じりじりと焼け付く太陽を手で遮り、向かい側の教室に視線を向ける。
開け放った窓から見えるのは、緑色の花瓶に挿された花。
この度は、夏によく見られる朝顔だ。
アカデミーでは夏になると朝顔を植える習慣があるらしい。幼年組は朝顔の観察日記なるものをつけて毎日観察するのだと、イルカ先生から聞き及んでいる。
しかし残念なことに、昼過ぎた今では、朝顔の花はすっかり萎んでいる。早朝だったら咲いている花が見れたのだろうかと、萎んでいる花が咲いている様を思い描いた。
「腑抜けた顔、晒しやがって」
「ホント。何か、世の理不尽っていうものを見せつけられているみたいだわ」
暑いから窓閉めなさいよと紅に不機嫌に言われ、俺は大人しく窓を閉める。
素直な俺が珍しかったのか、「やだ、今日は落雷かしら」と大げさに言った紅に、ふぅーと息をついてやった。
「いやだねぇ。これだから愛に飢えている可哀想な女は、素直じゃないんだから。……髭、お前、頑張れよ」
大股広げて、煙草をくゆらせる髭の肩に手を乗せれば、「おうよ」と軽く声をあげた。
いつもの髭らしくない髭の態度に、まさかと紅を見る。
「な、何よ!」
途端にかぁっと顔を赤らめた紅に、ほほぉーと頷いてやった。
俺の知らぬ間に髭は仕事を進めていたようだ。俺たちの足元には及ばないだろうが、頑張ることはいいことだ。
「その目。むかつくんで、止めてくれない?」
ぐっと拳を握りしめた紅に、素直じゃないんだからと息を吐き、大人しくソファに座る。
本日、任務はなく、上忍待機所に詰めている。
イルカ先生は夕方まで受付任務があるため、終わったら一緒に夕飯の買い物をして帰ろうと約束していた。
約束の時間まであと一時間。
早く時が過ぎないかと時計と睨めっこをしていれば、待機所のドアが開いた。
「失礼します。ムツ上忍、いらっしゃいますか?」
聞き覚えのある声に、ざわりと肌がざわめく。
錆つく首を回して出入り口へ視線を向ければ、呼び出した上忍と話をしている、犬塚ハナがいた。
うぅと唸るように犬塚の動向を探っていると、ふわんと胸が悪くなるような甘い匂いが鼻をつく。
「ねぇ。なーんで、犬塚のこと目の敵にしてるのよ?」
鼻を抓んで顔を背けて、急接近したアンコの顔を避ける。
「あ、私も気になってたのよね。いい人よ、ハナって。あんたが恨まれることはあっても、あんたが恨むような子じゃないわ」
続いて、挟みこむように、反対から尖った爪を突きつけられ、げんなりする。
俺で遊ばないでよと適当に切り抜けようとすれば、新手がソファを占拠した。
「お話、聞かせていただきましょうか」
「今後の、参考にお願いします」
「よく分かりませんが、聞かせてください!!」
手を組み合わせ、真剣な顔を見せるゲンマに、眼鏡をきらめかせるアオバ、訳も分からず頭を下げるライドウ。
いつもの三人トリオの登場に、なんだかなぁと力が抜ける。
付き合っていられないと腰を上げた俺に、ゲンマがきりりとした顔で言った。
「聞かせてくださいましたら、イルカのとっておきの秘密を教えましょう」
「言いましょう」
こちらもきりっとした顔を見せ、腰を下ろせば、「くだらねぇ」と髭がこれみよがしに言ってきた。
部外者は黙ってろと視線で黙らせ、俺は固唾を飲む面々に向き合うと、おもむろに口を開いた。
「犬塚ハナは、イルカ先生に好意を持ってんのよ」
シーンと場が静まり返る。
そうだろう、そうだろうと、皆の反応はもっともだと頷いていれば、髭がぽつりと言った。
「くっだらねぇ」
実感がこもりすぎるほどこもった言葉に、噛みつこうとすれば、続々と声があがった。
「聞いて損した」
「つっまんないのぉ」
「……カカシさん」
「使えませんね」
「よく分かりませんが、ご苦労様です!」
五者五様の反応を見せたが、熱血くん以外、そのどれもが期待はずれと顔に書いていた。
「ちょっと! 俺にとっちゃ死活問題な訳よ!?」
皆で聞きたいって言った癖に、そのつれない態度は何と憤る俺に、紅は爪を眺めながらついでのように言う。
「じゃ、一応聞いてあげるけど、いつ分かったのよ。ハナがイルカ先生に好意を持っているって」
「あ、それ、興味あるわ。犬塚の弟がイルカの元教え子くらいしか接点ないわよね、あの二人。忍犬飼ってる訳でもないし、カカシの方がよほど接点あるじゃない」
どうなんだと目を向けられて、さぁねぇと白を切る。
「いきなり詰られたんだーよ。『あなたは、ずるいです! 私だったらあんな顔、イルカさんにはさせないのに』って、小生意気に言ってきたの」
里で襲われてから、イルカ先生を徹底的に避けていた時、犬塚に噛みつかれた。
その時の俺は、犬塚の言葉を冷静に考える余裕もなくて、取り合うこともせずに無視した。
今思えば、『イルカ先生にふさわしいのは私よ』発言に聞こえなくもない。
あのときの犬塚を思い出して、面白くない気分に陥る。胡乱な目を犬塚に飛ばせば、犬塚はこちらに気付き、笑みを浮かべて頭を下げてきた。
くっ、何、あの余裕ぶった態度はっ。イルカ先生は絶対渡さないよ!
うぅぅと唸るように睨んでいると、周囲からほうと感心した声が漏れ出た。
「やるわね、ハナ。あのカカシに食ってかかるとは、天晴な心構えだわ」
「大した度胸ねぇ。見直したわ」
「芯の強い女性って、いいですよね〜」
「参考になります」
「へぇ。ハナさん、勇気あるな」
犬塚の株が上がる不思議現象を目の当たりにして、世間の冷たさを知る。
少しはこっちを気遣ってもいいでしょと口を尖らせれば、髭が鼻で笑った。
「イルカも物好きな奴だな。根暗でバカで、後ろ向きの面倒くせぇ、駄猫の面倒をよくも見る気になったもんだ」
ホント、ホントと、全肯定した面々に、不満が募る。
おまけに、概ね合っているアスマの言葉を否定できない自分がいて、歯痒くて仕方ない。
「もう、俺のことはいいでショ! じゃ、今度は俺が聞く番。こっちは話したんだから、ゲンマも話しなさいよ」
えーなんのことでしたかねぇと、わざとらしい仕草で顔を背けたゲンマに、パチパチとチャクラを弾けさせて睨んだ。
「あぁ、もう。言いますよ、言います。物騒だな、カカシさんは」
ほんの冗談ですよと、軽く言うゲンマに、階級とは何かを教えてやりたい気分になる。
気を取り直して、聞く体勢を取れば、ゲンマは楊枝を動かし、「聞いたことないですか?」と尋ねてきた。
「何をよ」
「もちろん、イルカの噂ですよ。結構有名な話なんですけどね。イルカが受付している時、イルカの列に結構人が並ぶじゃないですか。その理由は何でしょう?」
質問形式のそれに面倒だなと思いつつ、自信を持って答えた。
「そんなの、仕事が早いからに決まってるでショ」
何を言っているんだと、顔を歪ませれば、ゲンマはどこかおもしろがる気配を出して、俺を見た。
「そりゃ、そういう奴らもいますけどね。今回の答えは、験担ぎです」
「ゲンかつぎ? 何、ソレ」
聞き慣れない言葉に顔を歪ませれば、ライドウが驚いた声をあげた。
「カカシさん、験担ぎしないんですか? 無事任務が成功するように、出入り口という出入り口を右足から入るとか、超高ランクに成功した忍びの持ち物を少しばかり譲ってもらって、肌身離さず持っておくとか、しません?」
尋ねられて、首を振る。
任務なり、私生活なり、成功したいならば、事前の情報収集を欠かさないことと、己の力をたゆまなく研鑽すること以外ない。多少の運は関係するだろうが、それは瑣末な問題に過ぎない。
そんな不確かなものを当てにしているのかと、呆れた視線を向ければ、ライドウは「え?! 皆するでしょ?!」と騒ぎ出した。
「まぁ、ライドウが言ったやつは、自己暗示程度のもんですけど、イルカは別格なんすよ。カカシさんも耳にしたことがあるんじゃないですかね。『幸運の笑顔』だとか、『奇跡の微笑み』だ、とか何とか」
「あー、まぁ、聞いたこともないこともない」
「曖昧ですね」と苦笑しつつ、ゲンマは続ける。
「イルカがそう呼ばれるようになったのも、イルカが出た任務で、負傷者はそこそこ出ますけど、死者が一人も出たことないからです」
「……はぁ?」
あり得ない言葉に、聞き返す。
担いでいるんじゃないかと疑う俺に、ゲンマはなおも言った。
「いや、マジですって。今度、イルカの任務記録見てみたらいいですよ。マジで、死者が出ていませんから」
しばらく考えて、黙っている面々に視線を向ける。
周りは特に否定することもなく、頷いていた。
ゲンマの話を詳しく聞くと、イルカと任務を共にした忍びに直接話を聞いたらしい。
そいつ曰く、「よく分からないが、あいつといると運が向く」だそうだ。
火薬を使う任務時に、土砂降りの雨だったのが急に晴れ渡ったり、反対に煌煌とした満月の中、城内に潜入せねばならなくなった時、にわかに雲が現れ、月を覆い隠したり、敵に追われ逃げ場のない洞穴に誘導されたら、突然地面が崩れて地下水脈に落ち、命だけは助かったなど、そんなまさかという事態に行き当たるらしい。
本人は、偶然だと笑って済ませているらしいが、あれが偶然だったら、俺は火影になっていると、万年中忍の何某が漏らすほどに、イルカ先生は何かを持っているようだ。
ここぞという時に幸運をわんさか引き寄せる、イルカ先生のよく分からない力を目の当たりにした者たちが、験担ぎにイルカ先生の元で受付をするようになったのが事の発端で、そんな理由でイルカ先生の列は長い、ということになるらしい。
「ふぅーん。そうなの」
「……反応、悪いですねぇ」
へにょっと眉を寄せたゲンマに、仕方ないだろうと肩を竦める。
「そんなの実際体験しないと何とも言えないじゃない。ただでさえ、俺はそういうの疑ってんのに」
色良い反応してあげられなくてごめんねと、軽口を叩こうとして、紅が何言ってんのと声をあげた。
「は?」
思わぬところからの反応に顔を向ければ、紅は平然とした顔で言った。
「あんた、イルカ先生の奇跡体験経験者よ」
「俺が?」
俺がイルカ先生と任務に言ったのは、初めて出会った時の、一回限りだ。
あの任務ではイルカ先生はいたけど、そんなの関係なく死者は大量に出た。そのことからしてゲンマが言っていることは矛盾しているんだけどと頭の片隅で考えながら、ひとまず紅の意見を聞くことにする。
「あんた、世を儚んだか知らないけど、無茶な任務ばっかりやって、とうとうヘマして帰れなくなったじゃない」
身も蓋もない言葉に、素直に頷けない。俺にも、俺なりの深刻な理由があったっていうのに、無神経な婆だ。
「……あんた、今、失礼なことを考えた?」
ギラリと睨みつけられ、いえいえと首を振る。妖怪サトリ婆は、健在だった。
「あのね。あんた、そのときの任務で、凪の国に行ってたんでしょ? この木の葉の里から凪の国まで、片道何日かかると思ってんの?」
紅に言われて、あ、と思う。
「五日はかかるわよねー。一応、どこのルートを通るかは分かるけど、その間、森四つ通るわね。しかも、」
ちらりとアンコの目がこちらを見る。
「そのうち、木の葉側から数えて二つ目の森は、帰らずの森って言われる、曰くつきのバカでかい森よね」
「そうそう。アスマから聞いたけど、あんた、その帰らずの森でくたばってたんでしょ?」
蘇ってくる記憶に、言われてみれば、そうだなぁと思う。
帰らずの森は、その名の通り、一度入ると帰れなくなる森で有名だ。
景色が同じで、どういう理由か分からないが、強力な磁場があの辺り一体覆っているせいで、方位磁石は役に立たず、人の感覚も少しずつずれていく森のため、大抵、その森を通る時は、各里で同郷の者だけが分かるような目印を記し、専用の道を作っていた。
そこで襲われた俺は、戦闘中に木の葉の経路からは外れ、自分でもよく分からない場所にいたことを思い出した。
「……よく、見つけたね」
鼓動が少し早まる。
もしかして、とんでもなく危ないところだったんじゃないかと振り返っていれば、アスマが思い出したように笑った。
「帰らずの森に入ってからな。イルカが木の上から足を滑らせた上に、崖からも落ちやがった。カカシを探す前に、イルカを探す羽目になってるところで、イルカの呼び笛でお前らを見つけることが出来たんだよ」
「あり得ねぇだろ」とおかしげに笑うアスマに、ぽかんと口が開く。
現れたイルカ先生が泥まみれだったのは、本当に落ちたせいなのか。
「ふ、ふ、ふ。甘いですよ、カカシさん。まだ奇跡体験は続くんです。カカシさんがあの状態で立っていたら、即死だったそうですよ」
「……は?」
ゲンマの言葉に、間の抜けた声しか出せない。
「カカシさんのお見舞いに行った時、聞いたんです。カカシさん、骨も折れていたらしくて、折れた骨が大動脈の手前まで来ていたんですって。無理に動いたら刺さって死んでただろうって話ですよ。先生がよく無事でいられたもんだって、感心してました」
「そうだなァ。カカシの奴を運ぶ時、結構難所もあって乱暴に動かしちまったが、よく無事でいられたな」
ははははと、アスマとゲンマのお気楽な笑い声に、体が固まる。
遅れて、背筋を這った悪寒に、思わず体をさすってしまった。
あのとき、立ちあがろうとした俺をイルカ先生が怒鳴り、立ち損ねた。あと数秒でも遅かったら、俺の命はなかったのか。
「お前らなー!!」
笑い過ぎだと食ってかかれば、いいじゃねぇかとアスマはなおも笑った。
「馬鹿は死なねぇと治らないだろ? そんだけ死に近いとこにいたなら、死んだも同然だ。怪我の功名ってやつだな」
良かったなと屈託なく言われ、言葉に詰まる。
アスマとの付き合いは、長い。
そのアスマが良かったと言うなら、たぶん今の俺は間違っていないのだろう。
「……まぁね」
小さく肯定し、さてとと腰を上げる。
そろそろイルカ先生の受付が終わる頃合いだ。
「じゃ、俺、行くよ」
振り返って手を振れば、おうとやる気のない返事と、おざなりな返事が返ってきた。
「イルカを困らせるんじゃねぇぞ、駄猫」
待機所を出る直前に、背中に声が掛かる。
振り返れば、満足げな顔でこちらを見詰めるアスマの顔が飛び込んできて、少々ばつの悪い思いに駆られた。
この髭は、一体どこまで知っているんだろうか。
「――うっさい、髭。言われなくても、精一杯努力するってーの」
精一杯かと笑ったアスマに、そうだよとぶっきらぼうに返し、照れ臭くなって、逃げるように待機所を出た。
まぁ、アスマに心配掛けたりなんだりしたかもしれない。
イルカ先生が、随分と世話になったから、今度アスマ先生にごちそうしたいと言っていたこともあるし、ついでに俺からも労ってやるのも、ありだろう。
切り悪いですが、次でラストです!!