ちょっとあんた! いつまで仕事するつもりなの?! 早く寝なさいよッ。明日は会議だって言ってたでしょーがッ。
「にゃ、にゃにゃにゃ、にゃにゃっ!!」
いつまでも寝ようとはしない男の前に立ち、俺は猛然と抗議の声をあげた。




「にゃんこ〜、頼むから退いてくれよ。これ、急ぎの書類なんだぞ。明後日までに形にしないとやばいんだって」
抗議の声には耳も貸さず、ちゃぶ台に広げた巻物の上に座る俺に向かって、男は情けない顔を晒す。
「うーにゃ。にゃにゃにゃんにゃ。にゃにゃにゃんにゃにゃーにゃ。うにゃにゃっにゃにゃ」
だーめ。だいたいそれ、あんたの持ち回りじゃないでしょッ。こんなもん引き受けて、あんたが倒れたら元も子も意味ないでしょーがッ。忍びが自分の健康管理怠ってどうすんのッ、早く寝る。



まだ諦めきれずに、巻物に伸ばそうとする手を容赦なく叩き落とし、俺はぷいと顔を横に向け、首で寝室を示す。
「うー…。あぁー、わかった、分かった。お前の言うとおり、今日はもう寝るよ。確かに、ここんとこ残業続きで疲れ取れてないしな」
首を横に傾け、ごきごきと肩を鳴らし、男は一つ息を吐いた。それに、こくこくと頷いてやる。
寝室に行く男の後ろを後からついていけば、「明日寝ないでやればいいか」とつぶやく声が聞こえたので、足に思い切り噛みついてやった。
「いった! お、おま!! 本当に容赦ないなッ。あーぁ、いつから、お前は俺の母親になったんだ」
ぶつぶつと文句を言いながら、ベッドの上にあがった男を見守りながら、俺はため息をついた。



やだね〜。せめてもの恩返しに、写輪眼のカカシ自ら、生活指導してやろうってのが分からないなーんて、ーね。
おまけに母親呼ばわりとは、ほんと頭悪いっ。せめて監督とか、守護者とか、深い仲とか言えないのかーね。
電気を消して布団に潜り込んだ男を確認し、満足の息を吐いていると、賭け布団から顔を出した男がじっと俺を見ていた。
「にゃんこー、お前も寝よう?」
来い来いと手招きする男に、ぷいと顔を背ける。
本当、この男、信じられないよーね。この写輪眼のカカシに向かって、何言ってんだか。寝言は寝てから言ってほしいもんだーよ。
「にゃんこー、いいじゃん。昨日は寝てくれただろう?」
ばふばふと布団を叩き、俺の気を引こうとする。
それにつれなく尻尾で嫌だと示した。
あんたと一緒に寝ると、抱き込まれるから嫌なーの。



俺の態度に、男は眉根と眦を下げ、ひどくしょげかえる。
「にゃんこ〜」
こちらを見つめる目が寂しいと告げてくる。
う…、ほ、本当に寂しがり屋なんだから……!! そんな目で見られたら、後味悪いでしょーがッッ。



仕方ないと、でも本当は嫌なんだとしぶしぶ歩いてきた俺の手をひっつかみ、布団の中へ引きずり込んだ。
「ん〜、やっぱにゃんこは優しいな。んー、この毛並み、いつ触っても気持ちいいーー!!」
顔をぐりぐり寄せられて、俺はげっそりしながらも耐える。
前にあまりにしつこく顔を寄せるから、猫キックを腹にお見舞いしてやったら、この男はひどく傷ついた顔をして、めそめそ泣き始めた…。
一時間経っても、二時間経っても泣き止まず、あのときは本当に疲れた。
しくしく泣く声が鬱陶しくて、最後の手段とばかりに、頬を伝う涙を舐めたら、一瞬驚いた顔をした次の瞬間、破顔して、ようやく泣き止んでくれたのだ。……ほんと、調子がいいというか、単純というか。



せめてもの当てつけに、ふぅーと深くため息を吐く。すると、小さく笑った後、俺の体からゆっくりと体を離した。そして、俺の頬あたりを小さく掻きながら、話し出す。
「にゃんこ、お前が来てからもう六日経つな。怪我ももう治ったし………そろそろ出ていこうって思ってんじゃないか…?」
思ってもみない言葉に、髭が戦慄いた。
言われてみれば、怪我はほとんど治ったし、チャクラ、気力ともに十分だ。
明後日からは予定通り、通常任務が入ってくる。男との仮宿生活もおさらばしなければならない。




「……うーにゃ…」
そうだと頷く俺の声は何故か覇気がなかった。
俺の返事に、男は一瞬顔を歪ませたが、顔に笑みを作ると頷いた。
「そ、そうか。うん、そうだよなっ。おまえ、俺よりチャクラ量あるし、身のこなしも風格も上忍以上だし、やっぱり引く手あまたなんだろうなッ。そ、そうだよなっ。お前もお前の事情があるし、引き留めていい訳ないもんな。うん、そうだよ、うん、そうなんだよ」
どんどんと小さくなっていく言葉を聞きながら、俺はどうしていいか分からなくなった。
俺の毛並みを何度も撫でる。口では聞きわけのいい言葉を吐きながら、何度も丁寧に掴むように櫛けずった。
それはまるで行くなと引き留めているように思えてならない。
「にゃー」
泣きそうな気がして声を上げれば、我に返った顔をして俺を見つめ、にっこりと笑った。
「うん、分かってる。引き留める訳ないじゃないか。……新しいご主人さまの元で頑張れよ。俺、応援してるからさ!」
ぽんぽんと頭を撫で、口を閉ざす。俺を見つめる瞳は潤んでいた。
側にいて欲しいと濡れた瞳が俺に語る。けど、そんなことは口に出さず、代わりに「おやすみ」と呟く。そして、俺をぎゅっと懐に抱き寄せて、くぐもった声をあげた。
「ーー最後だし、このまま寝てくれるか?」
みっともなく震える声に、やっぱり泣いたのかと思う。
いつもなら、うっとうしく思う泣き声は、この日は何故か切なくて、男の体に擦り寄せて喉を鳴らした。
気持ちが通じたのか、男は小さくしゃくり始め、俺の小さな体に縋った。










朝の光が瞼を差す。
そっと顔を上げれば、俺を抱き込んだ男の顔が見えた。目の下を真っ赤に腫らし、眉間には深い皺が刻まれている。
結局男が寝たのは、ほんの数時間前だ。
泣き続ける男につきあった訳ではないが、俺も全くといっていいほど眠れなかった。
子供のように泣く癖に、俺を引き留めない大人の分別を持つ、男のアンバランスさが何とも歯がゆい。
あれほど泣けるなら、言っちゃえば楽になるのーにね。
こんこんと眠る男の手に頭を擦り寄せ、世話になったと感謝の意を示す。
男を起こさないようにするりと腕から抜け出し、寝台の上の窓の下枠へと立った。
カーテンを潜り、施錠を外して窓を開ける。
外からの風がカーテンを揺らし、光が室内へと入り込む。




男への最後の挨拶は止めておこうと、昨日の夜、考えた。
昨日であれだけ泣いたのだ。いざ別れの段階になれば、男の悲しみは凄まじいものになりそうだ。
窓の桟に手をかけ、外に出ようとして、足が止まる。
男へ言うことは何もない。猫の身で何をしなければならないということもないし、何かをしたいとも思わない。
だけど、足が止まる理由はーーー。




振り返って、カーテンの向こうにいる男を思う。
瞬間、憐憫ともいえぬ、感傷じみた感情が胸にわき起こった。
そうだ、最後に。
そう、最後にもう一度だけあのぶさいくな寝顔を見たい。
俺が去ることを知り、ずっと泣いた癖に、変に物わかりがいい態度を取った意地っ張りな、あの顔が見たいと、一歩踏み出したとき。
「……行くのか?」
カーテンを越えた先で、男の瞳とぶつかり、息を飲んだ。
起きた気配に全く気づけなかった。腐っても中忍かと、どうでもいいことを考えながら、俺は黙っていても仕方ないと鳴いた。
「にゃー」
男の寝起きの顔が歪む。
慌てて押さえた両手の隙間から、一筋の滴が落ちた。
「ち、違う。これは朝の光がまぶしかっただけなんだ…!」
下手な言い訳に笑いが出そうだ。
「にゃ」
別に泣いてもいいんじゃなーい?
俺の言葉が通じたのか分からないが、男は手を退けると、ぽろぽろとこぼれる涙をそのままに、俺を見た。
「にゃ、にゃんこ、あ、あのさ!!」
必死な形相で俺に語る男。だけど…。
「……元気で…な。いつでも、またいつ来てくれても構わないから、な」
言いかけた言葉は、結局男の口から出ることはなかった。
それが少し残念だと思う俺はどうかしている。言われて困るのは、俺の方なのに。




「にゃー、にゃ。にゃにゃ、にゃ」
もう来ないよ。バイバイ、イルカ先生。
猫の言葉で語った、さよならの言葉。
もう二度と来ることはないと告げた言葉は、何故か男に通じた。
「…やだ。また、来てくれよ。俺、ずっと待ってる、から」
くしゃりと顔を歪ませた瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
昨晩からこの男はずっと泣いている。このままでは干上がるのではないかとバカな心配をしながら、最後だし、サービスだと顔を寄せた。
首を突きだし、頬を伝う涙を舐める。塩気のあるそれは、どことなく甘いと感じるのは気のせいだろうか。
「…にゃんこ」
「うーにゃ、にゃ」
いつまでも泣いてないで、笑う。
あんたは笑った方が、まだ見れる顔してるんだから。
肉球を頬に押し当て、出血サービスとばかりに元気づけていれば、ピーと甲高く鳴く鳥の声がした。
振り返れば、任務再開を告げる鳥が窓の外で待っている。




一週間の休暇だったのが、一日早まったようだ。
容赦ないなぁとため息がこぼれでた。
「…もう任務に行くのか? 怪我、治ったばかりじゃないか」
心細そうに呟いた男に、仕方ないさと肩を竦める。
里の看板忍者の弊害って奴ですよ。
尻尾を大きく振り、窓へと飛び移った。式の鳥は早くしろと羽ばたきながら見下ろしている。
はいはい、今、行きますよ。
体を縮ませ、次の瞬間、外へと飛び出す。それに併せて、式の鳥も先行するように宙へと身を投げ出した。




「ーーにゃんこ!!!」
男の呼び止める声が聞こえた。
けど、後ろは振り返らない。
振り返ったらそれだけ未練がつきまといそうだ。
そこまで考えて、未練ってなんだと己を笑う。いつになく感傷的になる自分がおかしい。




地面に着地し、そのまま突っ走った。
閑散とした通りを駆けるその後ろから、引きつるような声が追ってくる。
「また来いよ! おまえの大好物用意してるからッ、俺、待ってるからッ。ずっと、ずっと待ってるから……ッッ」




近所迷惑だなんて、男の頭にはこれっぽっちもよぎっていないのだろう。
普段はバカがつくほど常識的なのに、感情的になったら周りが見えなくなる。
それに泣き虫。
男のくせに涙もろくて、六日間面倒見ただけの猫に情を移しちゃって、大泣きして別れを惜しむ、バカな男。
変化した仮初の姿にまんまと騙された、間抜けな男。





「――にゃんこッ、俺、待ってるからな!」
朝早い時刻に、何度も大声で叫ぶものだから、隣近所の住人の目を覚ましたようだ。
「うるさい」と男に向かって怒鳴る声が風に乗って聞こえる。




男の階下に住む一般人は、忍よりも神経質な男で、ちょっとの振動にもケチをつけて部屋に怒鳴りこんでくる。
男が猫じゃらしを持ってきた時、俺が揺らす前に取るもんだから、男がムキになって猫じゃらし取り合戦になったこともあった。
そのとき階下の一般人が怒鳴りこんでくるのを察知した男は、俺を抱えて天井裏に逃げたこともあったけ。
他にも、ご飯炊き忘れておかずだけ食べたとか。風呂に入ろうとしたら水風呂だったとか、寝坊してパジャマのまま出勤しそうになってたとか。
くだらないことばかりが脳裏を過ぎる。




男と過ごしたのは、六日間だけだった。
正確にいえば三日間はずっと寝ていたから、満足に生活したのは二日程度。
たったそれだけだったのに。




まだ泣いているだろう男の情けない姿を思い出して笑おうとして、失敗した。
胸に沸き起こるのは、男を嘲る皮肉な感情ではなく、何かを失くした痛みだった。





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今回のカカシ先生は、脱素直…! ……たぶん。



君がいる世界 4