「おめぇも大概しつけぇな……」
どこか呆れた様子で煙草をくゆらせるアスマ先生に、笑って頷いた。
「はい。これでもアカデミー教師ですから」
「オレはガキと一緒かよ」
漏らした言葉は聞こえない振りをして、アスマ先生の正面に立つ。
アカデミー側の林の中で、寝転がって煙草をくゆらせていたアスマ先生を見つけたのは、廊下で会った日から数日経っていた。
ここ数日、姿を見せなかったことから、アスマ先生も俺を避けていた節が見えるが、偶然ここで見つけたが年貢の納め時だ。
絶対聞き出すと気配に滲み出せば、アスマ先生は深いため息を吐きながら起きあがった。
「……イルカ。オレに厳罰もんの戒律を破らせてそんなに楽しいか?」
廊下で発したような怒気は感じられない。
アスマ先生の前に正座し、額宛を外した。そして、そのまま頭を下げる。
「楽しくはありませんが、破っていただきます。俺のために破って下さい。お願いします」
地面に額を擦りつける。
しばらく紫煙を吐き出す呼気を聞いていたが、やがて大きく息を吐くと、アスマ先生は疲れた声を出した。
「土下座一つで済ませるとは…、わがままな奴だな」
顔を上げろと言われ、体を起こす。
罵倒といわず、一発殴られる覚悟はしていたのに、目の前にいるアスマ先生は、どこか楽しそうな顔で俺を見ていた。
予想と違う反応に驚いていれば、アスマ先生は白い煙と共に小さく吐き出した。
「独り言してぇ気分だ、な」
暗に、黙って聞けという言葉に、大人しく頷いた。
アスマ先生は煙を吸い込み、空へ視線を向ける。
覆い茂る木々の向こう、空は薄い青が広がり、上空では風が強いのか、すごい早さで雲が流れていた。
アスマ先生はゆっくりと紫煙を吐き出し、空よりも遠くを見つめ、呟いた。
「――昔の話だ。オレとあいつは同じ隊にいて、そう短くもない時を共にした。他の奴らも気のいい連中で、今思い出してもいい隊だったと思う。……あの頃の奴は色々と背負い込んでいてな。自分は二の次、里と仲間を優先するような、忍びの鑑みたいな奴だった」
そのときのことを思い出したのか、アスマ先生の口元が皮肉げにあがる。
しょうもないと今にも言い出しそうな気配に、何となくだが気持ちが分かる気がした。
「あいつが他人を気遣えば気遣うほど、自身のことが疎かになる。実力はある、あいつの強さは確かだ。その性根の正しさも、な。ただ、この先、生き残れるのか。オレを含めて、周りの奴らも、そう思わずにはいられなかった」
諦念に似た呟きに、切なくなった。
カカシ先生に救われる度、周りの者は感謝すると同時に不安を覚えていたのだろう。
あまりに優しすぎるから。
あまりに己を犠牲にするから。
きっとカカシ先生は笑って人を救うのだ。その身を血に染め、なお笑って人を救う。
殉教者に似た頑迷さで、どんなに自身が傷ついても、カカシ先生は救うことをやめない。
あのとき触れた熱を思い出す。
死を望み、突っ込んでいった体を抱き止め、救ってくれた。
絶望にはまりこんだ俺の心をそっと掬い上げてくれた。
あのとき、カカシ先生がいなければ、俺はいなかった。こうして今、教師として子供たちの前に立つこともなかった。
自分も救われたから分かる。
カカシ先生に救われた者はきっと、願うのだ。
カカシ先生の幸せを。
自身よりも他人を優先する、馬鹿な人の幸福を、心から願う。
「…だが、そんなあいつを変えるきっかけがあった。ひでぇ戦でな。一部の上層部と敵方の上層部、それと一緒に二つの国がでっちあげたものだ」
顔を上げる。アスマ先生は目を細めて俺を見つめ、言葉を続ける。
「新米の中忍が言ったんだとよ。『里は家だ。木の葉にすむ者は家族だ』と。そいつらの命を犠牲に、里の繁栄を望んだ首謀者に向かって、迷いもせずに言い切った。あいつ、いたく感動してな。あの中忍にもう一度会いたい。会って話したい、もっと深く知りたいって、そりゃうるさいのなんのって。仕舞にゃ、里に早く帰りたいだ、早く帰らないと誰かに盗られるだなんだ言いやがってよ。あんときのやつは、馬鹿みたいにそればっかり言ってやがった」
奥歯を噛みしめる。
俺がカカシ先生から大事なものをもらったように、俺もカカシ先生に何かをあげることができたのか。
今、記憶に残っていなくても、あのときまでは確かに俺という人間を知ってくれたことがたまらなく嬉しかった。
「ようやく自分のための何かを望んだやつに、オレを含めて、周りの奴らも喜んでいた。――だがな」
煙草を地面でもみ消す。白い煙が上り、風に吹かれて霧散した。
「運がなかった。今となっちゃ、そうとしか言えねぇ」
アスマ先生は地面を見つめたまま、低く吐き出した。
「オレは、一足先に里に戻っちまったからな。戻った後も、すぐ里から出ちまったし、あいつらのことを知ったのは、オレが里に戻った時。今から、ほんの数年前の話だ」
大きな雲が流れ、薄暗い影が差し込む。
光の陰影だけではない暗闇が、一瞬アスマ先生の瞳を曇らせる。
「久しぶりに会ったあいつは、腑抜けになっちまってた。詳しい理由はわからねぇ。ただ、あの隊の中、たった一人、あいつだけが生き残った事実を知った」
空虚な目で、里を見ていたカカシ先生を思い出す。
何も映さない、何も見ない、全てを諦めきった瞳。
小さく息を飲む俺を尻目に、アスマ先生は小さく息を吐いた。
「それからだよ。あいつがやたらと自分と組んだ相手を庇うようになったのは。チーム組ませると大抵重傷を負いやがる。率いる人数が多ければ多いほどな。いい加減、腹に据えかねて、一度、問いつめたことがあった」
鳩尾が縮こまったような痛みを覚えた。奥歯を噛みしめ、アスマ先生を見る。
「『俺が助かりたいだけ』だ、そうだ」
その言葉に、肌がざわめいた。
一瞬の間の後に、腹の底から怒りに似た感情が噴き出た。
罵倒しかけた。
馬鹿かと、ここにいないあの人に向けて、罵りたい衝動に駆られた。
一体何を考えているのだと、怒鳴り散らして一発殴りたい。
カカシ先生の思いなんて、俺には想像つかない。どんな傷を抱えているのか、見当もつかない。でも、だけど、これだけははっきりと言える。
今、こうして生きている俺たちが、一生懸命生きないでどうする?
他人を庇うことに救いを求めて、一体、何になるんだ?
あんたの、意志は、思いは、一体何なんだ。
あんたは一体、何から逃げようとしているんだ?!
奥歯を噛みしめ、拳を握り、激情をやり過ごす。
ふとビジンを思い出した。
白銀の毛に覆われた下につけられた、無数の傷。
――あの人は、本当にバカだ。
「……まぁ、ジジイもそういうやつに心配してな。あいつには単独任務を任せるようになった。あいつがいれば隊の生存率はあがるが、あいつの生存率は下がる。……随分と、皮肉な話だ」
握りしめた拳を緩める。
ゆっくりと煙を吐き出す動作を繰り返すアスマ先生に、話は終わったのだろうと見当付けた。
一つ息を吐いて、本題に入りたいと目に力を込める。
アスマ先生は俺の思いに気づいていながらも、小さく笑って、新しい煙草に火をつけた。
「もう少し、吐き出させろ」
ゆっくりと紫煙を吸い込む姿に、つい苛立ってしまう。こんなことをしている間にも、カカシ先生の身に危険が迫っているかもしれない。
まんじりとせず、アスマ先生の言葉を待つ。
深く煙を吸い込み、味わうようにゆっくりと吐き出した後、アスマ先生はようやく口を開いた。
「だが、あいつにも変化が起きた。ちっせぇが、表情が明るくなった。少しは周りのことが見えるようになりやがった。けどよ。劇的に変わりやがったのは、つい最近だ」
煙草を挟んだ指が、こちらを指す。
アスマ先生はさもおかしいと言わんばかりに、くぐもった笑いをこぼした。
「おめぇと係わり合うようになって、あいつはまた息をし始めた。感情を表に出すようになった。何かを望むようになった。――自信持て。昔も今も、おめぇはあいつにとっちゃ特別な存在だ」
見据えてきた瞳に、息が詰まった。
ずっと見ないように、目を剃らしていた部分を優しく撫でられた気がした。
親子というものは、その気質が似るものなのだろうか。
さりげなくこちらの気持ちを軽くしてくれる、三代目の慈愛に満ちた瞳を見た気がして、敵わないと胸の中でつぶやいた。
張っていたものが緩むと、色々といけない。
鼻に下りてきた液体を啜り、誤魔化すように笑う。
アスマ先生の大きな手のひらが伸びて、子供たちにするよにぐりぐりと撫でてくる。
頭が揺さぶられるように撫でられて、痛いやら頼もしいやら、おかしいやらで笑いが出てしまう。
「猿飛上忍。準備、整いました」
アスマ先生の手が引いたところで、木の上から年若い忍びが下りてきた。
「おう、すぐ行く。先に行ってくれ」
「はい」
アスマ先生の言葉に、一礼して姿を消す。
身のこなし具合からして、上忍なのだろう。
慣れた仕草で、アスマ先生は煙草の火を揉み消す。そのまま去りそうな雰囲気を感じ、慌てた。
引き留めようと声をかける直前、アスマ先生がおもむろに口を開く。
「嫌々ながらに教えてやる。おめぇの危惧は当たっている。里でお前と一緒に襲われてから後、あいつは馬鹿みたいに任務を引き受けるようになった。で、今、カカシは行方知れずの状態だ。任務達成の報告は、一足先に式で送られてきたが、そこから先、連絡が入ってこねぇ。ついさっき、ようやくカカシを捜索するための部隊が組まれた」
焦がれるほど知りたかった情報に目が見開いた。
「…行方、知れず?」
気配すら見つけられなかったのは、里に帰っていなかったからなのか。
どうでもいい考えが片隅に過る。徐々に上がる呼吸を押しとどめようと、服を握りしめた。
「カカシとの連絡が途絶えて、今日で二週間だ。あいつの体力からして、ぎりぎりのところだろうな」
知りたくて堪らなかった情報だったはずが、苦しくて仕方ない。沸き上がりそうになる不安な思いを殺し、奥歯を噛みしめていれば、アスマ先生は親指を自身へ向けた。
「運がいいと喜べ。その部隊長は、オレだ」
アスマ先生の言葉に、顔を上げる。
どうすると尋ねられる前に、口を開いた。
「連れていってください。俺が、カカシ先生を見つけます」
言い切った。
自惚れかもしれない。根拠も何もないことだとは分かっている。でも――
「俺を連れていってください。俺しか、カカシ先生を連れ戻せません」
決意を持って言った言葉は、アスマ先生を満足させたみたいだった。
「その言葉が聞きたかった。五分で準備してこい。それ以上は――なんだ?」
アスマ先生の言葉に首を振った。
懐から懐紙を取り出し、任務に出る旨を書き、鶴を二つ折る。そして、飛ばした。
アカデミー目指して、白い鶴が一直線に羽ばたいていく。それを見送り、振り返れば、アスマ先生の目が見開いていた。俺がしたことを正確に理解してくれたようだ。
「……おめぇ、まさか装備も?」
呆気にとられているアスマ先生に、俺は頷く。
「俺が準備していなくて、どうするんですか」
アスマ先生と廊下ではち合わせてから、いつ出立できてもいいように下準備はしておいた。
手に馴染んだ暗器とクナイ。虎の子の巻物を入れ、解毒剤や兵糧丸、止血玉、起爆札も持てるだけ持った。
毎日、ずっとこの装備でうろついていた俺を、同僚たちは気が狂っていると馬鹿にしたが、ここでようやく日の目を見ることができた。
受付任務や、アカデミーも日頃から色々と恩を売りつけていた甲斐もあり、快くとは言わないまでも、皆、俺に協力してくれた。
『…それでも足りない! 帰ったらイルカの奢りだかんなッ』
『上等のとこ予約して待っといてやるよ』
不意に、気の置けない仲間に言われた言葉を思い出して、苦笑いがこぼれ出る。
激励の言葉として受け取った俺の考えは間違いではないだろう。
「見つけだしたら、即おしおき頼むぜ、先生」
揶揄するように笑ってきたアスマ先生に、俺も乗る。
「えぇ、悪ガキどもで鍛えてきた拳を食らわしてやりますよ」
拳を自分の手のひらに打てば、快い音が鳴る。
満足げに目を細め、それを認めた後、アスマ先生は立ちあがり、短く告げた。
「いくぞ」
「はい」
アスマ先生の後に着いていけば、大門へと着いた。
待ちわびていたように振り返った面々が、俺を認め、怪訝な表情を浮かべる。その中に、顔見知りがいて声を掛けてくれた。
「イルカじゃないか。臨時で参加か?」
楊枝がトレードマークのゲンマさんだ。
ゲンマさんに小さく礼をし、怪訝な顔を向ける面々に頭を下げた。
「中忍、うみのイルカです。この度の任務に参加することになりました。よろしくお願いします」
簡単に名乗れば、その場がざわめいた。
場違さは分かっているつもりだ。だが、引く気はない。
挑むように顔を上げれば、アスマ先生が肩を叩く。
「急遽、オレの独断で加えることにした。時間がねぇし、面倒だ。異論は認めんぞ」
「異論なんて。オレは大歓迎ですけどね。イルカ、期待してるぞ」
気安い態度で小突いてきたゲンマさんに続いて、よろしくなと肩に手を置いたり、手を握りしめてきた面々に度肝を抜かれた。
誰もが俺に期待の目を向けている。
何故俺に期待するのか、皆目見当がつかない。もしや、カカシ先生と俺の関係を皆知っているのかと、思わず顔が赤くなったところで、アスマ先生が号令をかけた。
整列する他の者に混じり、最後尾につく。今は余計な考えに気を取られている時ではない。
「任務内容は事前に伝えた通りだ。急ぐぞ」
『応』
アスマ先生の言葉に、一斉に駆け出す。
大門を潜り、街道ではなく、森を突っ切る最短コースに進む様を見て、カカシ先生が危ういことを嫌でも知ってしまう。
時間が経つにつれ、前方を駆ける皆との距離の差が開く。
遅れがちな俺に気づいたのか、斜め前を走るゲンマさんが窺うように視線をくれた。
それに首を振り、駆ける足へとチャクラを送って、横に並ぶ。
あんまり無理すんなと苦笑をこぼしたゲンマさんに、もう一度首を振った。
無理をしなければ、カカシ先生を連れ戻せない。
事は一刻を争う。
前を行く背の向こう、カカシ先生がいる場所を思い描き、届けとばかりに心の中で叫ぶ。
この里に戻る時は、あんたと一緒だ。
いけいけ、ごーごー!