「ビジーン。もう大丈夫だって。俺も気をつけるし、あんなヘマは二度としないから、いつも通り、家で待っててくれよ」
こちらを見上げ、苦笑する先生に、俺は知らん振りして塀の上を歩く。
先生が襲われてから、俺は自主的に護衛役を買って出ている。
上忍の出入りもある、アカデミー付近で、この姿を晒す訳にはいかないが、任務のない日は、先生の登下校時に、人通りのない道で合流するように心がけている。
はたけカカシで護衛をしても良かったのだが、先生の家で起きたことは公にならなかった。
厳罰に処されるはずが、未遂ということと、被害者である先生が畳と窓ガラス代を弁償してくれればいいと言ったせいだ。
本当にどこまでお人好しなのか、呆れ果てる。
襲った相手は、寛大な態度を見せる先生を前にしてどう思ったか知らないが、自ら長期任務を希望したところによると、反省しているのかもしれない。
まぁ、反省しようがしまいが、俺がいる限り、次はないけどね。
「にゃ。にゃにゃ」
いーの。黙って、俺に守られてなさい。
ぴんと尻尾を立てて、家路へと歩く。
神経を尖らせて、周囲を窺うが、特に怪しい気配はない。
「何だか、大物になった気分だな」
俺が先回りをして、辺りを窺っている姿が面白いのか、先生はのんきにも笑った。
「にゃーにゃ! にゃ」
もー、笑いことじゃないのよ! あんた、襲われたんだから、危機感持ちなさいっ。
後ろを振り返って、難しい顔で苦言すれば、先生は俺に近づき、胸元に抱き上げてくる。
「あー、そんな怒るなって。こんなに可愛いくて頼もしいボディガードがいて、俺は幸せ者だな〜」
ぐりぐりと頬で頭を撫でられ、俺は生真面目に返事を返した。
「にゃ」
分かればよろしい。
こくんと頷けば、大爆笑された。
それから、先生との生活は穏やかに続いた。
夜は、はたけカカシとして閨を共にし、日の出ている時間は気の置けない飲み仲間としての上忍師はたけカカシとして、そしてビジンとして、俺は先生の側に居続けた。
永遠に続くと思えた平穏な時。
時折、先生を騙している罪悪感と、何も知らない先生に感じる苛立ちに悩まされはしたが、それらに目を瞑れば、願ってもないほどに、満ち足りた時だった。
変わらない関係。
変わらない顔ぶれ。
先生と俺の仲を引き裂く者も脅威も現れず、からかわれはしたが、ちょっかいを出す者もいない。
そのときの俺は間抜けにも、安心しきっていたのだ。
普通の人々が今日と同じ明日が来ることを信じているように、俺もまた、今日と同じ日が続くものだと信じていた。
忍びに、安息の未来はないというのに。
写輪眼カカシという忍びの行く先は、常に血に彩られているのに。
嵐の前の静けさ。
不気味なまでに平穏な日々は、その前触れに過ぎなかった。
******
走ったのは熱だった。
普段より夜目の効く身で、一歩先にかわしたつもりだった。だが、遙かに小さい体は相手の腕の長さを推し量れなかったらしい。
肩口を裂いた傷から、じわりと血が染み出してくる。
「ビジン!!」
悲鳴をあげる先生に大丈夫と尻尾で合図を送り、先生を庇うように、対峙した忍びと向き合った。
夕闇が闇へと変わる頃。
人通りから離れた道の真ん中に立ちはだかる、黒衣をまとう見慣れぬ男たち。
風に乗ってくる血なまぐさい空気は、里中では決して会いたくない人種だ。特に、イルカ先生といる時に。
「その首、もらいうける」
ざらついた声音で聞こえた音。
確認もなく宣言したそれに、全身がビリビリと緊張に包まれた。
額当てもなく、おそらく徹底的に体を調べたとしても何も見つからぬだろうそいつらは、死に番を命じられた、他里の暗殺者だ。
己の命と引き替えに、他者の命を奪えと命じられた、捨て駒の忍びたち。
里の中へやすやすと進入させた防衛隊に、思わず舌打ちが出る。
だが、腐っても木の葉の忍びは優秀だ。ここでどうにか時間を稼げば、すぐに応援がやってくることも理解できた。
先生は下がってて。
そう、言うつもりだった。だが、口を開く間もなく、先生はクナイを握りしめ、俺の前に立った。
気配を尖らせて、俺を狙う暗殺者どもの前に立ち塞がる。
「ビジン、逃げろ。ここは俺が時間を稼ぐ」
何を言っているのだと、叫びたかった。けれど、相手は写輪眼カカシの暗殺者として送り込まれた輩だ。先生と会話する時間さえ与えてくれない。
大規模な火遁の印を結び始めた一人の暗殺者の動きに、先生が動く。千本を投げつけ、印を阻もうと突っ込む先生を止める暇もなく、二人の忍びが俺に迫った。
あっと言う間に先生との距離が開く。
暗殺者は三人。
俺に二人、先生に一人つき、近づけないよう動きを封じられた。
胸中で悪態をつきながら、わずかな隙間をかいくぐり、斬撃をかわす。
相手の腕の長さが分かれば、この身で避けることは特に難しくない。だが。
暗殺者の一人の動きを読んで、こちらから仕掛ける。チャクラを凝縮させ、硬化した己の爪で相手の目を引き裂いた。
手には確かな感触が残るというのに、暗殺者は意に介さず忍刀を振るってきた。
後ろに身を翻しながら、己の予想が正しいことを知る。元の体ならば、こうも楽に懐に入れはしないが、今ので終わっていたはずだ。
圧倒的に力が足りない。相手を確実に仕止めるだけの、手がない。
素早さで圧倒しようが、敵を討つ力がないなら意味がない。
迫り来る刃と、暗器をかわしながら、横目で先生の様子を窺う。
対する暗殺者の方が上手。だが、先生は落ち着いた様子で守りを固めている。
自分の実力が分かった上で、時間を稼ぐつもりだろう。
直に応援が来ると分かっている、こちらの方が圧倒的に有利な状況だ。
しかし、だからこそ、相手も死に物狂いでかかってくる。
掠りはするものの、大した痛手を与えていないことに気が焦ったのか、暗殺者の攻撃が己を省みないものになってくる。
力が増した攻撃に、先生の守りが揺らぐ。掠めていた傷口は深くなり、一刀ごとに先生の体勢がぐらつく。
応援はまだかと、気が焦る。いらない怪我などさせたくないのに、傷つく様など見たくないのに。
変化を解くか?
冷静な頭が問うてくる。
いや、ダメだ。それだけは絶対ダメだ。先生にバレたら俺の居場所はなくなる。側にいられなくなる。
気が焦る。
先生の傷は増えていく。応援はまだこない。この俺では相手を倒せない。どうする、どうする、どうする。
迷う俺の耳に小さな声が聞こえた。
一瞬、全神経がイルカ先生に向かう。
振り向いた俺が見たものは、暗殺者ともつれ合う先生の姿。
暗殺者の体が前かがみに倒れ、巻き込まれるように先生の体が後ろへ傾ぐ。
だが、次の瞬間、先生の体は丸太に変わられ、暗殺者の背後に回っていた。
崩れ落ちた暗殺者に、安心するのも束の間、先生の瞳が大きく見開いた。
「ビジン!!」
悲鳴のような声。
気付いた時には遅かった。
忍刀が、暗器が目前に迫っている。
ご丁寧に死角からも襲い来る刃の音を聞きつけ、ちょっと笑ってしまった。そして、警邏隊の気配が近くに迫っていることを確認した。
これで、先生の無事は確保できた。
あっけない最期だったと、迫る刃を見て思う。死に直面しているというのに、恐怖はなく、どこか安堵にも似た思いが浮かぶ。
俺が死んだら、先生泣いてくれるかな。
他愛ないことを思う。
できれば、死にいく間際は先生の腕の中で死にたいと、立ち尽くしているだろう先生に視線を傾け、思考が止まる。
見えるのは倒れている暗殺者の一人。そして、立ち上る白い煙。
瞬身。
術の正体に気付くより早く、声が耳を打った。
「ビジン!」
突きたつはずだった刃の前に現れた大きな影。
影は視界を埋め、重い衝撃が体を覆った。
暗くなった視界と体を圧迫する重みが不安を呼ぶ。危機感に急かされ、死に物狂いで這い出た先で、生温かい液体が顔に降り懸かった。
振り仰ぐ。
裂けた肩口。黒く塗れた忍び服。突き立つ暗器。そして、倒れているイルカ先生。
息が、詰まる。
粘つく液体が、頬を伝う。
頭に痛みが走った。
声が、聞こえる。
いくつもの、声が。
奥底からいくつも、いくつも浮き上がり、情景とともに弾けた。
顔が。
声が。
温もりが。
ーー仲間。
俺の仲間。
封じていた記憶が蘇る。
みんな、みんな笑いながら逝った。
笑いながら、悲壮感の欠片もない顔で、みんな、逝った。
俺の側にいた人は、みんな、先に逝ってしまった。
俺だけを残してーー。
「…、…ビジン!!」
耳を打った声に、我に帰る。
血だまりの中に佇む俺の手には、血に塗れた忍刀が握られ、周辺には原型を止めていない肉片が散らばっていた。
はっと息を吐くと同時に、食い込むように握っていた忍刀を離す。
さまよう視線を、イルカ先生に、うみのイルカに向けた。
両脇を支えられてはいたが、顔色はいい。傷は思ったより浅かったようだ。
そのことに安堵しながら、今まで封じていた少年の面影を見て、胸が熱くなる。
大きくなっていた。
頑固で、直情的で、考えの足りないガキだった。でも、人のために涙を流せる温かい少年。最後の一線を決して間違えない、強い人。
魅せられた。
あの残酷な状況の中、それでも家族だと言い切った彼の強さが眩しく、救われたと思った。
欲しかった。その存在が欲しくてたまらなくなった。
約束と称して、俺を忘れてもらいたくなくてキスをした。
凍えるような日々は慣れても、辛かったから。
あの温かい少年の記憶の中に俺がいることができたら、どれだけ心強いかと、あの少年と会ってまた話ができたら、親しくなれたら、俺の側にいてくれたらと、望んでしまった。
「カカシ先生…」
イルカ先生が複雑な表情で俺の名を呼ぶ。「ビジン」ではなく、「はたけカカシ」の名を。
顔が歪む。
奥歯を噛みしめる。
だからこそ、忘れた。
だからこそ、はたけカカシとして、写輪眼のカカシとして、うみのイルカには近づかないようにした。
何度も惹かれながらも、己を騙し、否定し、遠ざかろうとした。
だが、結果はどうだ。
忘れてもなお、違う存在で側にいればいいと考えたバカな俺がいた。
いずれ、破綻するのに。
望みは決して叶えられない。いや、叶えてはいけないのだ。
俺の側にいる者は、俺を守って死ぬ。
俺にとって大事な人であるほど、彼らは身を挺して俺を生かそうとするのだ。
今のイルカ先生のようにーー。
揺れる瞳を見つめ、小さくないた。
「にゃー」
バイバイ、イルカ先生。
決別の言葉は、確かに先生に届いたみたいだ。
瞬身で消える直前、その目から大粒の涙がこぼれるのが、見えたから。
ここから、カカシ先生、逃げの一手です。イルカ先生、がんばって…。(T^T)