「クソジジイめ」
ボロボロになった忍び服を抓み、悪態をつく。






三代目が渡したBランクの任務。
いざ事に及んでみれば、Bとは名ばかりのSに近いAランク任務だった。
金持ち二男を火の国まで送り届ける護衛任務と思いきや、火の国の宰相の娘婿になる男の護衛任務で、事もあろうに火の国に行く目的は結納のためだった。
親の莫大な資産を見込んだ政略結婚と思いきや、資金は二の次で、男を婿に欲しいと宰相が頭を下げて頼みこんだ結婚話だったようだ。
親が気に入る男は娘も惚れるものなのか、一目で娘は男を気に入り、この度晴れて結納の運びとなった。
しかし、現宰相が自ら選んだ娘婿は、将来宰相に抜擢するための布石だと、権力に取りつかれた無能どもは考えたらしく、男を亡き物にしようと刺客を送りこんできた。
そこら辺の里の上忍ならばまだマシだったが、続々と送られてきた刺客はビンゴブックに常連の忍びばかりで、中にはどこで見つけたのか、抜け忍の名高い忍びまでやって来て、骨が折れることこの上なかった。
幸いにも、宰相が惚れただけのある男は、機知に富んだ、物怖じしない性格で、忍びの裏をかき、逃げる手段なんぞも提案してくれ、一、二度の戦闘で目的地に着くことが出来た。
ようやくついた宰相の家で、未来の花嫁が涙ながらに駆け寄った体を抱きしめ、嬉しそうに笑った顔は恋する男の顔で、娘と同様に男もそうだったのだと知った。
お礼に宴会を開くと言う宰相の言葉を丁重に断り、とんぼ返りで里に帰ろうとする俺に、男は俺の名を呼び、一言だけ言った。
「あなたもいるのですね」
そう言って幸せそうに娘と肩を並べる男に、俺は言葉を返すことができなかった。
ただ、何となく。
この男が時期宰相になるのも時間の問題だなと思った。






火の国を出たのは夕方で、俺は一日かけてようやく里に着き、忌々しい狸爺に報告書を叩きつけたのだった。
狸爺曰く、
「今回は優秀な補佐がおったじゃろ?」
と、ちっとも悪びれることなく、報告書をBランクの箱に入れた。
後から聞いたところによると、男は金持ちでもなんでもなく、出自は貧乏な平民で、宰相が乞うたとはいえ、周りの親戚が平民を娘婿に迎えることは許容できず、自分の力で火の国まで来れば認めてやると言われたそうだ。
狸爺はそのことを火の国の宰相から相談され、男がぎりぎり出せる金額で任務を受け、俺に回したらしい。
とんだ規律違反だ。
里長自ら不正をした事実に目眩を覚えていれば、狸爺は満足げに言った。
「愛し合う二人が一緒になることは、自明の理。二人のきゅーぴっどになれて良かったのぅ」
と、笑っていたが、どうせ、その後に繋がる未来の宰相との強い絆を見越してのことだったに違いない。






狸爺と意味のない問答を繰り返したせいで、とうに日は落ちてしまった。
期待して受付所や、職員室を覗いてみたが、イルカ先生はすでに帰っていた。
一緒に飲もうと思っていたのに、残念なことだ。だが、イルカ先生の家に帰れば会えるのだと、俺は久しぶりに自宅という名の物置小屋に行き、手早く汚れを落として猫に変化する。
三日ぶりの先生との再会に浮かれながら、今日は思い切り甘えてやると上機嫌に先生宅へ向かっていた。
いつもは窓から勝手に入っているが、今日は出迎えてもらおうと先生のアパートのドアの所に座り、鳴いてみる。
「にゃーん」
先生、帰ったよー。
先生の気配はある。寛いでいるのか、一つところにじっとしていた。
いつもなら俺の声を聞いたら、飛んで来るのに。
変だとは思いつつ、もうじき会えることが嬉し過ぎて、気にせずもう一度鳴いた。
「にゃーんにゃ」
先生、俺やっと帰って来たんだよ。開けてよー。
しばらく待ってみるが、先生の気配は微動だにしない。
そのときになって、ようやくおかしいことに気がついた。
玄関のドアの横にある窓からは、家の灯りが零れ出ている。だが、夕餉の匂いがしない。
先生が早く帰宅した時は、必ず食事を作る。大雑把な男料理だが、先生の人柄を映すように、その料理は優しくて温かい味がした。






第六感が嫌な予感を告げる。
髭を波打たせ、じっくりと気配を探った。
静かすぎることがおかしい。そして、どうして今日だけ、俺は玄関から中に入ろうと思った?
人避けを張った結界か。
思いついた答えに、ぶわりと背中の毛が逆立つ。
危機感に煽られ、結界の元を探す。
先生の気配を阻害する違和感が三つ。
玄関ドアに一つ、窓に一つ、そして、屋根。
玄関に張られた小さなチャクラの源に、己のチャクラを尖らせぶつける。中にいる何者かに気付かれないよう、屋根に飛び上がりざまに壊し、屋根を越えてベランダに降り立つ。着地と同時に、チャクラを放出させた。
見ているものがずれるような、一瞬の違和感を感じた直後、中からけたたましい物音が聞えた。






「ふざけるなッッ。退けッ」
荒れた呼吸の合間に、罵る声が聞こえた。
割れたガラスを挟んで、先生が見知らぬ男に押し倒れている。派手に暴れたのか、居間は残骸だらけで、見るも無残な有様だった。
激しく抵抗したのか、先生の髪は解け、見知らぬ忍びの背後から見え隠れする先生の顔には殴られた痕があった。
黒い漆黒の闇を内包した瞳が激しい怒りで、ぎらぎらと光っていた。
手首を押さえられ、腰に乗られ、完全な自由を失っても先生は噛みつかんばかりに男を威嚇していた。
その激しい感情に、一瞬、胸が震えた。
けれど、それはほんの一瞬で。






「うあぁぁぁぁ!!!」
先生に圧し掛かっていた男が転がり落ちた。
突然のことに先生は一瞬間の抜けた顔を見せ、続いて俺に気がついた。
「…ビ…ジン?」
頭を押さえる男に見向きもせず、先生が俺を見詰める。
男が横に倒れた今、先生を隠すものは何もない。
押し倒される前に裂かれたのか、上半身を覆うアンダーは胸の前で真っ二つに引き裂かれ、素肌に付けていたる鎖帷子が全貌を見せていた。支給服のズボンはほとんど裂かれ、辛うじて肌にまとわりついているだけだ。
真っ赤に染まる視界とは裏腹に、妙に落ち着いた頭が一言だけ告げる。






殺す。






意味もなく喚いている男に近付き、男に放ち続けている殺気を強めていく。
男の雰囲気からして上忍か? けれど一度も面識もないその顔に、外回り専門の忍びだと見当付ける。
足音さえ出さず、男の眼前へ回る。
「ビジン?」
俺の影が男へ落ちる。辛うじて開いた男の目が、大きく見開き、瘧にかかったのように震え始めた。
男を見下ろし、腰を下ろす。
苦しそうに喉を押さえ、徐々に口が大きく開いて行く。その様を見下ろしながら、楽には死なせないと視線で告げる。
がたがたと男の体が震える。苦悶の汗が噴き出、男の顔を濡らす。締まりのない口からは赤黒い舌が垂れ下がり、男の顔もそれに似た色に染まる。
助けを乞うような瞳が忙しなく動く。
さすが上忍というべきか。
意識がある不運に、口端が浮き上がる。
狂ってしまえば、楽だったろうにーね。
男の目が激しく動く。
内出血を起こし、眼球が赤く染まっていく様をただ見下ろしていた。






「ビジン!!!」
横から浚われるように体が浮いた。
押さえつけられた耳に、激しく波打つ音が鳴り響く。
どっどっどっど。
激しく、だが規則正しく動く音に、あぁと不意に我に返る。
体を抱きしめる力強い腕に、先生の香りに、世界に色が戻ってきた。瞬きをして、上を見上げれば、先生は俺を抱きしめたまま、目を閉じて小刻みに震えていた。
「にゃ?」
どうしたの?
小さく鳴けば、先生の目が開く。
首を傾げる俺に、先生は詰めていた息を吐きだし、俺の体を引き上げた。
「ごめん、ビジン。ごめんな。ビジンっ」
かたかたと震える肩に戸惑った。
「……にゃー?」
……どうしたの、先生?
どうして先生が謝るのか、なんで先生が泣くのか、俺には分からなくて、必死に頭を擦りつけて、先生を慰めようとしたけど、先生はずっと俺の名を呼んで謝り続けるだけだった。
……先生、どうして?






******






玄関の前に立った気配を感じて、足早に迎えに行った。
殴られて腫れた顔は大きなガーゼに覆われていて、痛々しい。
「にゃー」
先生、痛くない?
見上げて鳴けば、先生は小さく笑って、その瞬間「いちっ」と頬を抑えた。口端はもちろん、口の中も切れていそうだ。
もう少し俺が早く帰ればと、自分の不甲斐なさに歯噛みしていれば、先生はしゃがみこむなり俺の肩を軽く叩いた。
「お咎めなしだったよ」
失神した男を病院に運び、その足で先生は三代目に報告しに行った。
俺はといえば、イルカ先生に留守を言いつけられ、この場に止まっていた。
「よーし、飯にするか。帰りに牛丼買ってきたんだ」
白いビニル袋を俺に見せるように持ちあげて、何事もなかったように先生は居間へと足を運ぶ。
「お、ビジン。すげーな。お前が片付けてくれたのか?」
遅れて居間に入った俺に向かって、先生は嬉しそうに笑った。
居間を飾っていた、子供たちの手で作られた置物や、絵、紙で作られた何かは、全部壊れてしまった。
踏みつぶされ、割られ、色々な破片に混じったそれら。
捨てるのは躊躇したけど、原形を留めていないそれらを先生に見せるのも辛くて、全てまとめてゴミ袋の中へ入れた。
「…にゃー」
先生、ごめんね。
小さく鳴けば、無事だった卓袱台に牛丼を置いて、俺の頭を撫でてきた。
「ありがとうな、ビジン。お前がいなかったら、俺の貞操奪われてたよ」
けらけらと明るく笑った先生に、髭が落ちる。
じっと見詰めていれば、先生は笑っていた声を潜ませ、居心地悪そうに目を背けた。
「……俺の、不注意のせいなんだ。最近、見られているの知ってたから、注意はしてたんだけど…。家に入る前に、気、抜いちまって、あのザマだ…」
自嘲気味に笑って、先生はビニール袋から牛丼を取り出す。
「ま、過ぎたことだって。――おっと、茶、沸かしてくるな」
忘れてたと立ちあがって台所に向かう先生を目で追う。
「…にゃー」
……先生が悪いんじゃないよ。
急須と湯のみを取り出す先生の耳には、俺の声は届かなかった。






深夜。
穏やかな寝息を立てて、眠る先生を見下ろした。
紫に変色している先生の頬にそっと手を伸ばす。触れるか触れないかの距離でなぞったそれに、先生はわずかに顔を歪ませ、避けるように寝がえりを打った。
息を潜めて様子を見ていれば、むにゃむにゃと何かを唱えて、再び寝息に取って代わられる。
先生の頬へ微かに触れた指を見詰めた後、いつもは開け放っている襖に視線を移した。
その奥には荒らされ傷ついた畳と、割られた窓ガラスがある。
先生の激しい抵抗を物語るように、畳には血痕や、摩擦痕などがあちこちに残っていた。
胸糞悪いから畳は全部替えてやるっと鼻息を荒く言った先生を思い出し、顔が歪む。
男に襲われかけたのにも関わらず、そう言って笑った先生を男らしいとも、無防備だとも思った。
だが、一番悪いのは。
一番の原因を作ったのは



俺だ。



奥歯を噛みしめ、己の軽率さを詰る。
そもそも先生は、襲われるようなタイプの人ではない。
色事なぞ微塵も感じさせない、お日さまのような人。
その快活さに惹かれることはあっても、男から欲望の対象として見られるには難しい人だ。
そんな先生を俺が変えた。
いやらしくも、狡猾に、先生本人にすら気付かれないよう、俺が変えた。
夜だけだったら良かったのに、俺の歪んだ欲望は昼の先生まで犯した。
あの夜が夢でないと思いたかったから、お日さまのような先生にも、夜のように淫らな目で俺を見詰めて欲しかったから。
そして――。






拳を握りしめる。
苦い思いを口の中に感じ、顔が歪む。
俺は、里の者を殺そうとした。
同胞を、仲間を、俺は殺そうとした。
真っ赤に染まる視界の中、そのことしか考えられなかった。
引きちぎられた衣服、血が滲んだ先生の唇。乱れた髪。
見た瞬間、自制心なぞ吹っ飛んでいた。
あのとき先生が俺を抱きしめてくれなかったら、そのまま命を奪っていただろう。
何の躊躇いもなく、俺は罪を、贖うことのできない罪を犯していた。






あのとき誓った誓いを破り、再び俺は――。






「…ビジン…?」
耳に届いた声で、我に返る。
先生はビジンを探すように、布団へ手をさ迷わせている。横向きから仰向けに寝転がり、そのまま布団で丸まっているだろうビジンを求めて、手が動いていた。
何となく堪らなくなって、動く先生の手を浚うように握った。
びくりと体が跳ね、うっすらとイルカ先生の目が開く。
「…カ…カカシ、せん、せ?」
訝しげな調子で発せられた問いに、少し泣きたくなった。
何か言おうとする先生に構わず、先生の胸に顔を押し付け抱きついた。
「っ、ちょ、カ、カカシ先生?」
振り落とされたくなくて、先生の腕ごと抱きしめ、しっかりと背中に腕を回す。俺に触れられたせいか、先生の鼓動が速くなる。
「お、重い…。カカシ先生、お、重いですって…!!」
目を閉じて、先生の鼓動の音だけに集中した。
居心地悪そうに身動く先生に大人しくしてもらいたくて、背中に回した腕に力を入れる。
ぐぇっと小さく鳴いて、先生は大人しくなったけど、頭の上から苦しそうな声が聞こえた。
「い、息できな……」
でたらめに打ち始めた鼓動に、ここまでかと、思う。
一回擦り寄った後、諦めて腕の力を抜けば、肺が膨らむのと同時に「違います」と憮然とした声が落ちた。
何がと先生を窺うより早く、先生の腕が俺の背中に回り、掛け声と一緒に体が反転した。
「よい、しょっ」
布団に半身が落ちる。それと一緒に、先生の手が俺の頭を抱え込んで、背中をゆっくりと摩りだした。
「は〜、やっと夢が叶う。あんたは、俺の胸の中で大人しく寝ときなさい」
「ったく、年中発情してる訳じゃねーんだからな」と、ぶつぶつ文句を言いながらも、先生の声は弾んでいた。
そっと視線を上げれば、先生は俺に気がついて。
「おやすみなさい、カカシ先生」
紫に色に腫れた顔で笑って、俺の前髪を掻き上げ、口付けをくれた。
しばらく先生は、俺の背中を宥めるように撫でてくれていたけど、途中で手は止まり添えるだけになった。
先生の寝息を聞きながら、俺は先生の胸に耳を押し付ける。






とくとくとく。
規則正しく、鼓動を刻む音。
俺の震える息に負けず、不安さえ押し流すように力強く打つ音。






先生が生きている証。
今、ここに、俺の前に存在している証。






俺の世界に、先生はいる。











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カカシ先生は殺気で人を殺せるくらい、強いの希望…。
いえす、佳境が近づいてまいりましたっ!! …たぶん。




君がいる世界 24