『カカシ君。頼むから、君のことを考えてくれるわがままな子と一緒になりなさいね。じゃないと――』






先生が言う。
顔を上げれば、逆光になった先生の顔は暗く影っていて、どんな表情をしているのか分からない。ただ――






『ひとりぼっちになっちゃうよ』







先生の声は濡れていた。







******






頭が傾いで、我に帰った。
体中を苛む痛みに、一瞬混乱して、すぐ状況を把握する。
「……しくじったんだっけ」
ひび割れた声は弱弱しくて、少しおかしくなった。
声と同様にひび割れた唇は乾いていて、動かすと小さな痛みが生まれる。
長い間、夢を見ていた気がする。もしかすると、夢ではなく走馬灯の類なのかもしれない。
右腹は抉れ、血に染まっていた。
暗殺の依頼をこなした帰り道、里で遭遇した輩と鉢合った。待ち伏せされたと言った方が正確か。
里の侵入を許すばかりか、任務帰りの経路を把握していることといい、木の葉内部に間者がいる可能性が高い。間者ではなく裏切り者の線も濃厚だが、どっちにしろ俺を邪魔だと思っている輩がいることは確かだ。
ゆっくりと息を吐き、息を吸う。意識しなければ、呼吸することすら忘れてしまいそうだ。
ひどい倦怠感が体を襲う。
油断はしていなかったように思う。
三人に囲まれて二人は倒したが、最後の一人の捨て身の攻撃が避けきれなかった。
こちらの体を貫かれると同時に、こちらも雷切りを相手に食らわしたが、命までは奪えなかった。






息を吐いて、目を閉じる。
ここまで、か。
里に帰る気力はもはやなく、小さく胸の内で呟いた。
重く血を吸った包帯の上から、右手で圧迫を続けていたが、意味がなかった。
血が、止まらない。
圧迫していた手も、今は添えるだけで、いたずらに己の手を染めているだけだ。







瞬きの回数が少なくなるのを感じながら、前を見た。
上空は鬱蒼とした葉に覆われ、日の光はほとんど射しこまない。眼前は好き勝手に伸びた藪で覆われ、時折、虫の気配はするが獣の気配は感じられない。
今は昼間だというのに、暗くどんよりとした森は、寒々しい印象しか与えてくれなかった。
これを、望んでいたはずだった。
最期は里のために死のうと、三代目の諌める声も無視して過剰な任務を受け続けた。
全てを思い出した今、近過ぎるほどの距離にいたあの人から逃れるために、任務を入れ続け、あの人を忘れようと努力した。
任務中は束の間忘れられる。
恐怖も、焦がれる気持ちも、甘い記憶も。
全部、忘れられる。
そして、俺が死ねば、本当に全部忘れることが出来る。この苦しみから解放される。
忍び寄る死の気配を感じながら、満足の笑みを浮かべようとして、頬が引きつった。






違う。何かが違う。
奥底で、ずっと首を振る俺がいる。
安堵してもいいはずなのに、ようやく俺の望みは叶えられるというのに、どうしてか。
俺の心は寒くて仕方ない。
寂しくて、心細くて、泣きだしそうなほど震えている。
それと一緒に、小さな声が聞こえた。
「にゃー」と、か細い声で鳴く、猫の声。
俺の胸の中で必死に叫んでいる。
見つけ出して、見つけ出して。俺はここにいるから、見つけ出して。一人にしないで。お願いだから、一人にしないで、イルカ先生――。
祈るようなささやかな願いに、顔が歪んだ。
馬鹿だと、思う。
望みは一つしかないはずだったのに。
相反する望みが、今になって顔を出して必死に叫んでいる。
失うことが恐い。あの人の死を見ることが堪らなく恐ろしい。でも、それと同時に、一緒にいたいと思う。あの人の命が尽きる、その瞬間まで、ずっと側にいたい。
傷ついてもいい、壊れてもいいから、側にいたいと願っている。






鼻が痛みを訴える。
水分は干上がって、流れ落ちるものは出なかったけど、目が痛んで仕方なかった。
腹に添えられた手に視線を落とす。
手首に巻かれた、ビジンの首輪。
イルカ先生が俺にくれた、初めての贈り物。
上から包帯で覆ったそれは、今は俺の血で赤く濡れている。光のない中でみるそれは黒ずんでいて、ひどく汚く見えた。
それが嫌で、先生の温もりの片鱗を求めて、左手を動かす。
歯を食いしばって、右手首に指先を乗せる。引っ掻くように爪を立てて、張り付く布を退けた瞬間。






淡い光が立ち上った。
頭上を覆う木々の葉に、青い光が浮き上がる。
そのとき襲った衝動は、声をあげて泣き喚きたかったほどだ。
今の俺の目には見えないけれど、あの光の先に俺の名前が刻まれている。
うみのビジン、と。
イルカ先生がつけてくれた俺の名前が、浮かんでいる。






腹の底から熱いものが込み上げてきた。
帰りたいと、思った。
ここで朽ち果てるのは嫌だと、明確な意志が生まれた。
目が覚める前、昔聞いた先生の声を思い出す。
『ひとりぼっちになっちゃうよ』
ひどく辛そうに、泣きだしそうな声で先生は言っていた。
続いて、アスマの声も聞こえた。
『簡単に諦めんな。さもないと、オメェ、一人のまんまだぞ』
うんと、頷く。
うんと、歯を食いしばった。
今、ようやく分かった。






穴だらけの世界で、俺はずっと一人だった。
イルカを忘れてから、俺はずっと一人だった。
それは、俺が世界を閉ざしていたから。俺が世界を一人ぼっちにしていたから。だから、穴は塞がらない。
死を、人を受け入れられない俺の世界は、俺一人しかいなかった。
世界がいくら広くなっても、そこに住む人は俺一人だったから、世界は歪んでいた。
イルカと出会って、初めて俺の世界に俺以外の人が住みついた。光が満ちた。世界は歪みをなくした。
人が人の死を乗り越えられるのは、自分の世界に人を受け入れるからだ。
その人が例え死んでも、自分の世界にはその人が残る。だから、人は辛くても、悲しくても、寂しくても、その死を乗り越えて行ける。
真っすぐ前を向いて行ける。
自分の世界に住むその人と、歩むことが出来るんだ。






イルカと、名を呼ぶ。
イルカ先生と、その存在を乞う。






力は残っていない。立ち上がる体力さえない。
でも、気持ちは奮い立った。
全身に意識を向ける。血は足りない。でも、チャクラはまだある。助かる手立てはきっとあるはずだ。
チャクラを全身に巡らし、錆ついた体に喝を入れる。
絶対に死なない。死んでなんかやるものか。生きて、里に帰る。帰ったら、帰ったらそのときは――。






立ちあがろうと足に力を込める。背中にある木に手をつけ、渾身の力を入れようとした、時。






「こんの放蕩猫がぁぁぁぁ!!!!」
大音声と共に藪が揺れ、飛び出すように人影が目の前に現れた。
「え…」
突然の事に呆気に取られて、練り練ったチャクラは霧散し、俺の体は再び地面に落ちた。
はぁはぁと息を荒げ、どこから落ちたのか、泥や葉っぱをあちこちにつけ、真っ赤な顔でこちらを睨みつけるのは、俺が会いに行こうとしたイルカ先生で。
「え?」
ぽかんと口を開ける俺に、先生は目を吊り上げた形相で俺に近付き、ぽんと頭に手を乗せた。力の入っていないそれは、ただ軽い感触を残すだけで。
何をされたのかよく分からず、茫然としている俺に、先生はポーチから救急道具を取り出し、胸のホルダーから筒を取り出すと、そこから丸薬を三粒取り出し、おもむろに自分の口に入れた。
ただ見ていると、先生は俺の顔を乱暴に上向かせ、マスクを取るなり口付けてきた。
突然の口付けに仰天したが、口内に甘苦い薬の味を感じ、そういうことかと浮かれた気持ちが萎む。
口内のものを全部飲み下し、何となく物足りなくて舌先を伸ばせば、すげなく顔を離され、至近距離から思い切り睨まれた。しかも、傷つくことに先生は唇を思い切りごしごしと袖で拭っている。
俺とキスするのは、そんなに嫌だったのかなと落ち込んでいると、先生は俺の腹の傷に消毒液をぶっかけると、声を荒げた。
「大人しく、丸薬飲んだのは褒めてやる。でも、勝手にいなくなるのは、家族として厳重罰ものだからなっ。帰ったら、頭叩くだけじゃ済まさねぇ。お仕置きしてやるから、覚悟しとけ!!」
忍び服をクナイで切り裂き、患部に止血剤を振りかけられる。その上からガーゼで覆って、ぐるぐると包帯を巻き付けられた。
包帯を巻くために、先生の体が俺の体に触れる。
温かい感触と、久しぶりに嗅いだ、イルカ先生の香りに、張っていた心が緩んでいく。
夢や幻じゃないんだと、目の前の温もりにすり寄った。
「……うん。覚悟、しとく」
小さく頷けば、先生の動きが止まった。
どうしたのだろうと思っていれば、先生は体を震わせ、詰まるような息を吐いた。







「間に、合わないかと、思った。……あんたが、もう、死んでるんじゃないかって、俺、俺……」
ひっと小さく嗚咽漏らす先生に、うんと返す。身動きできない体がうらめしい。
今すぐ肩に腕を回して、力強く抱きしめたかった。
俺が生きていることを先生に伝えたかった。
「……先生、ごめんね。…今まで逃げていて、ご」
言葉途中で咽た。水分のない口内はひどく乾いていて、喋り辛い。
先生は我に帰ったように包帯を巻き終えると、ホルダーから竹の筒を取り出して、先端を唇に押し当ててきた。
飲めと傾けられたけど、視線を上げて甘えるように見詰めれば、先生はしばし俺の顔を凝視した後、遅れて顔を赤くさせた。
「飲ませ、て?」
顔を赤くさせるだけで行動に移さない先生に、駄目押しで言ってやれば、先生はぶつくさと何か言いながら水を口に含み、唇を重ねてくれた。
口内を潤し、喉に落ちていく水が清々しい。全身に行き渡る心地を味わいながら、何度もねだり、水筒の水を全部飲み干した。
最後の水を飲ませてくれた時、そっと先生の口内に舌を差し入れれば、びくりと一瞬体は跳ねたものの、俺の好きにさせてくれた。
身動きできないながらも舌を絡ませて、先生を誘えば、先生も熱心に口付けをくれた。物慣れないのか、ぎこちない動きだったけれど、応えてくれた先生が嬉しくて、舌を夢中で伸ばした。
しばらくして、先生は俺から顔を背けてしまう。呆気ない最後を残念に思った。もっとしたかった。
未練がましく先生の赤くなった唇を見詰めていれば、イルカ先生は隠すように唇を手の平で覆い隠す。
「……期待しても、いいんですよね?」
「え?」
言われた意味が分からずに聞き返せば、先生はあーっと頭を掻くとぶっきらぼうに言った。
「だから! 里に帰ったら、あんたは俺に言うこと言って、収まるところに収まる覚悟はできてんですよね!!」
ぎっと睨みつけられ、瞬きをした。
先生は俺が何を言っているのか分かっていないと思ったのか、もう一度口を開いた。
「だから、あんたは俺のことが好きだって告白して、俺の家に帰って来ればいいんです! それ以外は認めませんからねッ。あんたが嫌だって言っても、知りません! 放っておけば、瀕死になる駄目猫を飼えるのは、俺以外いないんですから、自覚してくださいっ」
ぱんと言い切られ、目が見開く。
驚いている俺の顔を見て、我に帰ったのか、イルカ先生はくそっと小さく悪態をつくと、持ち物をポーチに仕舞いこみ、指笛を高く鳴らした。
そこでようやく気付く。
もしかして、先生は俺を探しに来てくれたのか。






「……この話は里に戻ってからします。あんたの傷の治療が先決ですから」
俺の前に膝をつき、目を逸らして言う先生に聞いた。
「先生、もしかして、俺を探しに来てくれたの? 俺がしたこと全部知ったのに? あんな別れ方したのに?」
「…そうですよ。悪いですか? アスマ先生が部隊長だって聞いたんで、無理矢理連れてきてもらいました」
渋々答える先生に、俺は再び尋ねる。
「先生、アカデミーは? 受付任務もあったでショ? それに、なんで先生がアスマが部隊長だって知ってるの? 俺探すんなら、上忍、特別上忍のメンバーが普通でショ?」
「俺の方は他の人に頼み済みです。アスマ先生のことは……」
ぴたりと黙る先生に、どうしたのだろうと言葉を待つ。先生は、あーっと額を押さえ、俺に噛みついた。
「もう、いいでしょうが! あんた、真っ青で死にそうな顔してんだから、大人しく寝ときなさい!! ったく、迷子札持たせてて良かったですよ。あれがなけりゃ、見つけられませんでしたっ。俺に感謝してくださいよ、カカシ先生!!」
顔を真っ赤にして怒鳴ってきた先生に、笑いが込み上げてきた。
笑う度に腹が引きつって痛い。
まさしく俺は迷子だった。
何処に行けばいいか分からなくて、うろうろと同じところをずっと回っていた、迷子の子供そのものだ。
それに気付かせてくれて、見つけてくれたのは、先生で。






「イルカ先生」
何がおかしいんですかと、俺に食ってかかる先生の名を呼ぶ。
こちらに向かう気配を計算に入れて、先生の目を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「イルカ先生、愛してます。俺は、あなたなしでは生きられない」
先生の顔が真っ赤に染め上がるのと、俺たちの周りに集まった人影が固まるのは同時だった。
「だから、ちょっかい出さないでね。みんな」
ヒューっと感嘆の口笛を吹いたゲンちゃんと、面倒くせぇと顔を顰めたヒゲと、その他諸々の忍びが注目する中、イルカ先生は素っ頓狂な声をあげた。
「そういうことは、二人きりの時に言うもんでしょーーーーーッッ?!」
「だって、盗られたくないんだもん」
笑った俺に、イルカ先生は馬鹿かっと吠えた。












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……当初の予定と大違い…。うーん、分かるような分からないような…。うーん…。(葛藤)



君がいる世界 29