生にとっては歩み寄りで。
唇についた俺の血を嬉しそうに舐めているカカシ先生にちょっとドン引きながらも、俺は手を差し出す。
「カカシ先生。俺とあんた。真逆をいく愛情表現だけど、お互いを苦しめない境界線を目指して、俺と付き合ってくれませんか?」
「…苦しめない、境界線?」
手を見つめた後、俺を見つめるカカシ先生に、ええと頷く。
「俺だけ我慢しろ、あんただけ我慢しろじゃ、一緒にいる意味ないじゃないですか。だから、境界線。俺とあんたが一緒にいられるように、お互いがお互いを必要としていられるように」
どうですかと笑えば、カカシ先生の動きが止まった。
そのまま目を見開いて息を飲むカカシ先生を見つめていると、花がほころぶようにふわりと笑みが浮かんだ。
そのとき見た、透き通るように綺麗な笑みは、どうしてか懐かしい気持ちにさせた。
言葉が詰まる俺の手を握り、カカシ先生が手を引く。鉄格子に押さえつけるように俺を抱き込んで、カカシ先生は笑い声をあげた。
「やっぱり、あんただ、イルカ先生! 大好き、ずっと一緒にいよう。オレとあなたの境界線を一緒に見つけよう!!」
カカシ先生の深いところの言葉の意味は分からなかったけど、俺の提案に頷いてくれたことは分かったから、まぁいいかと、俺もカカシ先生の背中に手を伸ばした。
「イルカ先生、愛してる!!」
感極まったのか、突如力を入れてきた上忍のフルパワーに、俺は悲鳴をあげる。
「すと、ストップ、ストップ! 骨がいかれる、いか――!!」
ぽきというやたらめったら軽い音がして、俺の言葉は途中で途切れる。
続いて襲う激痛に苦しんでいるというのに、カカシ先生は「大好き」と思い切り抱きしめてくるから、たまったものではなかった。
痛い。マジで痛い。
力が抜けて、ふーと血の気が下がる。
「イルカ先生? イルカ先生!! 誰か来て、イルカ先生が!」
間近で怒鳴り立てているだろうに、遠いところで何かを叫ばれているかのようだ。
目の前のカカシ先生の気配が遠ざかるのを感じながら、これからが大変だなぁと人ごとのように思うのだった。
山を越えた……!!