慣れた気配にはこうも鈍感になるのか。
先生が動揺しなければ、きっと気付かなかったに違いない。






ガラス越しに視線が合う。
思えば、人の姿でこうも長く視線を合わせたことはなかった気がする。
イルカ先生はしばらく俺から視線を外さずにいたが、きゅっと唇を引き結ぶなり、戸を開け入ってきた。
「こんにちは、カカシ先生」
わずかに緊張した笑みを浮かべ、挨拶をしてくれた。いつもの姿でないせいか、たったそれだけのことなのに、やけに緊張してしまう。
犬塚と別れた後、家に戻らずそのまま子供たちとの任務に出たから、今朝はお互い見送りをしていない。
「こんにちは」
そのこともあって、先生の目を見てしっかりと挨拶を返す。先生は俺が見送ったり、出迎えたりすると、とても嬉しそうに笑ってくれる。
いつものように笑って欲しくて、こちらも笑みを浮かべてみる。すると先生はちょっと目を見開いた後、くしゃりと笑って鼻の下をこすった。先生が嬉しいときにする癖だ。
この姿でも嬉しそうに笑ってくれる先生に、感動を覚えてしまう。
「イルカ先生、どうされたんですか?」
もしかして花を生けにきてくれたのだろうか。
期待をこめて言った言葉に、先生は少し眉を寄せた。
「特に用事ってことはないのですけど、教卓の位置が少し気になりまして…」
廊下から見えたものでと言葉を付け足し、窓際の教卓に歩み寄ると、移動し始めた。見ているだけというのも居心地が悪くて、声をかける。
「手伝いますよ」
男二人で運ぶような物ではないが、他に言葉が見つからなかった。
先生もそれは思っていたようで、困ったようにはにかんできた。
「いえ、大丈夫ですよ。お気持ちだけ、いただいておきます」
持ち上げて、しっかりとした足取りで元の位置に戻される教卓。
必要なくなったから片づけられるそれがやけに寂しくて、俺は口を開いた。






「先生、知ってます? その教卓に、ずっと花が生けられていたこと」
「…え」
先生の足が止まる気配を感じながら、視線を窓へと向ける。
「教卓があった場所って、上忍待機所のある位置から見えるんですよ。ここの窓と、あっちの窓を全開にしないと見えないんですけどね、そこから花がいつも見えていたんです」
先生から返事はない。けれど視線は感じる。
「始めは何かの暗号か、メッセージかと思って、神経尖らせて見ていたんですけど、ずっと見ているうちにそういうものじゃないなって分かってきたんです」
下半分すりガラスになっている窓から見えるのは、外壁と、薄い青空。
太陽が沈む前触れを表すように、空は色を変えつつある。日の光が薄くなり透明になる空が、赤く染まるのももうじきだろう。
そのわずかな差異を感じられるようになったのも、この生け花のおかげだ。
ここで見てきた様々な花を思い出していれば、先生が躊躇いがちに声をかけてきた。
「――あの」
「あ、すいません。ちょっと感慨に耽っちゃいまして…」
振り返れば、困惑気味の顔にぶつかった。苦笑いして話を戻す。
「ここに生けられた花は全部、季節に沿って咲く木の葉の里の植物で、俺が普段気にもとめないような小さな命でした」
ふと先生の呼吸が止まる。わずかに緊張し始めた先生を見つめた。
「先生も見てたから知っているでしょうけど…。思い返すと、あのクノイチが生け花の主じゃないと思えてくるんです。生け花の主は、今までずっと里を彩る季節の花や木々を生けていた。豪奢な花で華やかに飾ることを目的とした訳ではなくて、意図までは分からないんですけど、里の花を生けていることに意味がある気がして……」
言葉がまとまらずに歯がゆい思いに駆られる。
話している間に答えが出そうで、でも寸前のところで引っかかってなかなか出てこない。






「あぁ、ここまで出てるんですけど」
ダメだなぁと後頭部を掻けば、一つ息を吸う音がした。引かれるように顔を上げれば、先生はまぶしいものでも見るように目を細ませていた。
「…たぶん、花を生けた人は、カカシ先生に里を見せたかったんじゃないですか?」
先生の言葉が一瞬、頭に入ってこなかった。広くて曖昧な例えとしての表現なのか、それともそのものを指すのか。
「ーー里を?」
オウム返しに問う俺に、先生は頷く。
「ええ。あなたが守ってくれている里を、あなたが生きている里を……。見てもらいたかったんだと、俺は思います」
先生の瞳が潤む。
色んな感情が交じった表情を浮かべ、先生が俺を見つめる。
もっと知りたくて、口を開こうとしたのだけれど、はらりと頬に流れた涙に面食らい、息と共に言葉を飲み込んでしまった。
「す、すいません。夕日が目に染みて…」
隠すように涙を拭おうとした先生の手を、思わず掴んでいた。
瞬身でもしたのではないかと俺自身が戸惑うほどに早く、先生に駆け寄っていた。
呆気にとられたように、先生の口が開く。






傾いた日が窓に入り込み、教室を照らす。
すべてを赤く染める中、先生の涙も夕焼け色に染まっていた。強い意志の宿る、その黒い瞳も。
ゆらめくような淡い炎が灯った黒い瞳が綺麗で、光を反射する滴が宝物にように思えて、尊いものに触れるように指先を伸ばした。
ひやりとした感触が指先を濡らす。そのまま涙の跡をなぞるように眦へと上り、拭いとる。
すると、開いていた唇が真一文字に引き絞り、顔が真っ赤に染まった。さきほどとは違う意味で潤んできた瞳を可愛いなと思う。
昨日の飲みのせいで、昼頃に起きて風呂に入ったのだろうか。先生の体から風呂上がりのいい匂いが香る。
頬にかかる解れた髪を耳にかける。触れた頬は驚くほど熱くて、自分の指先にも火が点ったようだった。
噛みしめられている唇が気になって触れた。
弾力のある、厚い唇。
「……噛んじゃ、ダメだよ」
親切ぶった言葉を漏らしながら、力を抜くように唇を撫でた。
宥めるように撫でていれば、一文字だった唇は徐々に緩んでいく。唇に埋まっていた歯がゆっくりと抜けたそのとき、熱い息を指先に感じた。






鼓動が跳ねる。
息が触れた先から痺れを感じ、背筋を駆け抜ける。
頭に血が上り、一瞬目眩を感じた。
目の前の唇に噛みつき、貪り尽くしたいと抑えきれない衝動に突き動かされる。
唇に触れていた親指はそのままに、頬に指先を伸ばした。
そのまま覆い被さろうとした刹那。






「先生、さよーならー!!」
無邪気な声が轟いた。
先生の体がびくりと震え、慌てたように左右を見回す。その拍子に唇に触れていた指先は離れ、掴もうとしていた腕は行き場を無くす。
「また明日なー」と廊下側から声が聞こえ、パタパタと走り去る小さな足音が続いた。イルカ先生に挨拶した訳ではないようだ。
「な、なんだ……」
先生もそれを知ったのだろう。
あからさまに安堵のため息を吐いて、強張っていた肩から力が抜ける。それと同時に俺の体からも力が抜けた。
しばらくお互いに黙っていたが、示し合わせた訳でもないのに、これまた同時に一歩後ろへ下がり、思わぬ同時性に顔を見合わせてしまう。
けれど、出てくる言葉はない。
先生の顔は相変わらず真っ赤だ。覆面をしているからいいものの、俺の顔も真っ赤になっているに違いない。
熱を持つ顔が異様に気になって、視線をさ迷わせていると、先生が不意に笑った。
「え、えっと、あの、気、使っていただいちゃって…その、ありがとうございます」
鼻傷を掻く先生のはにかんだ笑顔を可愛いと思ってしまう。
……男なのに可愛いってなによ?






不意に出てくる、衝動とも言える感情に戸惑うばかりだ。
しかも、俺はあのとき何を思った? 先生の息に触れて、俺はどうしようとした?
居心地悪そうに軽く目を伏せた先生をいいことに、顔を盗み見た。
何か言おうとしているのか、口が開いては閉じている。迷う素振りを見せる先生の唇はやけに赤く見える。
やがてゆっくりと唇が開いた。
「…その。あのときは、申し訳ありませんでした。カカシ先生は心配してくださったのに、突っぱねるような真似をして……」
白い歯が時折、覗く。その奥にある、唇よりも熱いであろう存在を思い浮かべていると、赤い舌先が覗き、下唇を舐めた。
その様を目の当たりにして、ぞくりと背筋が震えた。
厚い唇を這った舌の赤さに、唇に沿った柔らかさに、そして息よりも熱いであろうその熱を想像して、呼吸が速くなる。
――なんて、いやらしい。
ぞくぞくと寒気とも熱波ともいえない興奮が体を駆け廻る。






子供の声が聞こえていなかったらどうなっていただろう。
当然、先生の体を抱きしめ、その唇を貪っていたはずだ。
想像とは違う、生の熱を、柔らかさを味わい、啜っていたに違いない。
触れた息よりももっと熱く、先生の瞳は前の比でないほど潤み、涙を零していたかもしれない。
呼吸ができないように唇を合わせ、苦しがる先生の手を絡め取り、黒板に体を押し付ける。
そこで一回、呼吸を確保してやり、何かを言う前にまた唇を合わせる。喘ぐ先生の口内に入り、感じるところはどこかを探す。鼻にかかる声は震え、荒くなる息が気持ちいいと俺に伝えるだろう。
怯える舌を絡め、こちらの口に招き入れて、甘く噛んでやろう。
その激しさにどちらともいえない唾液が顎を伝う。でも、止めてやらない。
もっと、もっと濡れるまで、涙と唾液が混じり合い、境界線がなくなるまで貪りつくすのだ。






「カカシ先生?」
間近に迫った顔に、怯んだ。
びくりと体をわななかせ一歩後ろに退けば、先生は首を傾げ、その後、満面の笑みを浮かべた。
「それじゃ、行きましょうか! カカシ先生の口に合えばいいんですけど、しがない中忍の行きつけの店ですからね」
頭の中で、俺に縋る怪しい雰囲気の先生と、目前の快活な先生とが一致せず、面食らう。
ぼーっとしていた俺に痺れを切らしたのか、先生は無造作に手を伸ばすと俺の手を掴み引っ張った。
「行きますよ。善は急げって言いますからね」
スキップでもしそうな機嫌の良さに、何が起きたのだと混乱するばかりだ。
教室の戸を滑らせ、二人で出る寸前、中途半端に放置してある教卓が目に入った。
「あ」
何か思うよりも先に声が出てしまった。
すぐ口を閉じるのだけれど、先生には聞こえてしまったようで、先導していた足を止め、俺に向きなおった。
「? どうかしましたか?」
顔を覗くように一歩踏みこまれた瞬間、体が熱くなって、思わず大きく一歩下がる。直後にしまったと思う。これでは近づくなと言っているようではないか。
バツが悪くて、それでも先生の反応が気になって窺えば、先生は特に気にした様子もなく、首を傾げている。
どうしました? と俺が声をあげた理由を聞く先生にほっとしつつ、隠しても仕方ないと口を開いた。






「…えー。その…。あの教卓が中途半端だなって……」
教卓は、窓と本来置かれる場所のちょうど真ん中に放置されている。
どっちつかずのそれは、俺の望みが叶うか叶わないかの真ん中にいるようで落ち着かない。
先生に直接、生けてくださいと言えることができれば簡単なのに。
それを言えば、俺が猫になって先生の側にいることが、バレる切っ掛けになりそうで言えずにいた。
先生にバレる危険性があるならば、どんな小さな芽でも、一見無害に見えても摘み取ることに迷いはない。
それだけ、俺はあの居場所が気に入っている。離れたくない。あそこにずっといたい。
だから――。






俺の望みに気付いてと視線を上げれば、先生は俺の手を離すなり、教卓を窓際へ移動し始めた。
望んでいたことはいえ、こうも早く叶うとは思わずに言葉を出せないでいれば、先生は所定の位置に教卓を置くと、埃を払うように手を二、三鳴らすように叩き合わせ、くるりと振り返った。
鼻傷を掻き、先生は笑う。
「カカシ先生があの生け花を必要とされているなら、花はここに生けられますよ」
先生の言葉に目が見開く。
「……俺が、必要とするなら?」
本当にと、先生に問う。俺が望めば、先生はまた花を生けてくれる? ずっと、変わらず、ずっと生けてくれる?
勿論と、背筋をぴんと立たせ、胸を叩いて先生は頷いた。
「はい。望みは言ったもん勝ちなんですよ。これ、俺の持論です」
だから、カカシ先生も口に出して言ってくださいと、先生が促す。
戸惑う俺に「言って」と自信たっぷりに笑うから、俺は一つ息を吸って吐いた。






「…また、あの生け花が、見たい、です。――下手くそで汚い桜も、また」
声が震えた。
俯いて、誤魔化した。
左目が、右目が熱い。
「カカシ先生は謙虚ですね。もっと大声で、主張すればいいんですよ」と、先生は大きな声で笑う。それに答えることができずに、俺は大きく頷く。
左目が熱くなるのは度々あった。でも、右目が熱くなるのは本当に久しぶりで、喉が詰まった。
「…不敬罪に当たりますけど、許して下さい」
近くに寄ってきた先生が小さく囁いた。
色々なものが零れ出そうで息を止める俺の顔を、その胸に抱きこみ、がっしりとした腕を背中に回してきた。
「―大丈夫。大丈夫ですよ」
続けて降る声に、訳も分からず胸が熱くなった。
柔らかく背を叩く大きな手と、その優しいリズムに、いつしか俺は身を任せていた。









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カカシ先生ったら、夢見る裏乙女?なんだから!! …そしてここはカカイルサイトです。ノット、イルカカー!!

君がいる世界 15