「ーーあのときの暗部がカカシ先生だって分かったのは、それから四年後。暗部を辞めたこともそのときに知った。……でも、カカシ先生は一般受付所からもらう任務はしていなくて会えなかった」
寂しげに呟く先生の言葉に、胸が切なくなった。
暗部から抜けたのは、今から二年前。
上忍師になれと命を受け、表舞台に出た俺は子供たちを選定しながら、火影さまから直接任務を手渡されていた。
その頃には自分の名前は大きくなり過ぎていて、周囲の無遠慮な視線を常に浴び続けることとなった。
取り入ろうとする者や媚を売る者も多く、それに辟易した俺は人との関わりを最低限に止め、任務時以外は、上忍待機所か自宅にこもることが多かった。
その頃を思い出そうとして、遂行した任務ばかりが思い浮かぶ。
色褪せ、乾いている記憶の中の映像に戸惑っていれば、先生は一つ息を吐いた。
「あの空き教室で、里を眺めているカカシ先生を見たのは偶然だったんだ。空気を入れ替えるために窓を開けたら、向かい側にカカシ先生がいて。……あの人、何かを探しているみたいだった。何かを探している癖に、目の前にない何かを見てて…。そのうち、だんだん瞳が陰っていった」
「ひどく傷ついた顔したんだ」と、先生は言った。
「俺を映してくれた目はすごく綺麗な色で、深くて、ちょっと寂しそうな色があったけど、だから温かくて……」
唇を噛みしめ、先生は悔しそうに拳を握りしめる。
「俺、胸が苦しくて…。会わない間に何があったんだろうって。俺を叱って勇気付けてくれた人が、どうして里の中であんな目をするのか、信じられなくて」
先生の言葉に、もう一度当時のことを振り返ろうとするのだけれど、俺の記憶は任務ばかりで占められていて、ほとんど残っていなかった。
だから、先生が見た俺がその通りだったのか、俺には判断できない。
下がる視線を引き留めるように、「だから」と先生が言葉を続ける。
見上げれば、固い意志を宿らせた瞳で手元を見詰める先生の顔があった。
「だから、里のものを生けようと思った。ーー俺が会ったあの人は里を愛してたから。家族を大事に思っていたから。今、あの人が生きている里での移り変わりを、季節の花を、周りの風景を見てくれたら、きっと気付いてくれるって。あんな悲しい目をすることはなくなるって、俺、そう思ったんだ」
「ビジン」と俺を呼び、先生は顔を寄せる。
鼻先と鼻先をくっつきそうなほど顔を近づけて、先生は口を開いた。
「俺、毎日言ったんだ。『気付け』って、『あの人が花を見てくれますように』って、あの教室で花を生けながら、繰り返し言った。そうしたらーー」
言葉を区切り、先生は笑う。
「生け花飾り始めて一年経った頃、人づてに聞いたんだ。『はたけ上忍は上忍待機所の定位置で何かを見て笑ってる』って!」
先生は興奮した面もちを隠さず、目を輝かせた。俺の手を持ち、振り回しながら、無邪気にはしゃぐ。
「それ聞いた時、俺、嬉しくてっ。これは絶対俺の生け花を見て笑ったんだって、思い込んだ」
幸せそうな笑みを浮かべる先生を、ぼんやり見詰めた。
あの生け花の存在に気付いた当初の俺は、季節に沿って変わるそれを見て、確かに笑っていた。
一体どんな奴が生けたんだと、どこの馬鹿がやっているのだろうかと、嘲るように笑っていた。
何も知らなくて、何も気付かなくて、俺は先生の花を見下すように見ていたんだ。
先生の顔が直視できずに顔を伏せる。
頭を曝け出すように突き出た俺の頭を、先生は撫でながら、小さく息を吐いた。
「それぐらいの頃かな。カカシ先生の目に陰りが消えてきたのは」
照れるように先生は声を潜ませ、俯く俺に耳打ちする。
「ビジンにだけ言うけどな。俺、ずっとカカシ先生を見てたんだ。ストーカーみたいで自分でもヤバイって思ったんだけどさ。気になって仕方なくて、非常階段の窓から上忍待機所見てたんだ」
堪らず顔を上げる。
奥歯を噛みしめる俺を見下ろし、先生は恥ずかしそうに鼻傷を掻きつつ笑った。
「俺が見る角度じゃ、カカシ先生は何を見ていたかは正確には分からなかったけど、確かに笑っていてさ。それ見た時、泣くかと思っちまった。やっぱりあの人には笑顔が似合うなって、そう思った」
イルカ先生。
名を呼びたくなって、強く奥歯を噛みしめた。
名状しがたい思いを御すことでいっぱいな俺の頭を一つ撫で、先生はしみじみと言葉を漏らす。
「なぁ、ビジン。俺、カカシ先生の笑顔見る前はさ、俺の花がカカシ先生を元気づけたらいいなって、ずっと思ってた。俺を救ってくれたから、今度は俺が救うんだって、馬鹿みたく意地になってたのかもしれない。――今、考えるとお前は何様だって恥ずかしくなるけど」
自嘲気味に笑った後、先生は「でも」と言葉を続ける。
「カカシ先生の笑顔見たら、そんなことどうでもよくなっちまった」
顎を微かに引き、先生は俺と真正面に顔を合わせると、清々しい顔をみせる。
「大切なのは何がカカシ先生を元気づけたか、じゃないんだ。カカシ先生が何かを見て、そこから何かを感じ取ってくれたことが一番大切なんだ、って」
そう言って、先生は屈託なく笑った。
「カカシ先生が俺のことを忘れていても、顔を合わすことができなくても、それはそれでいいんじゃないかって、ようやく思えたんだ。カカシ先生がこの里で、あのときみたいに笑ってくれることの方が何倍も大事だって、やっと分かったんだ」
あまりにも先生の笑顔が眩しくて、胸が引き絞られた。
止めてよと、心の中で呟いた。
もう止めてよと、伝わらない言葉を胸の内で吐く。
手の下にある腕をぎゅっと握る。気付いた先生が俺の頭を撫でる。
「まぁ、でも、一年花を生けてたんだから、このまま止めるのも勿体なく思えてな。それに、もし俺の花を見てカカシ先生が笑ってくれていたなら、止めるのも残念に思えて、結局止める機会失くして、ずっと続けた。――そうしたらさ、あいつらの上忍師にカカシ先生がついた…」
それっきり言葉を止めた先生を窺うと、先生は何とも言えない表情を浮かべていた。
困ったような嬉しいような、それでいて切ないような。
太い唇を引き結び、眉根を寄せて、黒い瞳は潤んでいる。
引き結んでいた唇を一度ぎゅっと強く噛みしめ、ゆっくりと唇が緩んでいく。
先生は俺を見下ろし、潤ませた目元で感慨深く、それでいて切ない調子で、そっと囁いた。
「7班の任務報告の時、ようやく会えた。俺、カカシ先生とまた会えることができたんだ」
そう言ってはにかんだ先生の顔を見て、唐突に脳裏へ映像が蘇った。
『おかえりなさい』
初めて7班としての任務を終え、子供たちを連れて受付所へ報告しに行ったとき。
イルカ先生は今と同じはにかんだ笑みを浮かべ、俺たちを出迎えた。
元生徒を出迎えるために吐いた言葉だと、今の今まで思っていた。
でも、あの言葉は。
先生が口に出したのは――。
体が震えた。
息が詰まる。
猫の身の上であり得ないことをしてしまいそうで、誤魔化すために先生の膝に顔を押し付けた。
「ん、どうした?」
先生が俺の頭を柔らかく撫でる。
引きつりそうな喉を叱咤し、ごろごろと喉を鳴らした。
鼻が引き絞るように痛い。
八つ当たりするように膝へ顔を擦りつけた。
止めてよ、先生。
あんたと交わした約束を忘れていた俺に、感謝なんてしないでよ。
いつ死ぬかもしれない存在を待っていないでよ。
薄情者って詰ってよ。
俺みたいな奴のために心を砕かないで、あんまり優しくしないで、そんな目で見ないで、愛しそうに名を呼ばないで。
俺はあんたが思ってくれるような奴じゃない。
そんな奴じゃないんだ……!!
押さえきれない雫が先生の膝を濡らす。不自然だと分かっているのに、止められない。
震えまで走ってきた体さえ制御できずに、ただ顔を押し付けていれば、異変に気付いた先生が息を飲んだ。
でも、お気楽でお日さまな先生は、黙って俺を胸に抱きしめる。
ぽんぽんと背中を叩き、体を揺らし、頬を擦りよせ、励ますように小さく口付を落とす。
涙を零す不気味な忍猫を懐に入れ、泣き止まそうとする先生はバカだ。
どうせあんたの頭じゃ、チャクラ持ってるんだから涙流すくらいするだろうとか、忍猫だから人の感情の機微が分かるんだとか、考えることさえもせずに当たり前にそう思っているんでショ。
そんなことある訳ないじゃない。
獣に、感情で動く涙腺なんてないでショ。そんなの人間だけじゃない。
先生の体に爪を立てる。
服を握りしめるように、離さないように思い切り爪を立てた。
服を突き破り、肌に食い込む爪は痛いだろうに、先生は忍び笑いを漏らすだけだ。そして、小さな声で俺に感謝の言葉を呟く。
「ビジン、聞いてくれて、ありがとう。俺な、一人でこの思い出を持つのが、ちょっと苦しくなっちまったんだ。……今日の飲み会で思い知らされた」
声の調子に震える音が混じっているのに気付き、顔を上げる。
俺を見ていた先生の瞳が細くなり、眉が切なく寄せられた。
「……俺、カカシ先生が今でも好きだ」
時が止まった気がした。
先生の声が反響するように耳へこだまする。
目を見開き、身動きできずにいる俺の顔に雨が降る。
「忘れられないんだ」と懺悔するように、イルカ先生は小さく泣いた。
イルカ先生、語りでした。