夢を見た。
体が燃えるほどの暑さと、内蔵まで凍り付きそうな寒さを繰り返す中、温かく大きな手が優しく体を包んでくれる。
ゆったりと淀みない手が動く反面、溺れるように縋りついてくるように降る声がおかしかった。
「大丈夫」
「助かるから、心配するな」
「大丈夫、助かる、絶対助けるから」
「大丈夫、大丈夫」
「頑張れ」
声をかけるというよりは、自分に言い聞かせるそれに、こちらが声をかけてやりたくなる。
悲痛ともとれる声が、少し哀れに感じた。
口に運ばれた、強い甘みに混じる慣れた味覚に、これで大丈夫だと朦朧とする意識の中、思った。
体を襲う感覚は苦しく、意識は千千に切り刻まれるというのに、不思議といい夢だと思えたのは、親身に看病してくれる誰かの存在が嬉しかったのかもしれない。
目を開けると、見知らぬ部屋が見えた。
カーテンが陽射しを遮断し、柔らかい日の光が部屋を照らす。
六畳の狭い畳の部屋。押入と小さな本棚がある以外、なにもない。
奥にもう一部屋あるようだが、襖に閉ざされて、今は見えなかった。
日の差し込み具合からして、正午を少し回った頃か。
すぐに動くような愚挙は犯さず、警戒しながら辺りの気配を探る。
耳に滑り込む生活音。
外から聞こえる鳥たちや人々の声に、ここは自里の住宅地なのだと知る。
忍びの勘がこの部屋に誰もいないことを告げ、ほんの少し警戒を緩めた。
頭を巡らそうとして腹に激痛が走る。
一体、どれくらい経ったのか。
傷はまだ治る様子をみせずに、じくじくとした嫌な痛みを訴えてくる。だが、体を巡るチャクラに意識を向ければ、少しだが回復の兆しを見せている。
チャクラが回復しつつあることに安堵し、全身から力を抜いた。
そこでようやく自分が厚手のバスタオルを幾重にも引いた中で寝ていることを知った。
「にゃ」
声をあげれば、掠れた猫の鳴き声が聞こえた。
腐っても鯛かと、意識を失っても変化を持続させた自分を少し誉めてやる。
明るい陽射しで見た自分の体は、白い毛並みで覆われていた。
一番深く傷ついている腹の傷は、薄汚れた自分の毛並みの色とは違う、真っ白な包帯に覆われている。
傷口からは、微かに薬草の臭いがした。
ルリ、アザギ、ショウノコウと、あとは何だろう。臭いから分かる薬草は全て化膿止めに使われるものだ。
他にも数種類、自分が知らない薬草を使われている事実に、何とも座り心地が悪い気分になるが、嫌な感じは今のところしない。…まぁ、大丈夫だろう。
することもなくなり、考えるのも億劫になって、再び目を閉じる。
滑りこむように訪れた眠気が、体を重くする。
体はまだ眠りを欲しているようだ。
そのまま寝てしまおうと、意識を手放す直前、部屋に入り込んだ気配を察知し、瞳を開けた。
霞かかった意識が、一瞬にして冴え渡る。
家の主のご帰還か?
わずかな緊張と警戒を抱きながら、主が入ってくるのを待ちかまえる。
あと三歩の距離。さて、どんな奴が現れるやら。
襖の戸が横に滑った直後、現れた人物に思わず口が開いた。
一本に括ったひっつめ髪に、前向きで快活そうな男らしい顔。
その顔中央に真一文字に横切った傷跡を持つその人は、自分の部下である、うずまきナルトが恋い慕う、イルカ先生だった。
「にゃにゃ…!」
名を口走っても、猫である自分では何を言っているか、分からない。
イルカ先生は、まるで弾けるような笑顔を俺に向けるなり、しゃがみ込んだ。
「にゃんこ、気がついたのか?! 良かった、お前、三日間寝っぱなしだったんだぞ。目、覚ましたなら、あとちょっとだな。よく頑張ったなぁ、お前」
ぐじっと鼻を啜り、瞳に涙を浮かべて、俺に熱い視線を送ってくるイルカ先生。
「えらい、えらい」と大きな手で頭を撫でられながら、よりによってと頭を抱えたい心境だった。
俺は彼がとにかく苦手だった。
アカデミー教師のイルカ先生。
性格は直情的で、すぐに手が出るが、情は深く、子供たちから慕われている熱血教師。
忍びとしての彼の評価は知らないが、アカデミーの教師を務めるだけあって、バランスは取れているのだろう。
子供たちを仲立ちに、初めて顔を合わせた時に、これは駄目だと俺の勘が二もなく告げた。
そこらでもいるような平凡な男。
だが、忍びとしては稀な人種。
感情は駄々漏れで、忍びとしての本分である、欺き隠すこととはおおよそかけ離れた、まるでお日様のような人物。
俺の先生も太陽のような人だったが、彼はお日様。
のどかな昔話に出てくるような、お気楽なお日様。
季節で言えば春の陽射しのように、暖かい温もりだけを注ぐような人。
暖かさも、苛烈な暑さも、厳しい陽射しも、そして決して失うことのない希望の光も全て体現していた先生とは全く違う。
ようは甘いのだ。同じ忍びだとは思えぬほどのぬるさ、甘ったるさが、鼻につく。
出会った当初は、やたらと熱い視線を向ける彼に、大部分の者たちと同様に、二つ名に惹かれて見せる憧れだと思っていたから、子供たちの手前、普通程度の会話はしていた。
けれど、顔を合わせる度に、彼から出る言葉は全てが子供たちを案じるもので、俺は自分の認識を改めなければならなかった。
憧れ? 馬鹿馬鹿しい、こいつはあいつらの母親だ!
ナルトが、サスケが、サクラが、と我が子を案じすぎるばかりに、危険な物から全て遠ざけようとする過保護な母親振りに、虫酸が走った。
何度会っても、子供たちの心配しかしない彼を疎むようになったのは、早かった。
今では、わざわざ彼のいない時間を見計らって、受付所に訪れるようにしている。
そのため、彼と直接顔を合わせるのは本当に久しぶりだった。
以前会った時より、心なし顔色が悪い。
目の下に濃い隈はあるし、肌はかさついてるし、明らかに寝不足の顔だ。
まったく忍びとして情けなーいことだよ。あんた、本当に子供を教える立場の先生な訳? そんなんで、子供たちに忍びの心得言ったって、全然説得力ないんだーよ。
ぶつぶつと文句を言ってみるが、生憎にゃーにゃー言う俺の言葉は、彼には全く伝わっていなかった。
軽く首を傾げた彼は、思いついたとばかりに後ろ手で盆を引き寄せた。
盆の上には、湯気の立った重湯が入った器と、三個の梅干しが別皿で載っている。
「にゃんこ、腹減ってないか? 一応、重湯を作ってみたんだが、食べられるか?」
木のスプーンに一掬いして、まず自分が食べ、次は息を吹きかけ十分に冷ましたものを、口元に差し出してきた。
俺は、元は人だからいいものの、猫に人間の味付けした食い物を食わせてはいかんだろう。
動物には人間の味は濃すぎて体に悪い。
「……食べ、られないのか?」
彼の黒い瞳が不安げに揺れる。
まるで泣く一歩手前のような顔に、仕方なしに口を開いた。
ほんのり塩味が利いた、優しい味。
久しぶりに味わう米に、胃が騒ぐ。
腹は減っていたようで、運ばれてくる重湯をがっついた。
「こら、慌てるな。まだ傷は塞がってないんだからな。ほら、逃げやしないから、ゆっくり食え」
笑いながら喜んで介護してくれる彼に、少しの感謝と同時にむずがゆい何かを感じながら、俺は夢中で飲み込む。
時折梅干しを混ぜてくれながら、差し出してくれたそれはあっという間になくなった。
口周りに飛び散ったものを舌で嘗めていると、彼は濡れた蒸しタオルで口元を大きく拭ってくれた。
寝床にも散ったそれに気づき、新しく寝床を作り、移動させてくれる。
成されるがままに大人しくしていれば、彼は嬉しそうに笑った。
「いい子だな、にゃんこ。抵抗されるの覚悟してたんだけど、賢い子で助かるよ。お前、忍猫だろ?」
思わぬ言葉に、目が見開く。
慎重に俺を寝床に寝そべらせながら、彼は何かを堪えるように笑った。
「ご主人様の額宛を、首からぶら下げて倒れてたんだぞ、お前。―怪我してるのに、無理しやがって…」
ぐずりと鼻を啜り上げ、彼は立ち上がるなり、本棚へ向かい、何かを手に持ち、俺のところに戻ってきた。
「…大事なものだろう。ここに置いておくからな」
見慣れた額宛が、寝そべっている俺の横に置かれる。
間違いない。俺の額宛だ。
病院といえど目を晒すことが嫌で、いつも通り目を覆っていたため、変化の時に一緒についてきたのだろう。
彼の中で、何やら壮大な物語が作られているのか、涙ぐんだ瞳で俺は詰られる。
「額宛が光ったおかげで、お前を見つけられたから良かったものの、こういうことはするなよ。ご主人様だって、お前が生き残ってくれた方が嬉しいに決まってるんだからな」
ご主人様は敵の凶刃に倒れ、俺はせめての形見に額宛を持ち帰り、里へ帰ってきたという筋書きか。
あんた、どんだけおめでたい頭してんだ。犬でもあるまいし、気ままな猫がそんな殊勝なことすると思ってんの?
ぐしゅぐしゅと本格的に泣き始める彼を前に、俺は居心地が悪くて仕方ない。あぁ、鬱陶しい。早くどっかに行ってくれないかーね。
その願いはすぐ叶うことになった。
そわそわと目を走らせる俺の前で目を擦っていた彼は、突然、ポケットから懐中時計を取り出すなり、立ち上がった。
「やば。あと五分で授業だ! にゃんこ、悪いけど俺行くからな。ゆっくり寝るんだぞ、それとー」
ぐぅきゅるぅぅぅうぅ
彼の口から言葉が出るより先に、腹から壮大な音が響いた。
俺が思わず口を開けた途端、彼は少し顔を赤らめ、鼻先を掻きつつ笑った。
「安心したら腹減っちまった。―あ、それどころじゃないんだった。早く帰るから、大人しくしとけよッ。勝手に出ていこうとするなよ、絶対安静だからな、いいな!」
口早に言いたいことだけ告げ、彼は襖を閉めることすら忘れ、玄関から飛び出ていった。
何よ、あれ。
呆気に取られると同時に、無性に腹が立ってくる。
もしかしなくても昼休みの時間を使って、見知らぬ忍猫の食事のためだけに帰ってきたのか。おまけに、自分の食事を投げ出して…!!
全くどれだけ偽善面を晒せばいいのだと、本気で頭にくる。
だいたい彼は自分というものを蔑ろにしすぎる傾向がある。自己犠牲は素晴らしいと、世の人たちは言うが、俺から言わせれば、身勝手な自己満足だ。
する本人はいいだろうが、された相手はどうすればいいのだ。
するだけして、とっとと去るだけの本人と違って、相手はそこにい続けなければいけないのに。
やっぱり嫌いだーね。あんな奴。
久しぶりに見た、自分に向けられた満面の笑みを思い浮かべ、悪態をつく。
早くここから出ていこう。
拾ってくれたことは感謝するが、自己満足を満たすために、世話されるなんて冗談じゃない。あの欲望に忠実な、夜這い看護師の方が百倍マシだ。
起きあがろうと体を捻った途端、腹が焼け付いた。
全身に嫌な汗が吹き出、思わず出そうになった悲鳴を喉で押し殺す。
―まだ無理か。
己の状態に舌打ちが出る。
この状態で動けば、せっかく回復したチャクラも霧散してしまう。
三日経ったというのに、今、この状況でチャクラ切れになると、休暇中に体を治すことすら難しくなる。
徐々に引いてきた痛みに、少しずつ息を吐きながら、天井に目を向けた。
古い木目のある、見知らぬ天井。
自分の体臭ではない匂いが充満した、小さな部屋。
気に食わないが、この際仕方ない。
任務に支障が出るくらいなら、例え心情的に嫌な奴でも大人しく世話させてやる。
一度覚悟を決めたら、ぐずぐず悩むのも馬鹿らしくなって、体の力を抜いた。
気が抜けるだけで、すぐさま睡魔が忍び寄ってくる。
まだ本調子ではないのだ。だから、仕方ない。
開いた襖の奥、彼が生活する空間を目に収めながら、眠気に身を任せた。
猫カカシ先生は、きっと美人猫だろうなぁ…。