「ビッジーン、たっだいまぁ!!」
アパートの壁をチャクラを使って駆け上がり、窓を開け中に入ったところで、先生の声が聞こえた。
間に合ったっ。
「にゃー」
おかえりーと玄関に向かってとてとて走る。すると、先生は手に持っていた棒きれを投げ捨てるなり、足下に擦り寄った俺を抱き上げた。
「あぁ、もー可愛いなぁ、おまえはッ。ただいま、ただいま、ただいまーーッ」
頬をぐりぐりとすり合わせてくる先生の過剰なスキンシップを受けながら、俺も俺で喉をごろごろと鳴らす。
ひとしきり、ただいまおかえりの挨拶をした後、靴を乱暴に脱ぎ捨て、俺を抱いたまま居間へと移動した。
「ビジンー、今日、すっごい良いことがあったんだぞー?」
声は弾み、酒と興奮で顔を真っ赤にさせ、先生はとってもご機嫌だ。ご機嫌の理由が分かっているだけに、俺の尻尾はぴんと真上に向かって立ちっぱなしになる。
居間で俺を下ろすなり、「お前も祝い酒付き合ってくれよ」と、昨日の飲み会で余った酒とつまみを持ってきた。
安定の悪い畳を考え、俺のために用意してくれた小さな杯はお盆の上に置いてくれた。






「ビジンと酒飲みたかったから、嬉しいなぁ」
何がいいと瓶を並べる先生に、辛口の酒を手で指さす。
「うにゃ、にゃにゃ」
そんなこと言って、俺じゃない奴とばっか飲んでた癖に。
まぁ、今日ははたけカカシとして一緒に飲めたから、許してあげると、心の中で忍び笑いを漏らせば、先生は「何か責められてるみたいだな」と頬を掻いた。
珍しいことに、猫の言葉が通じている。今宵は猫の身でも意志疎通がはかれそうだ。
杯になみなみと酒が注がれる。こぼれる手前で注ぐのを止め、次に先生は自分のガラスコップに手酌で酒を注いだ。
注ぎ終えるのを待っていると、先生は柔らかく微笑んで、俺の杯とガラスコップを軽く触れ合わせた。
「今日の俺の幸運と、ビジンとの初飲みに乾杯」
「にゃ」
乾杯。
ぐいっと酒を呷る先生に続いて、俺も舌を出して酒を舐める。今日の酒は格別にうまい気がする。






ぺちぺちと酒を飲んでいれば、先生が笑う気配がした。
「お前、本当に酒飲めるんだなぁ。普通は動物に酒とか人の食い物はやっちゃいけないけど、お前なら大丈夫だってハナさんが言ってたの、本当だったな」
それもチャクラがあることに関係してんのか? それとも暗部になるとき何か特別なことしたのか? と、無邪気に問いかけてきた。
……色々複雑だ。
今、犬塚の名前は聞きたくなかったと、酒を飲むのを止めれば、先生は乾きものをお盆に置いた。
柿ピーにスルメに、焼き海苔。
迷わず焼き海苔に舌を伸ばす。先生は追加の酒を注ぎながら、話し出した。
「今日な、カカシ先生と飲んできたんだぞ。前に失礼な態度をとったお詫びに、カカシ先生にお酒奢らしてもらったんだ。安酒しか出せなかったけど、カカシ先生おいしいって言ってくれて。……まさかあんなに良い空気で飲めるなんて思ってなくて、嫌われてるとずっと思ってたから…。今日、思い切って誘って本当に良かった」
あー、それで先生、奢ってくれたの? もう終わったことだし、気にしなくてもいいのに。それに、何言ってんの? いつ俺があんたのこと嫌いって……言ってたか。まぁ、それは過去のことで。
先生の言葉を心の中で返しながら、海苔を噛む。
猫の歯で海苔はかなり食べにくいが、酒には焼き海苔が一番だ。
歯に引っ付く海苔と格闘していれば、先生は忍び笑いを漏らしてきた。口を動かしたまま見上げると、大きな手が降ってくる。
「お前も焼き海苔派なんだな。カカシ先生も酒のつまみに焼き海苔ばっか食ってたんだぞ。歯、真っ黒にして食うもんだからおかしくて、お腹痛くなりそうだったよ」
まぁ、他の物食べてる間にとれたのが残念だったけどなーと言葉を漏らす先生に、耳と尻尾が揺れる。
まさか歯に海苔をつけていたなんて。しかも、先生、言わずに見ていたの?! そういうことは、ちゃんと言ってよ! 俺、間抜けじゃないっ。
きゃーきゃー悲鳴をあげている俺を知らずに、先生はゆったりと手を動かす。






「飲みに行く前にな。カカシ先生とあの教室で会ったんだよ。お前も聞いてたろ。滅多に来ない空き教室で、俺が二年間くらい花を生けていたこと」
頭の毛を梳いてもらい、目が細まる。
ぐるぐると勝手に鳴る音の中、先生の声を聞く。
「カカシ先生に見てもらいたくて生けててさ。やっとカカシ先生が気付いてくれたと思ったら、非常勤のクノイチの先生に横取りされちゃって…。おまけに、カカシ先生からは媚び狙いかって疑われるし、もう生けなくていいって言われてーー」
あのときのことを思い出しているのか、気落ちした表情を隠さず、ため息を吐いた。
「にゃー」
あれを言ったのは先生にじゃないよ。
止まった手のひらに向かって、励ますように頭突きを繰り返していれば、先生はにっこりと笑ってくれた。
「あぁ、心配かけちまったな。大丈夫。今日な、教室で会った時、あのクノイチが生けてたんじゃないって、気づいてくれたみたいなんだ。しかもな、俺の気持ちも通じてたらしい」
はにかむ先生の言葉にきょとんとした。
先生はどういう意図で生けていたか、俺に語ってくれたけど、話してくれるまで全く分かっていなかった。
よく分からず、尻尾がうねる。
先生は俺の頭を一度大きく撫でた後、手を遠ざける。視線も俺からどこか遠くを見るような目をして、酒を口に運んだ。
酒で湿った唇は、毒々しいまでに赤く見えた。






どきりと鼓動が跳ねる。今日の俺はすこぶるおかしい。
男の、しかもイルカ先生の唇から目が離せないでいるなんて。
先生の奢りで飲みに行った先でも、つい唇に視線がいってしまい、引き剥がすのに苦労した。
先生がジョッキに唇をつけるところや、豪快に焼き鳥串を口に突っ込んだり、頬を膨らませて咀嚼したり、微かに口を開けて頷いたことや、大きく口を開けて笑ったり、口に付いたたれを舐めとった舌の動き、口を突き出すように酒を啜った仕草が、鮮明に記憶されている。






じわりと昇ってきた熱に、慌てて目をそらせた。
本当におかしい。
覚えのある熱に、頭が混乱してくる。
教室で唇に噛みつきたいと思ったこともそうだが、どうして俺は先生に欲情しているのだ?!
頭を抱えて、嘘だと叫びたい。
ここ一ヶ月の夜の生活がすっかりご無沙汰だということと関係しているのだろうか。
夜の情事はもっぱら淡泊な傾向だっただけに、ここまで悶々としたのは初めての経験だった。
近々、玄人の姐さん方のお世話になろうかと考えていたとき。
先生の鼻を啜る音がした。






聞き覚えのある音にまさかと首を戻す。そこにはぼたぼたと涙を流し、目を擦っている先生がいた。
「にゃにゃ! にゃにゃにゃッッ」
嘘嘘! 玄人の姐さんのところに行くなんて嘘だからッッ。
突然の涙に動揺して、自分でも訳の分からない慰めの言葉が飛び出る。
それでも先生は泣き止んでくれなくて、俺は先生の胡座のかいた膝に乗ると、先生の胸に手を置き背を伸ばす。そして、顎先に溜まる涙を舐めた。
泣かないで、先生、泣かないで。
甘塩からい味が口の中に広がる。こちらも胸が締め付けられるような感覚に陥りながら、必死に舐めた。
「っ、ごめん、ビジン。違う、違うんだ」
謝りながら、舌を出す俺の前に手を置き、止めさせられた。
舐める加減が分からずに、何度も舌を這わしたのが原因か。舐めたところの皮が軽く剥けている。
「…にゃー」
…痛くして、ごめんなさい。
目の前に置かれた手に頭を擦りつける。すると先生はふわりと笑って、俺を抱きしめた。
先生の耳元に顔がくっつく。先生の温度と匂いに包まれていると、先生はくつくつと笑った。
「うれし、かったんだ」
出し抜けに言われた言葉に面食らう。
嬉しい?






ぎゅっと一度きつく抱きすくめられた後、先生は体を離し、まだ涙がこぼれる顔を俺に見せる。でも、その顔は嬉しそうに綻んでいて、先生の言葉を裏付けていた。
「カカシ先生、優しかった。あのときと同じ目、してた。二年前待機所で見たときみたいに、何も映さない瞳で里を見ていなかった」
震える声で言い終えた後、先生はしゃっくりを繰り返す。良かった、嬉しいとひっくり返る呼吸音の合間に呟きながら、先生は流れる涙を嫌って目を擦っていた。





「にゃー。にゃ」
これで拭きなさいよ。そんなに擦ったら痛いでショ。
ちゃぶ台の下に置いてあるティッシュの口に腕を突っ込み、引き寄せて先生の足に当てる。
「ーーありが、と」
先生は一、二枚引き抜いて、ぶぴーっと鼻を豪快に噛んだ。
……ちょっと俺の意図とは違うが、まぁいいや。
鼻を噛み、もう一回鼻を噛もうとする先生をじっと見上げる。






ねぇ、先生。
先生は俺をずっと見てくれていたの? どうして先生は俺に気にかけてくれるの? なんで、先生は俺のために泣いてくれるの?
ねぇ、先生、教えてよ。






「にゃー」
先生に向かって鳴く。
ようやく落ち着いたのか、鼻の下と目の下を真っ赤に腫らせた先生が屈託なく笑った。
「なぁ、ビジン。俺の昔話を聞いてくれないか?」






俺は黙って、頷いた。








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次回、二人の出会い編、過去話!

君がいる世界 16