人の気配を感じて目を開けた。
「ッッ」
途端に至近距離でこちらを見つめる顔が視界に入り、度肝を抜かれる。
「やっぱり、寝ててもビジンは美人だなー」
世迷い言を言い放つ先生に体温が上昇する。
ビビってしまったのも悔しいし、調子に乗って額に唇を寄せてきたもんだから、猫パンチをお見舞いしてやった。
「ビジンは恥ずかしがり屋さんなんだからー」
もろに頬へ入った三本線に怯むことなく、その傷を嬉しそうに撫でる先生に、尻尾がさかんに横へ大きく揺れる。




ちょっと前までは、俺が引っかいただけでべそかいてた癖に、その変わりようは何なのよ!




最近のイルカ先生は、とっても落ち着いている。
ばさばさだった髪は艶やかさを取り戻し、吹き出物やら肌荒れで見るも無惨だった肌は、ゆで卵のようなきめ細やかな肌に生まれ変わり、目の下の隈は取れ、活力に満ち溢れている。
そのおかげで、先生はアカデミーでも受付でもフットワークが軽く、今までもより仕事の出来る男に変身してしまった。
先生のお人好しの性格もあり、今までは回ってこなかった仕事も舞い込んでくるようになり、俺に夜の任務がない日以外は、俺の方が先に帰っている方が多い。




あの覇気のない、女々しい先生よりはマシだとは思うが、元気になったからってその分仕事量を増やすってのは、ちょっと違うんじゃないかと思う。




「にゃーう、にゃにゃにゃ! にゃ、にゃにゃにゃー!! にゃ、にゃにゃにゃッ、にゃにゃにゃ?!」
ちょっとアンタ、毎日毎日、なーに残業ばっかしてんの! 今日で10日連続よッ、働きすぎでしょーがっ!! たまには早く帰ってきなさいよッ。なに、家族をないがしろにしてんの?!
先生が抱き上げようと伸ばしてきた手を、機敏に避け、今まで溜まっていた鬱憤を吐き出す。
懲りずに伸びてくる手をばしばしと叩き、毛を逆立て威嚇をすれば、先生はだらしない顔をもっとだらしなくさせ、「かわいい」と鼻を伸ばした。
ちゃんと俺の話聞きなさいよねッ!




先生の家族になって、早二週間。
おおむね俺と先生は仲良く暮らしている。
警戒していた犬塚とも特に会うことも、ちょっかいを出されることもなく、実に平穏な日々を過ごしていた。




だが、一つ。
俺にとって無視できない、決定的な難点があった。




「にゃーッ、にゃにゃ!! にゃんにゃっにゃッ」
先生のうそつきッ、今日は早く帰るって言ったじゃない! 俺と酒飲みたいって言ってた癖にッ。
「あー、腹減ったか? 悪い悪い。でも、喜べ?! 今日はお前の大好きなブリと大根のあら煮を買ってきたんだぞ」
今日はお前が独り占めだ! 俺は同僚と酒飲んできたんだと、一人分の食事を用意する先生にイライラが募る。
台所に行く先生を追いかけて居間に移動し、先生の背中を思い切り睨みつけた。
あー、全く通じてないッ。俺は先生と夕飯食べたかったの! その後に一緒に酒飲みたかったのにッ。




先生との生活の中での難点は、細かい意志疎通ができないことだ。
おかげで、はたけカカシに助けられた話も未だ聞けていない。
聞こうにも、先生は俺が鳴くと、腹が減ったのだと決めつけてくる。違うと鳴いても、今度は遊んで欲しいのかと、紐の奪い合いごっこに発展して、階下のこうるさい男に見つからないように隠れる羽目になる。
これでは、いつその話が聞けるか、甚だ疑問だ。
今日だって俺は先生と飲めると思って、子供たちの尻を叩いて任務を速攻で終わらせてきたのに、帰ってみたら先生はいないし、帰る気配もないし。
ふと壁にかかる時計を見上げれば、針は午前一時を指している。毎晩、毎晩、午前様ってどういうこと!




これはもう勘弁ならん。仕事だ、付き合いだといっても、家族を蔑ろにする言い訳にはならない。
今日は分かるまで抗議してやる。それでも分からなければ、毎日、強制帰宅させてやる。




ぶんぶんと尻尾を振り回し、どう責めてやろうかと思案していると、ブリと大根をご飯にかけたお皿を俺の前に置いた先生が、にっかと笑った。
「それとなー。お前に、プレゼントがあるんだ」
先生は手提げ鞄を引っ張り寄せるなり、ふたを開け、手の平サイズの布に包まれたものを取り出した。
「ほら、ビジン」
そんなもので俺の機嫌が直ると思ったら、大間違いだ。
興味なさそうに横目で見る俺の鼻先で、ゆっくりと布を摘む。
出てきたのは、首輪だった。
夜の色を溶かしたような青みがかった紫色の糸で編み上げられたそれは、微かな光の反射を受けて色合いを変える。見るからに高価なものだと分かる。




もしかしてこれって、東の国原産の虫の繭から作られる糸で織られているんじゃない?
特殊な環境下と、独自の技術で織りあげられたそれは、目玉が飛び出るほど高いと聞き及んでいる。とてもじゃないが、中忍の給金で買えるものではない。
どうしたのよ、これと、視線で訴える俺に、先生は悪戯っ子の顔を見せた。
「へっへっへー、すごいだろ。けど、まだまだ驚くのは早いぞ」
待ってろと首輪を無造作に畳の上に置き、先生は台所に引き返すなり、盥とコップを持ってきた。
見守る俺の前で、先生は盥の中に首輪を入れると、コップの中の水を盥に注ぐ。水に浸ったそれは湿り気を帯び、色を濃く変えるだけで何も起こらない。
どう反応していいか分からず戸惑う俺を見て、先生は含み笑いを漏らす。そして、居間の電気を切った。すると。




盥の中の首輪が淡く発光し始めたではないか。
蛍の光のように淡い光はうっすらと天井にまで光を映し出し、ぼんやりと文字を浮き上がらせる。
木の葉の忍文字で書かれたそれを読み、俺はもう口を開けるしか術を知らない。




「どうだ、ビジン。驚いただろー」
上機嫌な声と共に、電灯がつく。それに合わせて、淡い光で書かれた文字は消えた。
…ええ、驚きましたとも。
にっこにっこと音が出そうなくらい笑みを浮かべる先生を見て、何だか急に疲れが出た。
飲み過ぎたのか、先生の顔は真っ赤だ。もしかして正常な判断も残っていないんじゃないかと、本気で疑った。




感想はと目を輝かせて見つめる先生に、俺は一つ重いため息を吐く。すると先生は分かっていると必死の面もちで懐から白い包帯を出した。
「だ、大丈夫だって! お前が俺以上のランクの任務に行くってのも十分承知だ。だから、薄い発光のもので我慢したんだ。本当だったらもっと光量の強いものにしたかったけど、包帯で完全に遮断できるような弱いものに泣く泣く変更したんだからなッ」
濡れた首輪に包帯を巻き、電気を消す先生。
すると、発光していた首輪から一切光は漏れてこず、暗闇のままだった。
「これだったらいいだろう、ビジン! お守り代わりにこれを肌につけといてくれよ」
電気をつけて、俺の前に正座してその首輪を捧げ持つ先生。
生真面目に俺の返答を待つ先生がおかしくて、それに何より。




この写輪眼に、迷子札つけようって考えるこの人ってどうなのよ?
考えるだにこの状況が笑えて、猫の身でバカ笑いをしてしまいそうで、きっちりと揃えられた先生の膝小僧に頭をすり付けることで、こみ上げる笑いを押し隠した。
だけど、おかしくて、おかしくて仕方ない。
俺がはたけカカシだって知らないのは分かってる。でも、自分よりもチャクラ量があって、格上だって認めている忍猫に、ここの住所とご丁寧に「うみのビジン」って書く忍がどこにいんのよっ。
あんた、本当にバカじゃないの?




体を折り曲げて、先生の膝へと深く顔をつける。
お腹が痛い。あー、もう本当にこの人ってバカだ。大バカ決定。
「…ビジン、気に入らないか? それとも色が嫌だったか? お前、銀色だからこっちの色の方が似合うんじゃないかって………。あ!! お、お前、笑ってんのか?!」
笑ったのがバレた。
猫が笑うのかどうか知らないけど、ここまできたら隠しても無駄だと、俺はひっくり返って声をあげて笑った。
「うにゃにゃにゃっ!!」
足をばたつかせ笑う俺を見て、先生の眉が寄る。
「な、なんだよッ! 元はといえば、お前が雨の日ばっかりに瀕死の重傷で帰るのが悪いんだろッ。あの二回はほんとーに、運が良かっただけなんだからな! 俺が偶然通りかからなきゃ、お前、危なかったんだぞッ」
笑うなと、先生は顔を真っ赤にさせて、怒る。
だって、先生、おもしろすぎるんだもん。




にゃっにゃっにゃっと引かない笑いに任せて、ずっと笑っていたら、先生は唇を突きだし、首輪をつつき始めた。
「だって、心配なもんは心配なんだから仕方ないだろ。お前の任務についていければいいけどさ…。それもできないし…」
先生の手が俺の腹を触る。瞬間、緊張が走るが、それも一瞬だ。
ゆっくりと大きく撫でる先生の手は気持ちいい。油断すれば寝てしまいそうな魔力を秘めているから、すごいもんだと思う。
大きな手に懐いていれば、先生はわき腹の近くで手を止め、少し悲しげな声で呟いた。
「……お前、傷だらけだ」
その言葉にぐるぐると鳴っていた喉が止まる。




「ここと、ここ。あと、ここ。それと、ここも。全部、誰かを庇ってできた傷だろ。お前ほどの実力なら避けれる場所なのに。古傷だけど、ここまで残るなんて……」
押し黙った先生に、尻尾が揺れる。
確かに先生の言う通り。どれも誰かを庇った傷だ。それが原因か知らないが、最近、三代目は俺に単独任務ばかりを回してくる。
まったく何を勘ぐっているんだか、あの狸爺は。
キセルをくわえ、とって食えないような人の悪い笑みを浮かべた三代目を思い出し、何となく苦い気持ちになった。




落ちた気分を浮上させたくて、もっと撫でてくれと先生の手にすり寄った。でも先生は俺の首あたりを掻いた後、手を遠ざける。
えー、けち。
家族サービスしろと、寝転がったまま、遠ざかる手に向かってパンチを繰り出せば、先生の手が戻ってきた。
よしよし、思う存分撫でろと腹を晒していたのに、俺を襲ったのは気持ちの良い感触ではなく、冷たい上に濡れた感触だった。しかも、腹ではなく、首にきた。
「と、いうわけで、お前はこれをつけて任務行くんだぞ。これさえあれば、俺がお前を迎えに行くし、お前だって俺の元に帰ってこれるんだぞ」
何が「と、いうわけ」なのか、理解ができない。それに俺は体に何かつけるのは、好きでない。
良く思っていないことが伝わったのか、先生は唇を引き締め、難しい顔をした。
「二度も命を救った恩人でもある、お前の家族のお願いの一つくらい聞きなさい」
ぱしぱしと畳を叩かれ、耳が落ちる。
それを言われると弱いのに。




首輪を蹴り上げようとした後ろ足を止め、俺は渋々先生のお願いを聞くことにした。
現金なことに、都合のいいことだけは敏感に察する先生は、大人しくなった俺の頭を撫で、嬉しそうな声をあげる。
「よーし、いい子だな、ビジン!! これで俺とお前はどこにいても繋がってるぞ。お前が動けない時も、ピンチに陥ったときも、俺が助けに行くからなっ。覚えとけよ。何かあったら、この包帯を取って水気のあるもの落せよ」
「にゃーぅ。にゃにゃんにゃ」
里外のときに、ピンチに陥ってたらどうすんのよ。というより、大抵危ないときは里外任務中だって。
俺の突っ込みは、先生には全く通じておらず、「そうか、分かったか」と先生は上機嫌で俺の体を撫で回した。




イルカ先生って、絶対詰めが甘いよね。
そんなことを思いつつも、俺を蕩けさせる手は天下一品で、あっという間に俺は気持ちのいい波にさらわれた。
あぁ、気持ちいいぃーーー。
先生は揉み解すような動きを加えながら、俺の体を撫でさする。
「お客さん、凝ってますねぇ」
「うにゃー」
そうなのよー。
「やっぱり仕事は大変ですか?」
「にゃにゃんにゃー」
子どもは初めてだからねー。
「そうですかー。世知辛い世の中ですねぇ」
「にゃ」
そっちはどうなのよ。
「俺も色々とありますよー。受付任務してますとね、いや〜な上司に絡まれたりする訳ですよ。それに何をとち狂ったか、俺に伽を強制してくる輩もいますし、変な世の中ですねぇ」
へーそうな……なに!?
「にゃっ?!」
先生の言葉に、度肝を抜かれた。
畳と仲良くしていた顔を引き離し、先生をじっと見詰めれば、「もういいのか?」とお気楽な顔で笑っている。
ちょ、そういうことじゃないでしょ?! あんた、伽って、伽って、あんた!!




「にゃ、うにゃにゃにゃッ。にゃにゃにゃ」
ちょ、誰がそんなこと言ってんのッ。教えなさいよね。
まさかもう無体な目に遭ったのかと、気炎をあげる俺を尻目に、先生は俺のご飯を気にしている。
「あー冷めちまったか。ちょっと待ってろ。チンしてくるからな、チンチンっと」
鼻歌交じりに卑猥な単語を言う先生に、カッと体が熱くなる。
先ほどの爆弾発言といい、この人、一体どういう人なの?! 神経疑っちゃうっ。




「うにゃ、にゃんにゃにゃにゃっ。にゃにゃにゃー!!」
ちょ、ちょっとアンタっ。俺の問いに応えなさいよー!!
電子レンジに猫まんまを入れ、チンチンと再び卑猥な単語を言う先生に向かって俺は叫ぶ。
全く通じない上に「温度は人肌ってな〜」と、またもや際どいこと言う。
本当に言葉が通じないって不便で仕方ないッッ。




「ブリ丼は人肌で〜♪ チンチンしすぎると、火傷すんのさー♪」
「うにゃーーーーー!!!」
あんた、ちょっと黙ってろーーーーー!!!







戻る/ 10





爽やかな下ネタが書きたい……!







君がいる世界 9