ビンゴブックに載った男 1
「どーも、お疲れさま」
「はいー、お疲れさまでした」
きんきんに冷えたビールグラスをお互いに軽く合わせ、口をつける。
隣のイルカ先生はぐっと豪快に煽り、喉仏を小刻みに動かした後、ぷはっと大きく息を吐いた。
口周りに泡の白髭をつけて「んまい」と体を震わせるまでが、イルカ先生のお決まりの行動だ。
手の甲で乱暴に泡を拭い、オレに笑顔を向けて分かち合おうとするイルカ先生。
酒が入ったことでほんの少し気が抜け、疲れの色を覗かせる眦は倦んでいて、日のあるうちには絶対に見せない表情だからこそどことなく色気を感じる。
それを皮切りに、自分の目がそういう意思を持って動き始めたのを感じ、上忍の根性と鋼の理性でそれを抑え込み、いつものごとく平静を装って今宵の楽しい宴を満喫する。
下町の人知れずひっそりと立つ小料理屋。
いかつい親父が黙々と豊富な酒と家庭料理を提供するそこは、言わずと知れた上忍御用達の店だ。
この親父も元上忍で、左足を負傷してから引退し、長年夢だった小料理屋を構えた。
負傷のせいで動きに不自由さはあるが忍びの技は健在で、機密事項のある話をする時もこの店が推奨されている。
けれど、この親父の料理の腕がいいため、上忍連中の間ではもっぱら私的利用されているのが一般的だ。
店内の中はカウンター席のみ。
カウンター内にいる親父との距離が近いが、長年の癖か、気配が薄いからさほど気にならない。それに滅多に喋らない寡黙な親父だから、今までこれといって何かを思うことはなかったのだが。
「おやっさん……。あれ、あります?」
早々にビールを飲み干し、心なし緊張気味に親父へ尋ねるイルカ先生。
それに対し親父は不敵な笑みを浮かべるなり、そっとイルカ先生の目の前に器を置いた。
「用意してあるぜ」
「うわー! おやっさん、かっこいい! 大好き、おやっさん!!」
親父がおもむろに出したメバルの煮付けに、イルカ先生は驚喜する。
喜ぶイルカ先生は可愛い。だが、大好きと言葉を向けられた親父は憎たらしくて仕方ない。
「カカシ先生。カカシ先生も食べましょう! おやっさん、カカシ先生の分もちゃんと用意してくれてますよ」
食べたくて仕方なかったものが目の前にあるせいか、イルカ先生の顔はゆるゆるになっている。くっ、オレがここに連れてきたからこその笑顔だが、その大元を作ったのが親父であることが非常に遣る瀬無い。
「そうですね。うわー美味しそうだ」
普段魚屋で見るメバルよりも大きいそれと、付け合わせの豆腐の白とインゲンの青も目に映えて、実にうまそうだ。
煮汁が具材に染み込んでいるのが目に見えても分かるこれは確かに喜ぶべき一品だろうが、オレとしては素直に喜べない理由がある。
だいたいこの親父、イルカ先生が来ると微妙に嬉しそうな気配を出すし、何気にイルカ先生が喜びそうな品揃えを押さえているのだ。
今も、煮魚を口の中へ入れて喜色に沸いているイルカ先生をさり気なく視界の中に入れ、いつもむっつりと引き結んでいる口元を心なしかほころばせている様は、オレの第六感が警鐘を鳴らしている。
この店とは長い付き合いだったが、オレのささやかな望みを阻むようならば終わりにするしかあるまいて。
ここにイルカ先生を連れてくるのは最後にしようと密かに決意を固めていると、カウンター席からぼそりと声がした。
「下種な勘繰りは止せ、カカシん坊。それにな、例えおめぇが来なくともイルカ先生は通ってくれるぜ」
オレの考えを読み取り、イルカ先生には聞こえぬ声量で牽制された。
これだから元だろうが、上忍というやつらはやりにくい。
煮魚に夢中なイルカ先生を横目に、オレの邪魔をする気と視線とチャクラに意志を込めれば、親父は小さく笑った。
「おれはな、うまそうに飯を食うやつが好きなだけだ。おめぇみたいな邪な思いなんざ端から持ち合わせてねぇよ」
そう言ってイルカ先生を見つめる親父の目は子供を見守るそれで、オレはほんの少し警戒心を緩める。
……ま、鵜呑みにするわけじゃないけど通うのを止めるのはやめてやろう。オレもうまい魚料理を食わせてくれる店を無くすのは惜しいし。
隣のイルカ先生に倣って箸で煮魚を崩して口に運ぶ。
おいしいおいしいと気配に滲ませて叫ぶイルカ先生の言う通り実にうまい。
オレが食べたことを気配で知ったのか、イルカ先生の顔がこちらへ向く。
おいしいですねとにこっと笑うイルカ先生の笑顔が眩しくて、それとオレと同じ気持ちを抱いているのが分かって胸が満たされる。
うまいですねと笑って頷けば、イルカ先生も幸せそうに笑ってくれるから何倍も嬉しくなる。
にこにことお互い顔を見合わせて笑っていると、親父が小さく笑って、煮魚に合う酒を出してきた。
それに気づいたイルカ先生がオレから酒に視線を移して、親父のことを称えだすからオレとしては水を差されたようで少々癇に障る。
でも、ま、親父はイルカ先生に対して邪な目で見ていないことが今日分かったので、勘弁してやるとしよう。
親父が出した酒。
遠い昔、ぽつりと親父が漏らした昔ばなし。
自分より先に逝ってしまった息子が大好きだったという酒は、煮魚に合うという特徴以外とんと持ち合わせていないどこにでもある、あり触れたものだった。
自分が作った煮魚とこの酒で一杯やるのが至福の時だと笑っていた、今は亡き息子の代わりに、親父と向き合ってイルカ先生がこの酒の良さを語っている。
イルカ先生の話に相槌を打つ親父は、もしかしなくてもこの一時を懐かしんでいるのだろう。
親父の背後。
いつもは何もないそこに、オレたちと同じ煮付けと酒が置かれた盆が乗っているのはきっと息子のためのものだ。
オレにとっては間の悪い、親父にとっては僥倖な日に来てしまった不運を胸の中でぼやき、今宵だけは親父に譲ってやるかと吐息を漏らす。
こうして、イルカ先生の声をゆっくり聴けるのもまぁいいもんだしーね。
諦めと同時にイルカ先生を間近で鑑賞できるいい機会だと気を取り直して、オレは煮魚を口に運びつつ、煮汁で艶やかに濡れたイルカ先生の唇を見つめた。
あのときの決め手はこれだったなと、じくじくと押し上げる熱を押し殺した。
オレがイルカ先生を好きだと自覚した切っ掛け。
初対面時からオレのどこかを擽るようなものだったそれが、もっと深く、欲しいと焦がれるようになっていった。
言い訳できないほどに真っすぐに自分の体が示してきたものを思い返して、苦笑じみたものがこみ上げる。
イルカ先生の柔らかい声を微睡むように味わいながら、始まりの時へと思いを飛ばした。
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始まりました。
今回は全部書いているので、一気に読めますぜ、旦那っっ( ゚Д゚)b