本当に、俺は何をやっているんだろーねッ。
捨て台詞を吐いて男の前から姿を消したのは、ほんの数時間前だというのに、気づけば俺は物陰に身を潜めていた。
理由がつかない自分の行動にイライラしてくる。
任務中だったら、俺はすでにあの世とやらに行っているところだ。
窺う先には男の姿がある。
人通りのない、路地裏の奥の壁に背をつけ、ぴくりとも動かずに俯いている。
束ねられていた髪は解かれ、その顔を覆い隠していた。常より早い呼吸と、吐しゃ物が足元に散らばっているのは、制裁を加えられたからだろう。
やった相手は、受付所にいたあの上忍連中。
実力はあるが、素行が悪いと噂される奴らだ。
もう少し早ければと思いかけて、馬鹿ばかしいと笑い飛ばす。
だいたいあんな目立つ所で上忍の、よりにもよってはたけカカシの誘いを断るからだ。自業自得って奴だね。
悪態をつきつつ、積み重なった箱の影から様子を窺う。
かれこれ数十分は経っているのだが、男は動かない。
面倒だとは思いつつ、知り合いの誼で、医療班を呼んでやることにする。
式を飛び立たせようとして、男の近くに小さな気配が現れた。
それに合わせて、ゆっくりと体が動く。身動きを止め、男の様子を窺った。
顔を上げた拍子に黒髪が滑り落ちる。現れた顔に傷はないものの、その顔は歪んでいた。腹を庇うように丸くなり、男は小さく笑った。
「よぉ、どうした…?」
現れた小さな気配は喉を鳴らせ、男の肘に頭をすり付ける。
「にゃー」
ごろごろと小さく喉を鳴らせ、茶色のキジ猫は媚を売るように仰ぎ見た。
小さな顎に、指先が添えられる。
「腹、減ってんのか? ……悪いけど、今、何も持ってねぇんだ……」
喉を掻かれ、気持ち良さそうに目を細める猫に、男は言う。
優しい声音に胸がざらついた。
お優しい彼のことだ。俺を拾ったように、こいつも拾って帰るに違いない。
垂れ流しの情が鼻について、むかついてくる。
これ以上、その顔を見ているのも嫌になって、腰を上げた。喋られるくらいだ、医療班も必要ないだろう。
見切りをつけ踵を返した時、男は小さく謝った。
「ごめんな…。俺んとこにはもういるから、お前を連れて帰ってはやれないんだ」
言葉が意外すぎて、足が止まる。動けない俺の背後から、猫を宥める声が聞こえた。
「お前はあいつと違って人懐っこいから、いい人が現れるよ」
「にゃー」
可愛い返事も出来るしなと、男は笑った。
その笑い声に誘われるように引き返し、腰を下ろす。そっと影から見た男の顔は、今にも泣きそうな顔だった。
猫は胸に手をかけ、母猫に餌を強請るように口元を舐める。それをくすぐったいと手で避けながら、息を吐いた。
「……何処にいるんだか。見かけは器量良しだから、新しいご主人さまのとこで優雅に暮らしてんのかな……」
口元を舐めていた猫は、餌をくれない人間だと悟ったのか、媚を売っていた態度を翻し、塀の上に飛び乗ると、そのまま去って行った。
男は引きとめる素振りも見せず、その後ろ姿を見送った後、笑った。そして膝を引き寄せ、その上に顔を伏せる。
「…あいつも、あれくらい未練がなかったら…。――そうしたら、俺だって」
馬鹿猫と小さく呟き、男は再び身動きを止めた。
帰る素振りも見せない男に、どういう訳か、俺の足も動こうとはしない。
彼に言いたいことは色々とあった。
あんたが寂しそうだから、ぎりぎりまで俺は側にいただけだし、未練なんて、あんたが持っているだけで、俺にはこれっぽっちもない。ぐだぐだと恋しがっているのは、あんただけなんだ。
男の肩が小さく震える。
それと同時に聞こえてきた言葉に、痛みを伴う甘さを感じた。
「――次は、絶対に言ってやる」
次、なんてないのにね。
イルカ先生のところには、もう行かないって決めたんだーよ。
視線を男から外し、脇の壁に背をつける。
路地裏特有の饐えた空気を吸い、空を見上げた。
雑居ビルが立ち並び、歪な形に切り取られた空は、厚い雲に覆われている。
淀んだ空気を連れ去る風に、水の匂いを感じ、明日は雨かと思った。
行かないと思う頭で、もし猫の姿でイルカ先生と会ったら、先生はあのとき言えなかった言葉を言うのだろうかと、想像する。
もし先生が言ったとして、そのとき、俺はどう答えるのだろうかと、当てもなく考えて、答えが出てこない自分に笑いが出た。
本当に、俺は、何をしてるんだろうね………。
昨日も似たようなことを考えていたなと、ふと思い出して、情けなくなってきた。
今日もあの日同様、雨が降っている。
よっぽど雨に縁でもあるのか、土砂降り模様の大荒れ天気だ。
おまけに時間帯も同じ頃。
人通りが絶えた深夜に、水たまりだらけの通りを、俺は必死に歩いていた。
猫の姿で、再び。
思い出したくもない数時間前の記憶。
Sランク任務で今度は左肩を大きく切られ、即病院送りになった俺。
チャクラで傷を塞げばいいものを、縫合して自然治癒で治しましょうと決めた医師と火影さまに、忌々しいと思いつつも、己の不手際な怪我なだけに何も言えなかった。
縫合してもらった後は、入院だけは絶対嫌だと言い張り、自宅養生にしてもらうことに成功した。
これで怪我を治すことに専念できると胸をなでおろしたというのに。
余計なことに、俺の介護をする名目として一人の忍を押し付けられた。
髪の長い清楚な雰囲気を持ったクノイチ。
仕草、言葉遣いから見て、どこぞの良家の娘だろうということが窺え知れた。
それと同時に、俺の介護をこのクノイチに任せたことに対して、上層部の腹積もりが透けて見えてぞっとした。
形を変えた見合い。
高ランク任務後に女を宛がうことで、もしかしたらという下心もついてくる、何ともこすい手だった。
上層部が送ってくる見合いをことごとく断っている俺に対しての嫌がらせかと、頭が痛くなると同時に、冗談じゃないと唾棄したかった。
ただでさえ怪我をして神経がささくれているというのに、どうして俺が女の面倒まで見なくてはいけないのだ。
自宅で、「カカシ様」と前回襲われた看護師と同様の色が含まれた眼差しを向けられ、プツンと何かが切れた。
自宅でひと悶着あった気がするが、そこら辺の記憶はどうも曖昧だ。
女のヒステリー気味の叫び声と、何かが飛ぶ気配に体を翻し、俺は土砂降りの雨の中に出た。
そして、今に至る。
雨に打ちつけられ、切られた肩が熱を持ち始めた。
くらくらと目眩までしてきて、自分で何処をどう歩いているのかさえ、理解できない。
足の赴くままにフラフラと進んでいれば、汚いオンボロアパートが目に入った。
見覚えのあるそこは、怪我した俺が世話になった場所でもあり、二度と来ないと決めた場所でもあった。
視界には入るが、見えるだけで距離は遠い。
小さな猫の体からして、数十分はかかるのではないかというその場所で、俺は足を止めた。
アスファルトを打ちつける雨粒が跳ねかえって、全身を濡らす。
ぼやけるアパートを見詰めながら、ふと思った。
男が本当に――。
男が本当に俺のことを待っていてくれるなら、ここにいる俺の存在にも気付いてくれるはず。
大粒の雨が乱れ降る中、小さな音はかき消され、視界も曇らせる。
男と会ったあの時は、電灯のある通りだった。けれど、ここは電灯もない暗がりの中で、俺の体は小さく、気配もあってないようなものだ。
自分でさえ、気付くかどうか分からないこの状況で、男に求めた。
ぐらぐらとアパートが揺れる。
地震でも起きてるのかと考えて、そんな訳ないと鼻で笑う。
揺れているのは俺の体だ。
地面を踏みしめていた腕と膝が頼りなく震えている。それと同時に、視界が明滅を繰り返す。
あるかないかの力を振り絞り、顔を上げ、俺は喉を開ける。
「にゃー…」
ねぇ、俺を見つけてよ。
ちっぽけな俺を見つけ出して、一人じゃないって言ってよ。
そうしたら。そうしたら、俺は――。
水飛沫が顔にかかる。体が鉛のように重くなった。
暑さも寒さも分からず、遠くなる景色の中、男の声が聞こえた気がして、無性に笑いたくなった。
……これは、傾向としてシリアスに入るのでしょうか……? 分からなくなってきた…Σ(=口=)