「で、おめぇは何、面倒くせぇことしてんだ?」
木陰からアカデミーの演習場を覗き見ていた俺の後ろから、熊がのっそりと現れた。
「うっさい、熊。熊はおとなしく山に帰って、鮭でも取ってきなさいよ」
俺は今、忙しいのだと追い払えば、熊はふーんと気のない声をあげた。
まったく、面倒くせぇ面倒くせぇ言うくせに、首突っ込んでくるんだから。
気を取り直して、演習場のある一角に視線を合わせる。
今日は子供たちに手裏剣の実地練習をしている。
先生の顔をして生徒たちに手裏剣の使い方を説明している男に目を凝らし、その変化に舌打ちが出る。
昨日よりも目の下の赤みが増している。腫れだって3ミリは間違いなく腫れている。またぐずぐず一人で泣いてたの?!
あの家を出てから一週間経つっていうのに、まだ吹っ切れない男がもどかしい。
今日の朝、軽い任務だと狸爺に機密文書奪還を命じられ、今し方帰ったために、朝食と昼食は確認できなかったが、この様子じゃ、昨日と同様にご飯だってまともに食べていないに違いない。
今にも倒れそうな青白い顔の男に、ヤキモキさせられる。忌々しいと眉間に皺を寄せれば、隣で声が上がった。
「イルカ見てんのか…。おーぉ、見ねえ間に、ずいぶんと憔悴してんな。飯ちゃんと食ってんのか?」
「分かるー? あれから夜もよく寝れてないみたいだし、ご飯もあまり食べないしさ、本当まいちゃ……」
言いかけて止まる。
ちらりと視線を横に走らせれば、くわえ煙草の熊がにやりと何やら嫌な笑みを向けてきた。
「……何よ」
ゴムでできた手裏剣を手にはしゃぎ回る、遊びの段階を抜けないアカデミー生のにぎやかな声をバックに、動向を探る。
熊はにやにやと品のない笑みを顔に張り付け、空々しく言った。
「いやーなぁ。おめぇが何かに固執すんのも珍しいと思ってなぁ」
「……固執なんてしてないでショ」
様子を見ているだけだと熊に言えば、大げさに肩を竦める。
「おめぇよー。もちっと周りに目を向けろ。写輪眼のカカシが宗旨変えしたって、クノイチどもがぎゃーぎゃー言ってるぞ。今更、男だ女だとか言わねぇが、もうちょっと忍んで行動しろや」
熊のお節介としか言えない忠告に、ますます皺が寄る。
「………忠告はありがたいけど、それこそ放ってくれる? いちいち干渉されるの煩わしいんだけど」
「それができりゃ苦労しねぇよ。面倒だが、こっちも事情がある」
隣に腰を落とし、ヤンキースタイルで煙草を吸うアスマの言に、内心呻いた。
「……姐さんか…」
「………まぁな」
素直に頷く男にため息がこぼれ出た。
こいつの紅信奉にも呆れるものがある。好きなら好きでさっさと告白なり押し倒すなり、拝み倒すなりすればいいものを。
紅も紅だ。お節介焼き婆の称号にふさわしく、仲人みたいな真似を嬉々として。他人より自分の面倒みるのが先でしょうに。
「……意気地なし」
進展のない二人の関係を揶揄して言った言葉は、思ったより早く返って来た。
「その言葉、そのまんま返してやるぜ」
言葉と共に鼻から紫煙を吐き出し、アスマはくつりと笑った。
ガキンと硬質的な音が響く。上段から振り下ろしたクナイを、下段から受け止めたアスマが煙草を咥えたまま笑う。
「おいおい、図星さされての逆上か?」
「バカ言ってんじゃないよ。ムカついただけだっての」
しばし刃を競り合わせていたが、アカデミーの鐘が鳴るのを聞きつけ、力を抜く。この後、男は受付任務につく予定だ。
報告書をまだ出していないのに気付き、ついでに男へ渡して間近で様子を見てやろうと腰を上げれば、アスマが重いため息を吐いてきた。
「面倒くせぇ野郎だな。ちょっと貸せ。オレが代わりに出してきてやる」
尻ポケットに無造作に突っ込んである報告書を抜き取るなり、宣言したアスマに開いた口が塞がらない。
「何、バカなこと言ってんの?! 報告書は通常、任務遂行者が直接出す決まり事でしょーが!」
「おぉ、今更、イイ子ぶりやがって。『面倒くせぇ』言って、そこらの中忍にAランク任務の報告書押し付けまくった規律違反常習者の癖によ」
昔のこと掘り起こすだなんて、お前は女か!
「ちょっと、そんなことしたら、俺がイルカ先生に叱られるでショ!! そんなの御免なのッ」
動きが緩んだ隙に報告書を奪い返し、アスマから背を向け歩き出す。すると、アスマは懲りもせずに俺の後をついてきた。
「アスマ、本当に邪魔。山に帰って、お節介者同士、鮭捕って末永く暮らせば」
しっしと手を振っても、アスマは気にした素振りも見せず、ぼやいてくる始末だ。
「あーあ、本当に面倒くせぇな。こりゃ紅がギャーギャー言う気持ちも分からんでもねぇな。……お前は少年か、思春期の坊主か? あ?」
わざと煙をこちらに向かって吹く髭が本当にうざい。報告書で煙を追い払い、いい加減にしろと睨む。
「止めてくんない。匂いつくでしょ」
「それもイルカ先生に注意されるのがこえーからか?」
訳の分からないこと言う髭を無視し、建物内に入れば、周囲の視線がこちらを向いた。やれやれ、まだ物珍しい存在ですか、俺は。
立ち止まってこちらを見詰める奴らを追い抜かし、受付所へと辿り着く。
中から男の気配を感じ、待たずにすんだなと戸を開けた。
戸を開けた直後、受付内の動きが止まる。やれやれここもかと、気疲れを覚えながら、絡みつく視線を無視して報告書に最後の記入を済ませた。
ちらりと男の列を見れば、相変わらずの大盛況だ。
仕事が早い人の所に行きたいのは分かるけど、あんなに憔悴しきっている人のとこに並んだら、余計時間食うでしょうに。
もしかして誰も男の憔悴振りに気付いていないとか? やだねー、同胞の心配ができない忍びなんて、先は決まってるもんよ?
ため息を吐き、最後尾へと並べば、何故か、列が二つに割れた。その先に見えるのは、男が座る机だ。
…………はい?
先を譲ってくれた忍たちを見れば、そのどれもがどうぞどうぞと手振りを交えて道を開ける。
「…………急いでないから、いいヨ」
理由の分らぬ好意ほど、不気味なものはない。
断る俺に、譲る忍たち。
膠着状態に陥りかけたそのとき、またもやお節介熊がしゃしゃり出てきた。
「ちっ、面倒くせぇ。さっさと行きゃいいじゃねぇか」
背中をしこたま蹴られ、俺はよろめきながら人垣の真ん中を突きっ切る。振り返って文句を言おうとして、正面から声がかけられた。
「次の方、どうぞ」
顔を上げれば、手を差し伸べ、癒しやら幸運やら奇跡とか、くだらない称賛がつきまとう笑顔が見える。
真正面から見れば見るほど、瞼は腫れ、目の下は赤と黒が混じり合った不健康そうな色を貼り付けている。
………どこが癒されんのよ。
胸の内で悪態をつきつつ、「ん」と報告書を手渡す。
男は、ようやく目の前にいるのが俺だということに気付いたのか、一瞬、瞳を大きくさせ、それからもう一度頭を下げた。
「カカシ先生、任務ご苦労様です。今日も七班の任務じゃないんですね」
報告書を手に取り、掛けてくる言葉尻が若干萎む。そうよ。今日も一人で任務よ。悪い?
「いいから、とっとと見てくれる?」
不機嫌に言えば、男はぴくりと肩を波打たせ、「はい」と畏まった返事をした。……なんか、ムカつく。
男は受付の規定通りの質問を俺にする。それに適当に答えながら、決して顔を上げない男の顔を見詰めた。
元から焼けていた肌は、今では体調の悪さ故に別の意味で黒ずみ、艶も失われてる。口端が切れかかっているのは、栄養不足のせいだ。それはまだいいとして、一番問題なのは。
何の前触れもなく、俯く男に向かって手刀を振り下ろす。突然の暴挙に、ざわっと周囲が揺れた。だが、男からの反応はない。
頭に触れる寸前で止めた。そこで、ようやく男の体が反射的に後ろへ引く。
その直後、驚いた顔を向けてきたが、驚いているのはこちらの方だ。
よりにもよって集中力が切れかかっている。
今の男にCランク以上の任務が舞い込んできたら、確実に怪我をする。そればかりか―。
口の中に嫌な苦みを感じ、その先は考えないようにした。
「あ、あの俺、いえ、私は、はたけ上忍の気に触ることを致しましたでしょうか?」
瞳に不安を過ぎらせ、顔を青くさせる男に舌打ちが出る。そのことでますます怯える様子を見せる男が気に食わない。
「何でもない」と口を開く直前に、アスマが横からしゃしゃり出た。
「気にすんな、イルカ。こいつ、今、気が立ってんだ。それより今日、久しぶりにオレたちと飲みに行かねーか?」
アスマは自分と俺を親指で差し示し、気さくに笑う。あまりな言い訳と、急な誘いに何を言ってるのだとアスマを見た。
咎める視線を平気で受け止め、アスマはどうしたと、わざとらしく俺に聞き返す。
冗談じゃないッ。何だって、俺がこの先生と酒飲まなくちゃいけないのさ。
断ろうと息を吸った瞬間、男の申し訳なさそうな声が届いた。
「すいません、アスマ先生。――俺、今日はどうしても家にいなきゃいけないんです」
先に断りを入れられ、肩すかしを食らった気分だ。
思わず凝視する俺を尻目に、男はアスマに頭を下げた。
「すいません、度々誘っていただいているのに」
「あー。もしかして、また例のアレ待ってんのか?」
声を潜めるアスマの言葉に、男は歪んだ笑みを見せた。
それを見た途端、神経が苛立った。
「…そんなこと言わずに、イルカ先生。今日は飲みに、いえ、何か食べに行きましょう」
男に詰めより、口火を切った。
一瞬、しまったと思うが、もう言葉は出た後だ。
言葉を撤回しようか迷った俺に先じて、男は歪んだ笑顔のまま首を振った。
「すいません。今日は無理です。申し訳ありません」
言葉は柔らかいが、頑なに拒否する姿勢を見せる男に、どこかが焼け付く。
「どうしても?」
顔を近づけ、プレッシャーをかける。だが、男はぴくりとも動かずに「申し訳ありません」と頭を下げた。
そこで、俺の何かが切れた。
「……そう。じゃ、上忍命令。アンタは今日、俺と何かを食べに行くこと。まさか嫌とは言わないよね?」
受付の机に手をつき、座る男を見下ろす。否が応でも連れだすと、気を込めれば、男は歪んだ笑みを浮かべていた顔を無表情にさせ、俺を真正面から見詰めてきた。その黒い目に浮かぶのは、強固な意志の光だ。
「…失礼ですが、ここは里の中。しかも緊急時でもありません。上官とはいえ、私事に関して命令を受け入れる謂れはありません」
きっぱりと拒否する男に、しまったと臍を噛む。
この男に上忍命令なんぞ持ちだしても、何一つ意味を持たない。そればかりか、逆効果だ。
周囲に視線を向ければ、上官の命令を真っ向から拒否した男に視線が集まっている。ほとんどが好奇心によるものだが、中には悪感情を持った者もいるようだ。
特に上忍連中の気配が剣呑になっている。
もっと人気がなくなって来た方が賢明だったと己の行動に舌打ちし、男の腕を掴む。
「ここじゃ、話にならない。ちょっと顔貸しなさいよ。悪いけど、彼、借りるよ」
有無を言わせず、隣の受付任務者に断りを入れ、連れ出そうと試みる。だが、俺の行動は逆効果だったようだ。
「いい加減にして下さい!」
パンと高い音を立て、掴んだ手に軽い痛みが走る。思わぬ痛みに手が緩んだ。
振り返れば、怒りで顔を赤くした男が奪い取った手を胸の前に引き寄せ、俺を睨み据えていた。
咄嗟のことに言葉が出なくなる。
「今、俺は任務遂行中の身です。私事で任務を妨害するとはどういう了見ですか?! お話があるなら後で聞きます。今はどうぞお引き取りください」
意志の強い黒い瞳に見詰められ、たじろぐ。こういう展開は望んでいなかったのに、どうして…。
迷惑だと全身で叫ぶ男に裏切られた気分になる。
心を砕いて言ってやったのに、アンタがそういうつもりなら…。
「……分かった。任務の邪魔したのは悪かったーね。―もう知らない。お好きにやれば」
くるりと背を向け、出入り口へ歩く。
道を開けた忍たちの視線がうざい。見せものじゃないと殺気を滲ませれば、開けた道が広くなる。
「おい、カカシ! 報告、途中だろうがッ」
背中にアスマの声がかかってくるが、それも今更な話だ。
「アスマが適当に答えていーヨ。俺、面倒になっちゃった」
任したと片手を上げて振れば、すかさず、男の声が響いた。
「はたけ上忍! それは困りますッ。お話をきか」
ぴしゃんと受付所の戸を閉め、男の声を閉ざす。力の配分を間違って、受付所の戸の窓ガラスがひび割れたが、まぁいい。
通路にいた連中が何事かと視線を向けるが、俺の顔を見るなり、皆、視線を逸らせた。
神経がささくれ立っているのか、周りの他愛無い行動すらも吐き気が出そうなほどにイラつかせられる。
今日は厄日だと、悪態をついて、瞬身の印を組む。今日の任務はこれで終了だ。
煩わしい視線から、全てから今すぐにでも逃れたかった。
「はたけ上…、カカシ先生ッッ」
消える一瞬、男の声が聞こえた気がした。
けれど、それに答える気には、もうなれなかった。
…カカシ先生、無意識にナチュラルストーカーしてました。