「いつ、来られるのかと待っていました…。正直、待ちくたびれた感でいっぱいです」
うっそうと茂る森の入口。
演習場に近いそこは、人の気配がまるでなかった。
うっすらと白み始めている空とまだ薄暗い森を背景に、振り返った女は無感動な瞳で、俺の名を呼んだ。
「はたけ上忍」
散々っぱら飲んで騒いで、男たちが撃沈したのは、夜の空から紺色へと変わる頃だ。
まんじりと眠りもせずに、俺は機会を窺っていた。
それに気付いていたのか、眠る男たちに犬塚は暇乞いの言葉を告げると、自宅への道とは逆方向へと進んでいった。
気配を隠しもせず追った俺を誘導するように、犬塚は足を進め、ここへ辿り着いた。
話があるのは俺だけではないよう。しかも、それは俺への気遣いに溢れている。
「で、お前の言い分は何? こちらにとって都合のいいことばかりしてくれちゃっている意味はどーいうことなーの?」
お互いの顔が見える距離で、向き合う。
逆にその親切めいた態度が気持ち悪いと告げれば、犬塚はため息を吐いた。
「そうですね。強いて言いたいことがあるとすれば、一つです。戯れにしろ何にしろ、一度やり始めたなら、最後まで貫き通してください。どんな結末を迎えるにしろ、中途半端は止めて欲しい。それだけです」
犬塚は淡々と告げる。
自分のしていることは大っぴらには言えない行為だと分かっているが故に、詰られるのだろうと思っていた予想は覆された。
犬塚の言葉に裏はないかと観察していると、犬塚はどこか緊張した面持ちで俺を見詰めた。
「この事に関して、私はこれ以上首を突っ込む気はありません。はたけ上忍が何をなさろうとも、私は目を瞑ります。ですから、物騒な考えを起こすのは止めていただけませんか?」
随分と下手に出る犬塚に肩を竦めた。
「そうは言っても、事が事だし、ね。あんたが火影さまにしろ上層部にしろ、誰かにチクれば、俺は処罰ものじゃなーい」
おどけていった言葉に、犬塚の眉根が寄る。焦りがにじみ出ている。額から一筋汗が流れ落ちた。
「だから、言っているんです。はたけ上忍のすることは口出ししません。ただ、イルカさんは弟の大事な恩師でもある。だから、お願いをした。――ですから、私の家族に一切手出しはしないでください」
犬塚の懇願とも言える言葉が不思議だった。
直立し、両手は軽く開かれ、手の平をこちらに向けている。身動き一つもしないその姿勢は、こちらに全面降伏という意味だ。
犬塚が過敏なまでに俺に神経を使っていることが窺える。
だが、俺に好条件過ぎる言い分が気になって仕方ない。
「俺にとっていい話であることは分かるのよ。でもね、いまいち分からないことがあるの。それを教えてくれない?」
「―何ですか?」
犬塚は息を潜め、掠れる声を発した。
ここで対峙してから数分も経っていないのに、ずいぶんと固くなってしまったものだ。
クノイチとはいえ、男と二人っきりという状況に怯えているのかと、全く関係のないことを考えながら、口を開く。
「どうして、俺を、イルカ先生に預けたの?」
犬塚のような獣の医術者が、傷ついた獣を前に助けてと言われれば助けざるを得ない。ただ、その傷ついた獣は変化した俺だった。
顔見知りの誼で治療してくれたとしても、その後、イルカ先生にどうして俺を預ける必要がある。知っている獣だとでもいい含めて、俺を保護することはたやすくできただろう。
どうなのと視線を向けた先で、犬塚の顔に驚きの表情が浮かんでいた。
思ってもみない反応に戸惑う間もなく、犬塚は静かに感情を押さえ、淡々と話し出した。
「―イルカさんが、『連れて帰る』と言いだして聞かなかったからです。こちらで保護すると言ったのですが…、譲ってはくれませんでした」
「……そう…」
八割は真実で、あと何割かは隠している。
直感でそう判断したが、これ以上犬塚を引きとめても、有益な情報は出てこないだろう。
「わかーったよ。俺も先生を甚振りたい訳じゃないからね。口出ししないでくれると助かる。悪かったーね、余計な手間をかけさせて」
後頭部を掻きつつ、犬塚の帰り道を空けてやる。あからさまにほっと息を吐きながら、犬塚はそれではと俺に頭を下げた。
足早に去ろうとする背中を見送る最中、戯れに聞いてみた。
「ねぇ、なんで怯えてるの?」
男と二人っきりでいることが恐かった? と、笑いながら尋ねれば、犬塚はぎょっとしたように振り返り、俺を見詰めた。
「お気付き、じゃないんですか?」
犬塚は声に戸惑いを滲ませている。
「何に?」
訳が分からず問い返す俺から視線を逸らすと、犬塚は苦しげに吐いた。
「はたけ上忍は、私を殺したがってましたよ」
「ねぇ、俺って里の仲間を殺したいと思っているような狂人に見える?」
上忍待機室のソファの背に凭れ、手足を大ぴらに広げ、三人分の席を一人で使って煙草をふかせている髭に、単刀直入に聞いた。
髭はやる気なさそうに首を一度持ち上げ、俺を見詰めたまま煙草を肺に吸い込み、煙を吐くと同時に後頭部をソファの上面部に押し付けた。
「見える、見える。おめーは狂人だ」
棒読み過ぎる台詞に、憤る。
「ちょっと髭! 俺はこれでも真剣なんだよ。ちゃんと答えてくれない?」
「あぁ? 面倒くせぇなぁ。上忍なんてなれる奴は誰もが狂ってるだろ。そんなことお前が一番分かってんじゃねぇか」
分かっていることを聞くなと手を振る髭に、二の句が継げない。だが、そういうことではないのだ!
「あぁ。カカシさんが言いたいことは、この里の中で、っていう意味ですよね?」
ゲンマとしては面白い話題だったのか、俺の隣に座るなり、自然に話へ加わってくる。
「そうそう。そういうこと」
やっぱり髭で熊なあいつには難しい話題だったかと、人選を間違えた己の過ちに息を吐く。
ゲンマはどう思うと視線を向ければ、頼れる兄貴の空気を醸し出しながら、楊枝を加えた口元を上に引き上げた。
「任して下さい、カカシさん。いい助言者がいます」
ゲンちゃん、素敵っっ!!
拍手で迎え入れれば、ゲンマは手を口の脇に当てた。
「アンコさーん、悩める青年にご教授願いまーす」
「はぁ?!」
まさかの人選に度肝を抜かれた。
アンコは口に団子を突っ込み、手には甘ったるい匂いを放つココアを持ち、こちらに顔を向けた。
「なぁによ、ゲンマ。私の相談料は高いわよ」
にたりと笑う女はがめついことでも有名だ。ゲンマは任せて下さいと親指を立てた後、口に手を当てるなり声を張り上げる。
「ライドウー。今から衛門屋の限定どら焼きデラックス一箱10個入り買って来て〜」
「はぁ?! なんでオレ?!」
名指しされたライドウは口で文句を言いつつも、待機所の出入り口に走っていく。指名されてから3秒も経たずの行動に、驚くやら呆れるやら。
「……お前とライドウの関係って何?」
「ダチですよ、ダチ」
イイ笑みを浮かべ、親指を突き出すゲンマ。
この先、ずっとこういう関係が続くのだろうなと、今では姿の見えないライドウの未来に思いを馳せていれば、甘い香りをぷんぷんさせて、アンコが登場した。
「いい選択したわね、ゲンマ。ちょうど、どら焼き食べたい気分だったのよ」
「姐さんの望みなら、分かっているつもりですよ」
見境なく口説きモードに入るゲンマのたくましさに脱帽しつつ、俺は甘ったるい匂いから逃れるために鼻を抓む。
「ゲンちゃん、なんでアンコなのよ。こいつ、自他共に認める狂人じゃない」
「しっつれいね、カカシ! 私だって抑えるべき場所は分かっているわ。肝心なのは、自覚しないで俺はまともだって思っている奴の方が危ないってことよ」
見せびらかしたいとしか思えない服を着たアンコが、胸を張り威張る。
目の先でぷるんと震える胸に、これを先生が見たら鼻血ものだなと思っていれば、黒い液体が目の前を流れた。
変わり身の術を使って直撃を免れたからいいものを、俺が座っていた場所は黒い染みと、甘いココアの匂いで充満していた。
「アンコ、お前なぁ!!」
いきなりの暴挙に声を張り上げれば、アンコは悪びれた様子もなく、なるほどと頷いた。
ソファに懐いていた髭もこちらを見詰め「面倒くせぇ」と小さく呟き、ゲンマに至っては何故だかとても残念そうな表情を顔に浮かべていた。
周りの反応に一体、何だと食ってかかるより先に、アンコは人差し指を突き付けた。
「私が保証してやるわ。アンタは紛れもない狂人よ」
イライラする。
苛立ちを隠さずに、人気のない廊下をどしどし歩く。
どうして俺があそこまで断言されなければならないのだ。
理由を聞こうとすれば、アンコは自分で考えろとの一点張りだし、ゲンマもゲンマで寂しげな表情を浮かべ静かに頷くだけで、髭に至っては見て見ぬ振りだ。
今日の上忍待機所にもう少しまともな奴がいたらと考えたが、今日いなかった面子を思い出しても、碌な答えをくれない連中ばかりで、己の友人関係を悔やむしかない。
何だって言うんだろうね!!
人を捕まえて、狂人だなんて失敬なっ。そりゃ、人に言えないことを人よりも多くこなしてきた事実は認めるけど、里ではそれはもー慎ましく過ごしている。
根も葉もない女の醜聞だけで、俺はとても身綺麗だ。そうだ、俺はちゃんと里で生活しているではないか。
がらりと開けたのは、アカデミーの空き部屋。
嫌なことがあるとここに来る癖がついてしまったようだ。
本来黒板の前に置かれるはずの教卓は窓側に移動されたまま。だが、その教卓の上に花はおろか、花瓶もない。
生徒が座る小さい机に腰を下ろし、教卓を眺める。
イルカ先生が俺のためにと、花を生けてくれた場所。
俺の何を思って花を生けてくれたのだろう。先生は俺に何を伝えたかったのだろう。
先生が何かを込めて生けていた残骸を見詰めながら考えるのだけれど、全く持って分からなかった。
「……分かっていれば、なぁ。もっと知りたかったのに…」
ぼやきながら、溜息を吐く。
だが、無くなってから気付いたこともあった。
花瓶に活けられたものは全て、里に自生している植物だった。
普段は気付かないで通り過ぎるそれが、花瓶に活けられていると妙な存在感を持ち、何気なく歩いていた自分の道にその姿を見つけると不思議と心が高揚した。
知識で知っているはずのそれらが、季節にそって色を付け花をつけ、実をつけたり、実にはならず花のまま落ちたり。
そんな当たり前のことがとても新鮮に思えた。
それが切っ掛けで、道を歩く時やオフの時は、周囲に関心を持つようになった。
土手や川、原っぱや道端、商店街、町の人、子供たち、鳥や虫、木々、花、夕焼け雲、空、夕日、星、月。数えきれないほど、いっぱい。
関心を持たなければ気付かなかったことがいっぱいあった。
自分の周りが、色々な物で満たされているなんて、思いもしなかった。
当たり前にあるものを当たり前と受け入れるのではなく、当たり前にあるものもそれはかけがえのない物で。
そのことに気付いた今だからこそ――。
「もう一度、俺のために生けて欲しいなんて…。無理かな……」
ぽつりと漏らした言葉と、動揺する気配を感じたのは同時だった。
臍を噛んで振り返る。
教室の戸の窓から、俺を見詰めたまま固まっているのは、イルカ先生だった。
カカシ先生、無自覚設定が大好きな私です…。切りが悪い…!!