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「どーも」
名を名乗り、頭を下げた男に、ひとまず挨拶を返した。
黒い髪に黒い瞳。頭を下げた拍子にぴょんと動く、一本に束ねた髪は犬のしっぽみたいだと思った。
合格に沸く子供たちの頭を撫でながら、どうぞよろしくお願いしますと屈託なく向ける笑顔は、オレみたいな怪しい覆面男に向けられるには珍しい類のもので、やけに居心地が悪かったのを覚えている。
うみのイルカ。
単純明快な直情馬鹿。表情をころころと変える忍びにあるまじき男。ちょっとしたことでも一喜一憂して、真正面から全力でぶち当たっていく、頭が悪いとしか言いようがない人。
全てを殺すことに慣れていたオレとは真反対の人種で、無邪気な子供みたいにお気楽すぎるあの男に会うと、訳もなく苛立ちが募った。
そして、今。目の前にはその苛立つ男が笑みを浮かべて、オレを見つめている。
「あの〜、ナルトたちの調子はどうですか?」
揉み手をしながら窺う男の言葉に、こめかみが勝手に蠢く。
毎度毎度同じことを聞いてくる男に、いい加減、嫌気を感じていた。もう我慢の限界だ。
「アンタさ、他に聞くことない訳? ナルトはどうだ、サスケはどうだ、サクラはどうだ。毎日毎日聞かれても大して変わりはありませんよ。それとも何ですか? オレの指導法に問題があるとでも?」
オレに意見しようなんていい度胸してるねと、故意に怒気を眼差しに込めれば、うみのイルカの顔色が変わった。
「べ、別にそういう訳ではあああありません」
卒倒するかと思ったのに、うみのイルカは真っ青な顔のまま、地面に足を押し付けるようにして立ち、オレと真正面から対している。
ふぅーん、見た目同様、根性はあるようだ。
どこまで耐えられるか、もう少し踏み込もうと思ったのに、横からお節介熊がしゃしゃり出てきた。
「カカシ。往来で物騒な気、立てんじゃねぇよ」
さり気なくうみのイルカを背中に庇うアスマに、舌打ちが出る。
こいつはオレがうみのイルカに踏み込もうとする度に、高確率の割合で邪魔してくる。
「アスマ先生っ」
天の助けだ、救いの手だと、あからさまに喜ぶうみのイルカにどす黒い思いが浮かぶ。そのお気楽な顔をいつか歪ませてやりたいと、心底思う。
「だから、物騒なんだよ、テメーは。おい、イルカ。今晩、暇だろ。驕ってやるから来い」
「え、本当ですか! アスマ先生、太っ腹っ。喜んでお供します」
アスマに向かって敬礼をし、オレの存在など忘れたかのように背を向けたうみのイルカが気に食わない。さっきまで散々、オレの後を追いかけては、七班の様子を教えてくれと媚を売っていたくせに。
大きく舌打ちを打てば、アスマが振り返り、小さくため息を吐いた。
「オメェも、来るか?」
呼びたくないがと顔に書いてあるアスマに言葉を返すより早く、うみのイルカが「え」と非常に嫌な顔で振り返った。
オレと目があった瞬間、まずいと目を逸らしたうみのイルカは、本当にオレを苛立たせる存在だと認めざるを得ない。
「冗談。過保護すぎる保護者と飲んだって、酒がまずくなるだけだーよ」
いい加減子離れしなさいよねと言ってやれば、うみのイルカの顔が真っ赤に染まった。歯ぎしりしながら、怒りの眼差しを向ける男に、少しだけ胸がすく。
最後に男の顔を見つめ、鼻で笑って、その場を離れれば、背後からうみのイルカの押し殺した呻き声が聞こえてきた。背中に、痛いほど強い視線が刺さってくるのが心地良い。
そうそう。そうやって、アンタは悔しがっていた方がお似合いだーよ。
くすりと一つ笑みを浮かべ、今日はまぁまぁの日だったなと自宅へ帰ったオレに、妙な任務が飛び込んできたのは、それから数日後のことだった。
「……犬、ですか」
火影室に呼び出され、切り出された任務内容の確認に口を開いた。
「そうじゃ」
三代目は、執務机に肘をつき、両手を組み合わせて一つ頷いた。
手渡された任務書をもう一度読み込み、火遁で燃やす。
「了解しました。で、出立は今からでよろしいですか?」
オレの言葉に、三代目は肩を落とす。不思議な反応を見せた三代目を見つめていれば、三代目はつまらんのぅと引出しから煙管を取り出した。
「おぬしには自分の意見というものがないのか。引き受けたわしが言うのもなんじゃが、不愉快すぎるぞ」
煙草を詰める三代目に、はぁとどっちつかずの返事をする。
渡された任務は、永世中立国が主催をしている、秘密のドッグショーに参加するというものだった。各国の名だたる主が、自分の一押しの忍びを犬に見立て、選び、そこで品評会を行う。
出品者たちにとっては、己の力を見せつける場であり、忍びにとっては新しい顧客開拓と、秘された存在である忍びたちの情報集めに打ってつけの場でもある。
永世中立国内での諍いは、国同士によって禁止されており、もしそれを破れば、それ相応の罰を受ける。そのため、例え敵対関係の国同士がいようとも、その場では仮初の平穏が約束されていた。
この度のドッグショーはいつもと趣向を変え、品評会に出る忍びを本当の犬としての意識を植え付け、その上でドッグショーを開催するという主催国側のお達しだった。
「ま、任務ですし、依頼主が火の国国王ですから。おまけに、かなり高額ですし、断る手はありませんよーね」
「……模範解答すぎるのぅ。誇りはないのか、写輪眼カカシとしての誇りはっ」
食って掛かる三代目に、はぁと返す。
写輪眼カカシだろうが、犬だろうが、オレにとってあまり大差ない。それに誇りを持てと言われても、困るというのが正直なところだ。
曖昧な態度を崩さないオレに見切りをつけたのか、まぁよいと息を吐き、三代目は「入れ」と執務室の前で控えさせていた者たちを中に入れる。
入ってきたのは、赤い短髪の女と、アスマ。
意外な組み合わせに嫌な予感がした。アスマはオレの気持ちにちっとも気付かず、最悪なことを言ってくる。
「こっちはオメェが犬になった間の世話係だ。向こうで犬になった後、一か月はそのままらしいからな。オレは護衛兼、サポート役だ。何か聞きたいことはあるか?」
アスマの問いに首を振り、不機嫌な様を隠さず、短髪女を眺めた。
女はオレの視線が向いたことを敏感に察知するなり、人好きのする笑みを浮かべたが、響いてくるものはない。
「聞きたいことはないけど、口出しさせてもらうよ。――アンタ、降りて。オレが犬になっている間、子種の一つでも欲しいと思ったんでしょうけど、アンタじゃ無理。犬になったとはいえ、興味のない女から終始誘われるなんて御免だーね」
「なっ」
怒気のためか顔を赤く染める女に、行きなさいよと手で追い払う。女は三代目に眼差しを向けたが、三代目は深い吐息を漏らし、「すまぬが、降りてくれ」と女に向かって告げた。
しばらくして、女の口から「御意」と聞こえる。さっさと去ればいいものを、女はやたら鈍い足取りで扉へ向かう。出る間際に、睨みつけられたが、それには肩を竦めて応えてやった。文句を言うなら上層部にでも言ってくれ。
女の気配が遠ざかっていくのを感じ、ため息を吐けば、それよりも大きいため息が聞こえてきた。
「カカシ。他に言い方はないんか。あれも、上からの命故じゃ」
「だからって、無理やり女を押し付けられる身にもなってくださいよ。結婚なんて柄じゃありませんし、子供何てものもいりませんかーら」
定期的にくる見合い話や、任務にかこつけて、隙をつくようにしてくノ一を侍らせてくる、上層部のやり方は本当に迷惑としか言いようがない。
木の葉は自由な風土が自慢じゃなかったのですかと視線を向ければ、三代目は煙管に火をつけて大きく息を吸い込んだ。
「おぬしは優秀じゃ。その子に期待をかけたいと思う者たちがおっても仕方ないことじゃろう。それにの、おぬしはどうも根なし草のような危うさがあるからの。ここらで誰か特定の相手と所帯を持って落ち着いてくれればと、年寄どもは願う訳じゃ」
わしを含めてのと、小さく笑いかけてきた三代目に、疲労を感じる。
優秀な遺伝子が欲しいというのは理解できるが、落ち着いてもらいたいと思う年寄どもの気持ちが理解できない。
忍びが真に落ち着ける時は、死の懐に抱かれた時のみ。
火影など、それが最たるものではないか。
甘い理想を押し付けてくる三代目火影に、ため息がこぼれそうになった時、アスマが口を開いた。
「で、世話係はどうすんだ? オレはテメーの護衛役で手一杯だぞ」
ガイにでもさせるかと、とんでもないことを言ってきたアスマに、冗談よしてよと拒絶した。
「男で、男色の気がないなら誰でもいいよ。あ、でも、ガイとうみのイルカだけは止めてよね」
オレの発言に二人の目が見開く。
「ガイは分かるが、どうしてそこでイルカの名が出るんだ」
「イルカは男色ではないぞ」
二人が疑問を持った相手が、うみのイルカだということに気付いて、オレは息を吐いた。
「あの人、どうも犬に好かれるみたいなのよ。オレの忍犬たちが、どうしてかいっつもあの人が何をしてたとか、自主的に報告くるのーよ。オレ、一度も頼んでもないのにさ。おかげで、うみのイルカについてやたらと詳しくなっちゃってーね」
「いや、それは」「鈍いのぅ」と、訳の分からないことを言う二人に向かって、だからとオレは切り出す。
「無意識に忍犬を誑し込めるほど、犬に好かれちゃってるのよ? 犬になったオレがあれに懐くなんて想像に難くないでショ。普段から上官、上忍師として、あの人には毅然とした態度で接しているのに、犬になった途端に情けない姿を晒すなんて、オレの尊厳傷つけられまくりじゃない」
写輪眼カカシの名折れだと主張すれば、二人は微妙な笑みを浮かべ、そうかと小さく頷いていた。
「まぁ、おぬしが望むならそうしよう。わしも個人的にはイルカをあの屋敷に近づけたくないんでの」
白い煙を吐き出しながら、どこか遠くを見つめ始めた三代目の意見にこれ幸いと頷き、アスマにも釘を刺す。
「と、いうわけだから。アスマ、絶対オレをうみのイルカに近づけるんじゃないよ。紅も引き入れていいから、オレの意志を尊重しなさいよね」
「く、紅は関係ねぇだろうが」と口ごもるアスマの純情ぶりを鼻で笑い、ドッグショーに参加するべく、オレたちは里を発った。
なのに。
「カッシー、おはよぉぉ! 今日も、いい天気だぞー」
頬を包まれ、額に温かい感触を感じて、まどろむ意識を無理やり覚醒させた。
白い光を背に、満面の笑みで覗きこんでいるのは、うみのイルカで、こともあろうかオレに覆いかぶさり、口づけをしようとしていた。
「……アンタ、殺されたいんですか?」
寝起きのオレにちょっかいを出すなんて、頭がイカレているとしか思えない。それに言っておくが、オレが受け身になるなんて有り得ない。
生粋の攻めであるオレに戦いを挑んでいるのかと、胡乱な眼差しを向ければ、うみのイルカはぽかんと口を開き、何を言われているか分からないような顔を見せる。
うみのイルカも寝起きなのだろう。乱れた浴衣に、いつもは結んでいる髪を解き、無防備極まりない様子でオレを見下ろしている。
その口に指を突っ込んだら、どういう反応を見せるのだろうかと考えて、一瞬湧き上がったどろりとした濃い欲望に衝撃を受けた。
オレに男色の気はない。こんな馬鹿馬鹿しい体勢のせいだと、うみのイルカを突き飛ばし、体を起こした。
犬になっている期間が長く、性欲処理をしていないせいで起こった生理的現象だと判断し、周囲を見回す。
一つの布団。ごちゃごちゃと置かれた生活雑貨。オレとうみのイルカの匂いが濃く残る部屋。
それは全て、オレとうみのイルカがここに長く暮らしていたという証拠になるものだ。
アスマにあれほど頼んだのに、オレの世話をうみのイルカに任せるとは、上忍としての実力を疑う。
オレのイメージに泥がついたと、ため息を禁じ得なかった。うみのイルカにだけは、絶対に弱みを見せたくなかったのに。
吐息を吐き、立ち上がる。部屋から出ようと足を踏み出して、今更ながら自分の体の状態に驚いた。
気持ち的には重いが、体が驚くほど軽い。任務を受けなかっただけでこうも体調が回復するのかと、新しい発見に気を取られていれば、背後から声を掛けられた。
「カ、カッシー」
耳慣れない呼びかけに、眉根が寄る。もしかしなくても、オレが犬の時はずっとその名で呼んでいたのかと咎めるように振り返れば、うみのイルカは泣きそうな顔でオレを見つめていた。
どくりと、鼓動が跳ねた。
笑っている顔か怒っている顔が、いつものうみのイルカの顔だったから、感情が乱された。
無意識に吸った息は言葉を吐くためのもので、それに気付いた瞬間、大きく舌打ちをした。
振り切るように背を向け、障子戸を開ける。後ろ手で閉めるなり、足を進めた。
鼓動はいまだに速い。歯を食い締めなければ、こぼれ出そうになる言葉を忌々しく思いつつ、三代目の元へ向かう。
「冗談」
何かの間違いだと、意識して言葉を吐いた。
泣きそうな顔をしたうみのイルカに、どうしたと尋ねたくなったなんて。強張っている頬に手を当て、慰めたくなったなんて。
脳裏にチラつくうみのイルカの顔を打消しては、くそと小さく悪態をつく。
犬になった後遺症がこんな風に出るなんて、とんだ誤算。いや、犬に好かれるうみのイルカの性質は分かっていた。だからこそ、うみのイルカに近づけるなと言っていたのに。
「……髭め」
無能男へと怒りの感情を向けながら、自分自身に起こった変化に、この先悩むことに違いないと、確信に近い思いを抱いた。
カカシ先生の無自覚ツンデレ。好きだ…。