「……オメェよ。いい加減、ちゃんと食え。そして寝ろ。とんでもねぇ顔になってるぞ」
上忍待機所で大人しく待機をしていれば、斜め横に座ったアスマが出し抜けに言ってきた。



犬から戻った後、オレは思うように寝食が取れずにいた。原因は全く不明だが、体は限界に達しようとしている。
思いつく限りのことは、すでにやった。このままの状態が続くことがまずいのは、自分自身がとうに理解している。
舌打ちをつき、そのまま無視してやり過ごそうとすれば、アスマの隣から続いて声があがった。



「そうですよ。だから言っているじゃありませんか。カカシ先生はいい加減、カッシーとして俺と暮らすべきだと。そうすれば、すべて丸く収まるんです」
場違い感この上ない万年中忍の言葉に、額が蠢く。存在自体を無視していたが、当然とばかりに言う男の言葉が無性に腹ただしくて、殺気と共に言葉を叩きつけた。
「アンタ、なんでここにいるの。万年中忍の癖に、おこがましいと思わないの?」
さっさといなくなれと、視線にも不穏な気配を忍ばせたのに、
「もっ、カカシ先生てっば強がっちゃってっ。俺とカッシーは一心同体ですから、カカシ先生の居場所が俺の居場所です」
と、朗らかに笑いながら言葉を返してきた。
暗部でさえもビビらせる殺気も、この男の前では無力らしい。
「おー。今日もイルカ先生頑張ってるな」「応援してるぞ」「カカシー、いい加減折れてやれよ」「涙ぐましいじゃねぇか」などと、待機所にいるほかの上忍連中が、茶々を入れてくる。
それに上機嫌で「頑張ります」と返す男に、ただでさえ苛ついていた感情が余計ささくれ立った。
「ちょっと。無責任なこと言って、焚き付けるんじゃないよ」
本気の殺意を込めて、男の周辺にたむろする輩に視線を向ければ、男たちは脱兎のごとくその場から離れた。だが、本当にいなくなって欲しい男は、笑顔を張り付けたまま身動き一つしなかった。
いい加減、頭にきて立ち上がる。
言葉と気配で分からないようなら、拳で言うことを聞かせると、男の胸倉を掴みあげた。



「アンタ。いい加減にうざいよ。二目と見られない顔になりたくないなら、今すぐ消えて」
もう我慢の限界だ。犬になった後遺症で、オレが男に好意を向けざるを得ないことを知っているのか、オレが自身に戻った時から男はオレの後をついて回った。「カッシー」「カッシー」とオレを呼び、一緒に暮らそうと口説いてくる男は頭が狂っているとしか思えない。
狂っていても中忍としての自覚はあるのか、上忍待機所にだけは近寄らなかったが、今日、とうとうこの場にまで踏み込んできた。上忍待機所が唯一男から離れられる場所だったのに、それも無くしてしまった。
この場を去るならそれで良し。この場に止まるならば、鼻をへし折ってやる。
人目があろうとも関係ないと、立ち去る素振りさえ見せない男に向かって拳を振り上げた寸前。



「カカシ先生」
男が小さく名を呼んで、オレの頬に手を寄せた。
瞬間、嗅いだのは男の匂いと体温で。それは、性質の悪い毒のように一瞬で全身を痺れさせ、オレの力を根こそぎ奪った。
「な、にを」
したと、尋ねる前に、目の前が真っ暗になった。
「気付いてあげられなくて、ごめんな」
体が何かに包まれる温もりと、間近に聞こえた男の声を最後に、オレの意識は遠くなっていった。






「ふざけんじゃないわよ! 中忍でしかも男の癖に、相手が務まると思ってんの!?」
甲高い声音を耳にし、意識が浮上した。
目を開ければ、暗かった。夜とは違う暗さと、顔に当たる感触に、何かが顔に被さっているのだと気付く。
手を上げ、顔を覆っている物をずらせば、白い光が目を焼いた。瞬きを繰り返し、体を起こせば、声を掛けられる。



「よぉ、お目覚めか。少しは眠れたようだな」
火のついていない煙草を、唇に挟んでいるアスマが笑う。
頭を掻き、待機所に掛かっている時計を見れば、二時間経っていた。もしかしなくても眠っていたらしい。短い睡眠だったが、重たかった体が少しは軽くなっている。
久しぶりによく寝たと、寝起きのぼんやりとした心地を堪能していれば、再び声が聞こえた。
「務まるに決まってるじゃないですか! 言っておきますが、俺とカッシーは相棒なんです、相棒!! 以心伝心、イーといえばカー。二人は分かり合っちゃってるんです。その二人の絆を切ろうとするとは、お釈迦様でも許しはしませんよっっ」
くノ一に囲まれた中に、男が一人、顔を真っ赤にして吠えている。甲高い反論が沸き起こる中、男は負けじと言い返していた。
「……何、あれ」
いつもならば体面大事で激昂する姿も見せないくノ一連中が、人が変わったように顔を赤く染め、目を剥いて、興奮した面持ちを隠しもせずに食ってかかっている。
「まぁ、見てろよ、おもしれぇから」
オレが起きたことでようやく火をつけ、美味そうに煙草を吸いだした男に、改めて上忍には珍しい部類だと感想を持ちながら、アスマに勧められるがまま視線を戻した。



男はくノ一の非難を毛ほど堪えた様子もなく、鼻で笑うなり、懐に手を突っ込んだ。
「俺とカッシーの共同生活。その仲睦まじさっ。その目に焼き付けるがいいっっ」
抜いた途端に舞い上がったのは、数枚の写真で。
はらはらと頭上に落ちてくる写真を手に取りながら、くノ一たちは声を上げた。
「やっだ、うそ! カカシってば、可愛いっ」
「やーん。これ、私のベストショットよりいいっ」
「何、この信頼しきった瞳! 身体を預けるように弛緩しきった体っ。悔しいけど、心開いているぅっ」
写真を見つめ、ダンゴ状になっては感想を言い合っているくノ一に、男は胸を張り高らかに自慢し始める。
「羨ましいでしょう、そうでしょう! この写真などほんの触りの一部分。カッシーの素顔や寝顔、可愛いおねだりポーズなんかは、俺だけのメモリアルに保存されてんですよッ。誰が見せてやるかってもんですよ!」
「いやぁぁ、ずるいー!」「私も見たい!」「見せてよ、万年中忍っ」
「いけずー!!」と、男の周りに群がり非難をし始めるくノ一。それを右に左にと捌きつつ、勝者の笑いをあげる男は、人相が悪くなっていた。
その中、あるくノ一が唇を噛み締めながら、懐から一枚の写真を取り出した。



「く。これだけは使いたくなかったのに…! うみのイルカ。秘蔵写真を見せてくれるなら、私のカカシ君をあげてもいいわよ!!」
苦渋に満ちた顔で突きつけた写真を前に、見下すような男の自慢げな顔が、途端に光り輝き、瞳を潤ませ頬を紅潮させ、右に左に腰を振り始めた。
「わぁ、何すか、これぇ! すんごい可愛いんですけどっ」
一オクターブ高くなった声を上げる男の手元に、くノ一が集まる。
覗きこんだ瞬間、かわいいと一斉に声をあげ、きゃっきゃとはしゃぐくノ一たちと男の横で、写真を取り出したくノ一は、わずかに誇り、そして少しばかりの悲しみを込めて語り出した。
「とある屋敷で偶然手に入れた一枚よ…。はっきり言って、レア中のレア。これを手に入れた時、私は自分の恵まれ過ぎた幸運に泣いたわ」
遠い目をしたくノ一に、男は大きく頷いた。
「ええ、ええ。確かに! こんなレア物ないですよっ。カカシ先生の幼少期の覆面なし姿なんて、下手したら極秘――」
男の言葉を最後まで聞かないうちに、その写真を取り上げ、燃やす。
誰も反応できない中、写真の燃える匂いが充満し、次の瞬間、声が弾けた。



「何てことするんだ、カッシー!! お前は今、一億人の全カッシーファンを敵に回したぞっ」
「ひどすぎるわよ、カカシっ」
「何て男っ、何て狂人ッッ」
「子カカシは里の宝よっ、木の葉の秘宝よ!」
「全世界に謝ってっ! 土下座して、謝りなさいよっっ」
男を筆頭に殺到してきたくノ一に頭が痛くなる。
だいたい自分の与り知らぬところで撮られた写真をどうしようが、責められる謂れはない。
「うるさーいよ。騒ぐなら、外でやってよね。ここは待機所。緊急の任務に対処するために待機する場所なの。さっさと、行った行った」
文句を言うくノ一たちをまとめて待機所から追い出し、戸を閉める。
オレに文句を言う声がしばらく聞こえていたが、頑なに戸を閉めていると、その場にいることも飽きたのか、移動していった。
ようやく静かになった場に、ため息を吐き、頭を掻く。
男とくノ一の言い合いの結末が、どうしてこうなったと理不尽さを覚えずにはいられない。



「うーん。今度、上忍のくノ一さんとカッシーを愛でる会でも開いてみるか」
くノ一の情報収集能力ってやっぱ侮れないなぁと感心している男に、こめかみが引きついた。肝心な男を締め出し忘れるとは、オレはどうかしている。
久しぶりに眠れたのに一気に疲れた。いい加減どこかへ行けと振り返れば、男はオレの顔に手を出し、にっこり笑った。
「ご心配なく。俺はもう行きます。この後、ちょっとした届け物の任務任されているんです」
望んでいたことが不意に叶えられ、面食らう。
「どこに?」
動揺したせいか、思わず聞いてしまった。
驚いた顔を見せる男に、視線を逸らす。後遺症は根が深い。男を側に近づけると、無意識に男の動向を気にしてしまうから厄介だ。
「気遣ってくださってありがとうございます。でも、任務なので言えないんです」
嬉しいような困ったような顔をして、鼻傷を掻いた男に、何も言えなかった。
黙るオレに、男は「そうだ」と声をあげると、風呂敷に包まれた箱状の物をオレに手渡してきた。



「危うく、本来の目的を忘れるところでした。これ、調理実習室でさっき作ってきたんです。男の手料理だからうまいもんでもないでしょうけど、腹の足しにでもしてください」
食べられないようなら捨ててもらっても構いませんからと、男は続ける。食欲がわかない現状に、いらないと押し返そうとしたのに、風呂敷から立ち上ってきた香りに一瞬気が取られた。
直後、ぐぅと、今までうんともすんとも言わなかった腹の虫が突然鳴いた。
「や、これは…!!」
自分の思わぬ反応に顔が熱くなる。ただただ恥ずかしい。
言い訳をしようと焦っていると、男は目の前で満面の笑みを浮かべた。
「良かった。カカシ先生、食欲はあるんですね。材料無駄にしないためにも、どうぞ食ってやってくださいよ」
にしゃりと笑って鼻先を掻いた後、男はそれじゃと笑みを残したまま踵を返す。
「あ」
呼び止めようと手を上げるが、男は待機所の扉の前で、失礼しましたと真っ直角に一礼した後、こちらに振り向きもせずに戸を閉めてしまった。



「……あー。もうどうすんのよ、コレ」
前髪をがしがしと掻いていれば、背後から笑い声が聞こえた。
「いいじゃねぇか、食ってやれよ。まぁ、オメーがどうしてもいらないなら、オレが食ってやるよ」
寄こせと手を出してきたアスマに眉根が寄る。
「いーよ。オレがもらったんだから、オレが食う」
アスマに食わせるのは癪に障る。何たって、オレを物のように扱う輩たちが勝手に所有権争いをしている様を、笑って見物しているような奴だ。全くもって友達甲斐のない奴め。
これはアスマだから食わせたくないんであって、別にオレが独り占めにしたい訳ではないんだと言い聞かせ、ソファに座る。



一段低いテーブルに風呂敷を置き、結ばれている紐を解く。すると、飾りっ気のないタッパが二段重ねで出てきた。タッパの蓋に手をかければ、さっき作ってきたという男の言葉通り、まだ温かい。
早く開けろよと急かす髭を無視して、蓋を開ける。目に飛び込んできたのは、白。三角の形をしたおにぎりが三つ、タッパへぎゅうぎゅうに押し込められていた。
「……白結びか」
何となくがっかりした気分になる。もう少し彩りも考えて、海苔を巻いたものとか、わかめを混ぜるとか、そういう努力があってもいいと思う。
そこまで考えて、頭を振る。なに、男の手弁当に要望をつけているんだ。別に期待していた訳じゃないと、二段目のタッパを開けた。
「はー。意外だな。結構、うまそうじゃねぇか」
覗き込んできた髭の顔を押しやり、おかず類が入っているタッパの中を見入った。
厚焼き玉子。うずらの卵とウィンナーの串刺し。赤と緑のピーマンの炒め物。ひじきとさつま揚げの炊いたもの。そして、甘辛に煮付けた牛肉。ポテトサラダ。
あの男の性格からして、彩りを考えて弁当を作ることはあり得ない。男が自炊する時は、一品料理と味噌汁とご飯が基本だったし、目分量で豪快に調味料を入れるものだから、妙に塩辛かったり、甘かったりすることが多々あった。



口布を下ろして、ひとまず厚焼き卵を抓んで、口に入れた。
醤油と砂糖を卵に混ぜて作った厚焼き卵は、オレ好みの薄味で、どちらかといえば濃い味が好きな男の味覚にはそぐわないものだった。
「……らしくないの」
漏れ出た言葉に髭が反応する。それに首を振り、もう一口食べようとして、箸がないのに気が付く。それが大雑把な、あの男らしくて、やっぱりこれを作ったのはあの男なのだと思う。
おにぎりを片手に、手でおかずを抓む。どれもこれも薄味だったけど、牛肉の甘辛煮は男好みの濃い味で、何故かそれを懐かしいと思ってしまう自分がいた。
結局オレは、にやけ顔の髭が見ている中、男の弁当を完食した。






「べ、別にアンタに感謝している訳じゃないよ。これは最低限の礼義として、節度ある大人として、当たり前のことを当たり前にしているだけですし。まぁ、アンタがらしくない気遣いしちゃう程度には心配させていたってことも分かりましたから、今晩、酒を奢るくらいのことはしてやりますよ」
受付所の戸の前で、左手を突き出し、男にかける言葉を復唱する。
男に好意を全く持っていないことを主張しつつ、上忍として、人として、最低限の礼に酒を奢る。
よし、完璧。
左手に引っかけている風呂敷の中には、昨日のタッパが入っている。あの後、任務もなかったので、夜に水をつけておき、今朝綺麗に洗った。
 完食したなんて言うつもりは全くない。だが、「そこそこ食べられた」と褒めるくらいなら問題ないだろう。ということは、始めに言うのは、「アンタにしちゃ、食べられる物作るじゃない」から始まって、それから――。



「何をしとんじゃ、おぬしは」
頭の中で文章を組み立てていると、背後から呆れた声が聞こえた。振り返らなくても分かる、三代目だ。
ややあって、ゆっくり振り返れば、三代目を先頭に、後ろで忍びたちが列をなしていた。
「……何か」
ありましたかと、廊下を塞ぐようにたむろする者たちを眺めた後、三代目に視線を向ける。三代目は深いため息を吐き、手を横に振った。
「それはこっちの台詞じゃ。おぬしが受付所の戸を占領しとるせいで、誰も中に入れんではないか」
戸の前から退けば、三代目はため息交じりに戸を開けた。その後を追うようにオレも入れば、後ろからあからさまな安堵の息が聞こえてくる。声を掛けてくれば退くのに、感じ悪いねぇ。



受付所には、受付員と数名の忍びがいた。朝早いためか、人が少ない。その中に、頭の痛い種である男を探そうとして、その姿がないことに気付く。
おかしい。忍犬たちの自主調査では、今日は朝一で受付任務が入っていたはずだ。
仕事にはくそ真面目さを発揮する男がサボる訳がない。急な用事でも出来たのか、それとも受付任務予定が急遽変わったのか。
あり得そうな可能性を考えるが、それもすぐ首を振る。忍犬たちからそういう報告は聞いていない。うちの忍犬は優秀だから、変更があった場合は即座に知らせてくる。
おかしいと腕を組んでいると、受付員の一人が三代目に気付き、弾けるように駆けつけた。



「三代目! やはりイル……。あ」
三代目の後ろに控えているオレに気付いた途端、受付員は口を閉ざしてしまう。
受付所で報告できるくらいのレベルならば、オレに聞かれたって問題はないはずだ。
ちらちらとこちらに視線を向ける受付員へ、続きはどうしたと視線で促す。途端に落ち着きをなくし始めた受付員に、とっとと言えと一歩近づいた時だった。
ひっと受付員が身を引いた場所に、煙管が一本付き出る。視線を向ければ、三代目は苦虫を噛み潰したように、オレを見つめていた。
邪魔しないで下さいよと軽口を叩く前に、三代目は煙管を口に噛みしめ、びびっている受付員に声を掛けた。
「よい。カカシにも聞かせてやれ」
しょうもないのぅと呟く三代目は、本当に感じが悪い。
三代目のお許しが出たところで安堵したのか、受付員は三代目へ向き直ると、矢継ぎ早に口を開いた。
「先の任務を請け負った者たちは、本日未明に帰りました。襲撃を受けることなく、皆、無事です。ですが、イルカとは連絡が未だつきません。距離的にも近いですし、襲撃を受けたと考える方が妥当かと」



男が、うみのイルカが、襲撃された? 
息を飲んだ。足元に何かが落ちる音が聞こえたが、構っていられなかった。
途端に、指先が冷え始め、鼓動が荒く打ち始めた。
嫌な汗をかいている自分に気付き、動揺しているのだと判断する。だが、オレのこの感情は後遺症で、でも……。
呻きそうになる口元を抑えていれば、三代目が白煙を吐いた。
「捜索隊には、鼻の利く者を派遣しようかの。……ここに一人、うってつけの人物がおるが」
三代目の視線を受けるより早く、オレは名乗り出ていた。





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ここらで約半分です。次回からは再びイルカ先生視点だ!





犬になった男 7