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遮るものが何一つない広い平野部。
視線の遠くに、小さな灯りが無数に見える。
戦いの終わりを予感させる目の前の光景に、知らず口端が上がった。
背後から近寄った気配へ、真っすぐクナイを突き付ける。
「――ッ、あ」
闇に慣れた目で油断なく背後を見詰めれば、その額には木の葉の印が刻まれている。
それを確認し、手を下ろした。相手の喉に玉となって零れ出てきた血に、己の腕の悪さを思い知る。
「ーー交代、頼む」
まだこの戦闘に参加して日が短いのだろう。
クナイを引くと同時に尻もちをついた男の横を通り過ぎ、イルカはわずかな休息を得るために寝床へ向かった。







火薬とすえた匂い。そして、時折風に乗ってくる悪臭。







雨露を凌ぐ、防水シートを張っただけの粗末な寝床を避けながら、イルカは歩を進める。
誰もが息を潜め、身動き一つせずに蹲っている。
嵐の前の静けさ。
この先に起こる、大きな戦を暗示しているようで、イルカの凍りついた感情に仄かな色を齎す。
それは嬉しいという感情なのだろうか。
進む道すがら、不意に耳に入ってきた静寂を乱す音に、内心舌打ちをつく。せっかく色づいた感情が冷めてゆく。
音の主は、今日、奇跡的に合流した、補充人員の下忍たちだろう。
十を越えるか越えないかの少年たち。
この先に起こる戦いを予感して、恐怖に震えているのか。それとも、ようやく合流できた陣地の荒んだ有様に、自分たちの未来を見て、絶望して泣いているのだろうか。






陣地からわずかに離れたところへ、黒い小さな山がある。
その山を作っているのは、自分たちの仲間だったものだ。
掘った穴に遺体を投げいれ、おざなりに焼いた成れ果てが積って出来たそれ。
戦闘に使用するチャクラを確保するために、遺体は手で熾した火で焼かれる。物資が全く運ばれてこない現状で高温の火を作り上げることはできず、全てを燃やし尽くすことは不可能だった。
そのため、風向きによっては匂いが流れてくる。
燃やされずに残った、遺体の腐る匂いが。







この地に着いた当初はあれこれと何かを思い、考え、時に涙をこぼしていたが、今は感情が湧いてこない。
代わりに、飢えと疲労感、そして緩めることができない緊張感が絶えず身を縛る。






この任務は、中忍となったイルカが初めて任された任務だった。
フォーマンセルの隊長として、まだ初々しさの残る下忍三名を連れての補給支援任務。
一個中隊規模の隊で編成され、戦場へ投入された始めの日、イルカがいた隊は散り散りとなった。
味方の陣地へと行軍を続ける最中、敵に襲われた。
始めに聞いたのは誰の悲鳴だったのだろう。
「囲まれている」と最後まで言い切る間もなく、戦闘が始まった。
慣れない土地と、森の狭い道なりに長く伸びた隊編成が仇となり、隊は分裂。敵味方入り混じる乱戦の中、己の部下たちを見失った。








初めて経験する戦場に興奮の色を隠せないでいた、幼い顔を思い出す。
無事に生き延びて欲しいと思うが、状況は絶望的だった。
イルカ自身、隊からはぐれた後、幸運にも味方の陣地に行き当たり、辛うじて命を永らえることができた。
だが、行き当たった陣地は本当に偶然で、あらかじめ教えられていた情報とは違う場所に立てられていた。
その事実に憤り、声を荒げたのは随分前の話だ。
『お前と同様に散り散りになった者たちが集まった、寄せ集めだ。援軍は期待するな。自分が生き残ることだけ考えろ』
濃い疲労を残した年配の忍は、顔色を変えずに言った。
そして、その言葉はすぐさま我が身を襲った。






戦術を巡らせ、小隊ごとに戦う、本来の忍びの戦いとは全く違う白兵戦。
奇襲は頻繁に起こり、襲われる度に敵を退け、又は撤退を繰り返し、陣地は日ごと移動するようになった。
撤退する途中で鉢合った敵と刃を結び、ただ生きるため、がむしゃらに戦った。
寄せ集めの部隊を指揮している上忍の元、仲間たちと身を寄せ合い、果てのない戦いにずっと晒され続けた。







だが、それも終わる。







「っ、くふふふ、あははははははははっ」
自分の寝床についた瞬間、堪え切れずに笑いが零れ出た。
剥きだしの地面に跪き、腹を抱えた。周囲の寝床からこちらを窺う気配が伝わったが、笑いを止められない。
この時をどれほど待っていたことか。








転々と陣地を移動していたイルカたちが、森を抜け、この広い平野に追い込まれた時、遠くに乱立する敵の陣営が見えた。
あの時、その場にいた者の誰もが昂揚を覚えたことだろう。
今まで見ることさえできなかった敵の本拠地を、ようやくこの目にしたのだから。
にわかに殺気立つ隊を抑えたのは、指揮官を務めていた上忍だった。
里から全く連絡も来ず、物資も救援もこなかったこの絶望的な任務において、困難を切り開き、イルカたちを生かしてくれた上忍は、今や火影にも近しい存在となっていた。
『近々、総攻撃を仕掛け、決着をつける。最後の陣営と覚悟しろ』
指揮官の言葉は絶対だった。
了承の印を組み、膝を付く隊に混じり、イルカは単身で乗り込みたい衝動を押し殺すのに必死だった。






決行日は、明日――。
『日の出と共に仕掛ける』と言った指揮官の言葉を思いだし、笑い声が突いて出た。
笑いすぎてひぃひぃと変な呼吸音が喉から零れ出る。
飽きるまで笑い続け、ようやく止んだ時には、肩で息をしていた。
笑いは去ったが、頭と目は異様に冴え、とてもではないが眠れそうにない。
体を休ませることは無理だと諦め、忍具を広げて刃を研いだ。
手元にある武器に己の物は何一つない。
手持ちのクナイは三日で刃を駄目にし、札や投げ道具はとうに使い切った。
誰の持ち主の物とも知れぬ刃に手入れを施しながら、イルカは口端をあげる。
ふんふんと鼻歌を歌いつつ、刃を翳し角度を見る。
自分が振るう角度と癖を思い浮かべ、一番殺傷力が増す角度を探す。
気が触れたように、何度も何度も刃の角度を確かめた。
これが最後の戦いになるのだからと、時を忘れ、没頭した。






忍具全ての手入れを終えた時、召集の伝令がかかった。
空を見上げれば、ぎらつくように光っていた星は鳴りを潜め、白み始めた空に没している。




もう少し、あともう少しだ―――。





地平線を浮き上がらせる太陽の光を睨みすえ、震える手を握りしめた。










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目視した瞬間、稲妻が走り大地を抉った。遅れて大音響が鳴り響き、体に衝撃を伝える。
待ち望んでいたものだったのに。
例え、己一人になろうとも、刃を手放すことはないと誓って言えたのに。







「この戦い、相方退け。これは渦、木の葉、両火影の言葉として聞け」
大地を抉った衝撃とその威力に、誰もが身動きを止めたそのとき、朗々とした声が響き渡った。
大地についた傷を境目にし、木の葉の里と渦の里の忍装束を着た者が、お互いの背を合わせ出現した。
マントを身に付けた獣の面の者はイルカたちを見据え、その奥にいる渦の里の忍装束を身に纏った者は自国里の者たちを見据えている。
「……暗部だ…」
誰かが呟く声がした。
「――火影さまの直属部隊だ。和平交渉が、結ばれた…?」
それはざわざわとさざ波のように伝播し、そして、静寂が訪れた。
誰もが黙り、身動きをやめ、その場から動かなくなる。
歓声はなく、敵への怒りもなく、ただただその場から動けずにいる者たち。 放心しているというよりも、魂が抜け落ちたそれらは、まるで生きる屍のようだった。





里から来た者たちの誘導に従い、生き残った者たちが緩慢に動き始めたころ、イルカは機を逸した己をまだ信じられずにいた。
眼下に落ちているのは、目を見開き空を見上げる、丸い瞳。
額を覆う、渦の里が刻まれたそれは、持ち主が頂くには大きく、寸法が合っていない。
息を吸って、吐く。
背後に落ちている指は、イルカが切り飛ばしたものだ。
結ぶ印はイルカが下忍の時に習った初歩の初歩のものだったが、額当てが敵の物だったから、迷わず切り捨てた。
ここから三歩後方に倒れている敵は、イルカが殺した。
恐怖に顔を歪め、涙を溜め、赦しを乞うていたけれど、額当てが敵の物だから。
敵だったから。
敵だから殺した。
迷わず殺した。
怯んだら、こっちが殺されるから。
殺されるかもしれないから、イルカは殺した。
生きたいと願ったから、イルカは胸に巣食う疑問を殺し、感情を殺し、目の前の敵を殺した。







無音の世界で、周囲を見回す。
見えるのはどれも濁った眼をした仲間たちだけだ。
歩いて、姿を求めた。けれど、乱戦になるといつも何処かへ姿を眩ませていた事実に思い至り、後方へと向きを変える。
目立たないように、けれど最短距離を選んで、ぬかるみ、躓く地面を見ないように、ゆっくりと歩を進める。
人がまばらになった、視線が開けた先で、マントを纏った男たちが、イルカが探していた者と対峙していた。






剣呑な気配を隠しもせずに、男は威嚇するようにクナイを構えている。
男の声が切れ切れに聞こえる。
「綺麗事を言うなッ。里の益にならない者たちを使い、里を潤すことの何が悪い!! 忍は駒として使われるが本望。最後に木の葉の忍として死なせてやったことを感謝されても、罵られる覚えはないわッッ」
激昂した男の言葉に、呻き声が零れ出た。






どこかで分かっていたのに。
それでも己が生きるために、目を瞑った。
己の保身のために、口を閉ざした。






待ち伏せられ、分裂した隊。
一向に来ない、里の指示。
先回りするかのように仕掛けられる奇襲。
編成部隊の構成年齢。
アカデミー生と何ら変わりない未熟な下忍たち。
特出した能力もない下忍から昇格して間もない年若い中忍。
戦闘経験は豊富だが、年老いた中忍たち。
欠けていく人数に合わせて、奇跡的に補充されていく人数。





そして、それは敵である渦の里にも言えたことだった。





若すぎる者、平均的な能力の同年代者、そして、年老いた者。
似通った編成。
年齢もこちらのそれと同じ。
血走った眼も、諦めの目も、狂った目も。
奇襲ではない戦闘をする度に、まるで鏡を見ているような錯覚に囚われた。






決定的な技はなく、他を圧倒する力はなく、どちらかが優位に立てることはなく、拮抗した力は時間だけを浪費した。
その間、どれだけの者が命を落としただろう。どれだけの者を殺しただろう。
今、地に立つ者たちは、集められた時の人数の5分の1にも満たない。
皆、死んでしまった。






イルカは声にならない叫び声をあげる。
血にまみれた手からクナイを落とさぬように両手で握りしめ、指揮官と仰いだ上忍に向かって突っ込む。
猿の面を被った者が振り返る。途端に身を貫いた重い殺気に、唇を噛みしめた。けれど、足は止めない。
指揮官の顔が一瞬、驚きの表情を浮かべる。横から叱咤する声が飛んだが、もはや聞いてはいなかった。
指揮官だった男、その実、全てを仕組んだ男を睨みつけ、なけなしのチャクラを足に込める。緩急つけたその動きに、横から飛んできた手が空を切る。
身を投げ出すように突進し、男の鳩尾へとクナイを突いた。






瞬間、男が繰り出した刃の残像に、首を刎ねられることを望んで。






「――っ」
直後に何かを貫いた衝撃と、小さな吐息が耳元に落ちたのは同時だった。
「……え」
閉じていた目を開け、面食らう。
銀色の髪が見えた。
手に残る衝撃と熱。そして、背中に回る温かい人肌に戸惑う。
「………死んじゃ、ダーメ」
耳元に落ちた年若い男の声と、きつく抱きしめられた強さに、我に帰る。
「ーーあ、…あ、あ」
がたがたと手が震える。手を離したいのにクナイを握る手の力が抜けない。
手が熱いのは、イルカを抱きしめている男の血のせいだ。埋め込んだクナイから血が滴りイルカの手に流れてきている。
強張りが解けない。震える手のせいで、男を刺した傷口が広がっていくのが分かる。
こんなことを望んだ訳ではないのに、こんなことをしたかった訳じゃないのに。
「んー、大丈夫、大丈夫。大丈夫だから、ゆっくりクナイから手を離して」
背中を一、二度叩かれ、男の手がイルカの両手を包んだ。男の手の温もりに励まされながら、震える指をゆっくりと動かす。
一本、一本と誘導するように指に添う温もりに従い、ようやく全ての指がクナイから離れた。
直後に膝が崩れ落ちる。
過呼吸にでも陥ってしまったかのように、息が零れ出る。
「はい、良く出来ました」
まるでえらいえらいと褒めるように、男の手がイルカの頭に乗った。
男の腹にはイルカが刺したクナイが埋まり、白い装甲がうっすらと朱に染まっている。
両手を内にひっくり返す。べったりと真新しい血に汚れた両手に、涙が零れ出た。
嗚咽が出る。手をつき、地面にうなだれた。ぽつぽつと地面を濡らす雫を見詰め、拳を握り締める。
「おい、駄犬。勝手な行動は慎みやがれ。面倒くせぇ」
フォローする立場にもなれとぼやき声が聞こえた。
「いいじゃないの。こんな奴のために、若い有望な命が犠牲になるなんて、見てられないでショ?」
軽い調子で返す男の声に引かれ、顔を上げた。
犬の面をつけた銀髪の男はクナイを生やしたまま、特に慌てる様子もなく平然としている。その横で、男を拘束した猿面の黒髪の男が頭を掻いていた。
「………良かったのに」
勝手に口から滑り出た。
「俺は、死にたかったのに」
感情は浮かんでこない。
淡々とした言葉だけが突いて出る。
「面倒くせぇ」と猿面が呟き、そっぽを向いた。犬面は見上げるイルカの近くにしゃがみ込み、ため息を吐いた。
「……あのねぇ。そういうことを口に出して言っちゃ――」






「聞いたか! こいつだって言ってるじゃないか。だったら、有効に使ってやるのが上忍としての務めだろう? オレのしたことは間違っていないッ。間違ってはいないッ。木の葉の忍として里を守りたかっただけだ。オレは里を守るためにやったんだッ。里の繁栄を願っただけだッ」
犬面の言葉を遮り、男が喚いた。自分の正当性を主張し、嬉々として笑う。苛立ちの気配が漏れ出る。
犬面が息を吸った瞬間、イルカは立ち上がり、拘束された男の頬を引っ叩いた。
パンと甲高い音が響く。
拘束されていたとはいえ、中忍に手を挙げられたことを知った男は、怒りで顔を赤黒く染めた。
「キサマ、上官に――」
「あなたは間違っています」
睨みつける男の視線を真っ向から受け止め、イルカは言った。
零れる涙をそのままに、指揮官と仰いだ男を前に、言葉を続ける。
「守るべきものは里じゃない。俺たちが守るべきものは、家族です」
男の顔が歪む。
侮蔑の感情を隠しもしない男の目を見据え、一息に続けた。
「里は家だ。木の葉に住む者たちは、俺たちの家族だ。あなたと俺は、その家族を手に掛けた」
「何を――」
息を飲んだ男の在り方が悔しくて、唇を噛みしめる。
男だって本当はどこかで気付いていたはずだ。それなのに引くことができず、ここまで来てしまった。
怯えの感情を一瞬瞳に宿した男は、それでも虚勢を張ろうと口を開く。
「ふざけるな。世迷言を抜かすなッ。里は今、危機に晒されている。知っているか? 木の葉は今、他国に狙われその領地を奪われようとしているッ。気付かないお前らが悪い! 里を思って行動を起こしたオレは間違っていない、何一つ間違えてはいないッ」
取り返しのつかないことをした男が哀れで、痛々しくて、イルカは腕を回した。
「な―」
男の呼吸が止まる。
胸に頬を押し当て、わずかに震え始めたその体を包み、イルカは囁いた。
「あなたと、俺も家族なんです」
びくりと大きく波打った男の表情は分からない。
男を待つ未来を思い、一度強く抱きしめ、体を離す。
一歩距離を開け、男の目を見詰める。
男の目にはもう侮蔑の色も、追い詰められ切迫した荒々しい光も、浮かんではいない。
こちらを見詰める瞳は、痛みに歪められていた。
男の変化に堪らない切なさを覚え、それ以上見てはいられずに、顔を伏せる。
喉が痛い。引き千切れそうだ。
「行くぞ」
二人の暗部に挟まれ、男は歩き出す。
横を通る寸前、イルカはひっくり返りそうな声を鎮め、言葉を吐き出した。
「……それだけは、忘れないで下さい…」










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君がいる世界 17