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意識を取り戻し見たものは、目を疑う光景だった。
鼻についたのは、濃い血の臭い。そして、闇に浮かぶ散らばった人の欠片。
里ではほぼ無縁である惨状に息を飲んだのは一瞬で、その惨劇の中心にいる人物を認め、頭が真っ白になった。
「…カカシ、先生?」
無意識に呟いた声は、鈍くひしゃげる音にかき消される。
髪を振り乱し、血飛沫を被ったまま、あの人は執拗に動かぬ塊へと刃を突き立てていた。
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「イルカ先生、ごめん。……今日も連れて来れなかったってばよ」
報告書に印を押したところで、報告に来ていたナルトが、肩を落として告げてきた。
いつもはこちらが窘めてやらなければならないほど元気を振りまくナルトが、ここ最近はしょぼくれた顔ばかりを見せる。
そうさせているのが、俺のわがままな頼みごとなのだと、今になって気付いた。
あの夜以降、ビジンが俺の部屋に来ることはなくなった。そればかりか、カカシ先生とも会わなくなった。
何とかして会おうと、時には七班の任務帰りを待ち伏せたり、受付の特権で任務帰還日を狙って受付に常駐したりしてみたが、カカシ先生の気配さえ感じることができなかった。
ーー避けられている。
その事実を冷静に受け止めていると思ったが、それは単なる思いこみに過ぎなかったらしい。
生徒に迷惑をかけても気づかないほど、俺は静かに衝撃を受けていた。
カカシ先生が俺を避けている。
今までずっと一緒にいたあの人がーー。
「にゃー」と小さく鳴いたあの人の声が耳に残る。
あのとき、確かにあの人は、泣いていた。
ふざけんなよと、胸の内で悪態をついた。
「先生?」
俺の苛立った感情にナルトが敏感に反応する。
怯えるようにこちらを見上げた瞳に、違うと首を振り、ナルトの頭を撫でた。元生徒にこんな顔をさせちまうなんて、教師失格だ。
「ナルト、ありがとうな。これからは自力でどうにかやってみるよ。だから、もう気にすんな」
ぽんぽんと頭を軽く叩いてやれば、ナルトはほっとしたように肩から力を抜いたが、代わりに眉根を寄せた。
「でも、先生が頑張っても、どうにもならないから、おれたちに頼んだんだろ? そんなことくらい、おれだって、サクラちゃんやサスケの奴だって分かるってば」
ずばりと言い放たれた言葉は、胸の痛いところを突いてくる。
子供とはいえ、やっぱり見てるところは見てるもんだなーと感心しつつ、大人の貫禄というものを心掛けて、俺は笑う。
「バカ言え。俺が諦めなけりゃ、終わりはないんだよ。それにナルトが一番知ってるだろ。俺の根性と粘り強さは、火影様だって脱帽もんだ」
まぁ、三代目は編み傘だけどと軽口を叩けば、ナルトが声をあげた。
「でも!」
反論するように口を開けたがすぐ閉じ、視線をさまよわせる。
言い淀む空気が不思議で、ナルトの後ろに他の報告者がいないことを確認した後、どうしたと聞いた。
職務怠慢もいいところだが、可愛い生徒の異変だ。目をつぶってもらおう。
隠さずに言えよと気楽な調子で尋ねれば、ナルトはなおも言い淀んでいたが、あのさと口火を切った。
「おれの。ーーおれのただの勘違いかもしんないんだけど。その……」
だんだん声が小さくなり、ナルトは俯いた。思ったことは口に出さずにはいられない性分のナルトが、ここまで言い淀むのは珍しいことだ。
うんと相づちを打つことだけに専念して、ナルトが話し出す機会を待った。
しばらく無言のまま向き合っていると、徐々に受付所へ入る人影が増えてきた。こちらに向かおうとする報告者の姿を見つけ、次の機会にするかと声をかける寸前、ナルトは意を決したように顔を上げた。
「ーーおれ、恐いんだってば。最近のカカシ先生、何か恐いんだってばよ」
イルカ先生と、縋るように視線を投げるナルトを見て、不安が大きくなった。
「アスマ先生、お願いです。どんな情報でもいいんです。俺に教えてください!!」
上忍待機所から出たアスマ先生に駆け寄り、声をかける。
アスマ先生は俺を見るなり、あからさまに迷惑な表情を浮かべたが、ここ最近では見慣れたものとなっている。
それよりも、今日こそ情報を得なければならない。
ナルトの言葉を聞いた後、俺はそれこそ形振り構っていられなくなった。
カカシ先生の任務書を漁るはおろか、直接三代目にも尋ねた。
でも、どうしても俺には知ることができない情報がある。
火影さま直々に言い渡される任務。
三代目本人が教えてくれるわけもない。ましてや、一介の中忍では首を突っ込むことさえできない。
ナルトはあのとき言った。
『何かよく分かんないけど、分からないんだってば。カカシ先生がカカシ先生じゃない気がして、そこにいるのに、いないような、何か恐いんだってば。明日になったらカカシ先生、いなくなってるような気がして、嫌なんだってば』
イルカ先生どうしようと、混乱するナルトを抱きしめ、大丈夫だと声を掛けたが、ナルトの言葉で俺の中にある不安が確信を持った。
カカシ先生は死ぬつもりだ。
死ぬ機会を、窺っている。
七班の任務で死に直結するような任務はほとんど皆無だ。ならば、カカシ先生が狙っているのは、上忍としての任務。それも火影さま直々の高ランク任務しかない。
「お願いです!」
唯一、情報を漏らしてくれる人がいるならば、カカシ先生を気にかけてくれていた、この人しかいない。あの虚ろなカカシ先生の側に、心配するように側いてくれた、この人しかいない。
「アスマ先生!!」
前を行く背中を追い縋り、肩を掴んだ。
短く舌を打つ音がした直後、右耳に風のうなり声を聞いた。
遅れてびりっとした痛みと同時に右頬が震える。
微かな血の臭いを嗅いだ後、こちらを真正面から見下ろすアスマ先生と対峙して、一瞬息を飲んだ。
アスマ先生の体から怒気がにじみ出ている。イノたちと一緒にいた時に見るアスマ先生からは想像できないほどの恐い形相で、俺を見下ろしていた。
廊下のざわめきが消える。周囲にいる者たちの動きが止まった。
気配さえも押し殺すような、緊迫した中、アスマ先生は短く告げた。
「……諦めろ。おめぇができることは、もうねぇ」
複雑な感情が入り交じった瞳が、俺を射る。
それに答えることもできないうちに、アスマ先生は振り返ることもなく歩きだした。
「イルカ先生、大丈夫ですか?」
アスマ先生の気配が完全に無くなった頃、ようやく廊下にざわめきが戻る。
詰めていた息をはっと吐いて、駆け寄ってくれた人に顔を向けた。
「……ハナ、さん」
ハナさんは困ったように口元に笑みを浮かべた後、ハンカチで頬を軽く押さえ、滝のように流れる汗を拭ってくれた。
「イルカ先生、……すいません」
荒れる息を押さえていれば、ハナさんが小さく謝る。何のことだろうと視線を合わせれば、ハナさんは言い難そうに言葉を紡いだ。
「……はたけ上忍のことです。私は、知っていたんです。それでも、止めなかった。あなたに本当のことを言わなかった」
すいませんとハナさんは謝罪する。
思い詰めたように表情を暗くさせるハナさんに、逆に悪いことをしたと思った。
「ハナさんのせいじゃないですよ。あのとき、ハナさんは俺を止めたじゃないですか。こちらで預かるって言ってくれた。でも、俺が引き取るって強引に連れて帰った。ーーこれは、全部俺が決めて、選んだ結果なんです」
「……イルカ先生…どうして…」
くしゃりとハナさんの顔が歪む。泣き出しそうな気配に驚いて、慌てて言った。
「ハナさん、勘違いしないで下さい。俺、まだ諦めてないんです。まだ終わったとも思ってません。これからです。まだ、これからなんですから」
俯きかけるハナさんの両肩を掴み、顔をのぞき込む。
「俺、追いかけます。ちゃんと聞いてきます。本人の口から聞くまで、どこまでも追いかけてやります。だから、ハナさん、そんな顔しないで、俺に頑張れって、会えるからって言って下さいよ」
ゆっくりと顔を上げたハナさんができないと小さく首を振るから、俺は笑う。
「ハナさん、願い事は言ったもん勝ちなんですよ。声に出して言ってください。その願い事は必ず叶えられます」
ね、と促せば、ハナさんは眉根を寄せ押し黙っていたが、小さく口を開いた。
「…諦め、ないで下さい」
うんと大きく頷く。瞳に溜まった涙がこぼれ落ちないように上を向きながら、ハナさんは続ける。
「私が、こんなことを言うのはおかしいけど。でも、はたけ上忍を助けて、あげてください。ーーそれは、イルカ先生、あなたにしか、できないからっ」
何かを押し殺すように、何かを昇華させるように吐き出した言葉と、頬を流れる涙に、ハナさんの思いを感じた。
厄介事に巻き込まれたのはハナさんの方なのに、それでもカカシ先生を案じてくれるハナさんの思いが力になる。
「はい、任せて下さい。必ず、連れ戻します」
目を見て、頷いた。約束しますと、心の中で呟いた声はハナさんに届いたようだ。
「はい」
涙を拭いながら笑うハナさんに、胸をなで下ろした時。
「あ、イルカ! おまっ、何、ハナさん泣かせてるんだ!!」
「……これは、ゆゆしき問題だな。こんな往来の中、女性を泣かしたイルカは償いが必要だ」
いつもの口うるさい二人の声が聞こえて、俺は苦笑いを浮かべる。このままここにいては、貴重な時間が潰されることが明白だ。
「……すいません、ハナさん。あいつらの足止めしてくださいますか?」
こそっと耳打ちすれば、ハナさんはちょっと驚いた顔をした後、もちろんと茶目っ気な笑みを浮かべた。
普段通りのハナさんに戻ったことに安心しつつ、それじゃお願いしますと、俺は駆け出す。
「あ、イルカが逃げたー!!」
途端にアサリの声が弾けたが、同時にハナさんが何かを取りなしている声が聞こえる。それはやがて、モテない男二人の歓声に取って変わったことで、俺はほっと胸をなで下ろした。
同僚の地味な嫌がらせほど厄介なものはないのだ。
廊下の角を曲がる直前、ハナさんたちの方を見れば、ハナさんが俺に気付いた。二人と笑って話していた顔を、ほんの少しだけ寂しそうにして、手を振る。
それに頷いて、俺は今度こそ前を向いて、全速力で駆ける。
アスマ先生は言った。
おまえができることは何もない、と。
だが、逆を返せば、こういうことが言えるのではないか。
アスマ先生ならば何かできる。いや、アスマ先生と同じ上忍ならば、何かカカシ先生のためにできることがある、と。
会えなくなって、早数ヶ月は経った。
その間、どれだけ心配したか、どれだけのストレスが蓄積されたことか。
待ってろよ、カカシ先生、ビジン。
会った暁には、鬱憤も兼ねてもみくちゃに撫で回してやると、アスマ先生の気配を追った。
もう一話、イルカ先生視点話で、次がカカシ先生となります〜。
イルカてんてーがんばっ!