ずっと今日も幸せ 3

「明日の晩飯は秋刀魚の塩焼きにしましょう」と、満面の笑みを浮かべた一本傷を思い出しながら、受付所のドアを開けば、人影に隠れてひょこひょこと動く黒い尻尾が見えた。
人影が途切れた瞬間、黒い瞳がこちらを向く。手を振ってやれば、浅黒の肌を微かに赤らめ、慌てるように隣の男に向かって口早に何かを告げている。
そんなに急がなくても逃げないのにねぇ。
早くこちらに来ようとする、あまりに必死な様子に笑いが零れ出る。



「お待たせしました!」
引継ぎを終え、会えて嬉しいと隠しもせずに駆け寄ってくる様が、大好きなご主人に会えた子犬のようで、少し可愛いなと思ってしまう。ごつい男に可愛いも何もないのだが。
「今日は、秋刀魚を食べさせてくれるんですよね?」
帰途につきながら、にこにこと笑顔を向けるイルカ先生に尋ねれば、何度も頷いた。その度に黒い尻尾がぴょんぴょん動き、元気のいい犬を見ているみたいで、心和む。
「ええ、ちょっと時期外れですけど、味に問題はありませんよ。秋刀魚と、ほうれん草のお浸しと、あと味噌汁を」
「ナスがいいです!」
遮るように言った言葉に、イルカ先生は一瞬目を見開いた後、破顔した。
「カカシ先生、本当にナスの味噌汁好きですね。昨日も、一昨日も、というより、ここ二週間ずっとナスの味噌汁でしたよ」
「え…」
イルカ先生の発言に、素で驚いた。
イルカ先生に告白されてから、二週間経った訳だが、オレはずっとイルカ先生宅へ入り浸っていたことに、今、気がついた。
「…そう、でしたっけ?」
足繁く通う自分を認識し、冷や汗が出る。今までこんなことは無かった。体の相性が良かったクノイチとだって、一、二度寝たらサヨナラしていたが、無意識に通い詰めるなんて。しかも、このむさい男の部屋なんかに。
嘘だろ、勘弁してくれよ。枯れるのは早すぎると視線を向ければ、イルカ先生は一人で嬉しそうに笑っている。
「まぁ、好きなもんは好きだから仕方ないですよね。俺、温泉が好きで、暇があれば近場の湯にしょっちゅう行くんですけど、飽きませんから」
フォローしてくれているのか、自分の好きな物を単純に言っているのか、いまいちよく分からないが、イルカ先生は嬉しそうに喋る。



「温泉、好きなんですか。ここらで言うと、どこがお勧めで?」
温泉なんて年寄り臭いね〜と思う反面、イルカ先生が喜びそうな話題を選ぶ自分がいる。
思ったとおり、イルカ先生は瞳を輝かせて、どこそこの温泉が良いと喋り始めた。ロケーションから効能、秘湯と呼ばれる温泉では動物も入ってくるのだと、顔を紅潮させて温泉最高と言外に叫ぶ姿に、対して興味のなかった自分でさえ一度入ってみたいと思わせるから不思議だ。
「じゃ、今度、一緒に行きましょうよ。先生の一番お勧めする温泉に入ってみたいです」
「え…」
何の気なしに言った誘い文句に、今まで笑っていた先生の顔が凍った。まずい、この人オレに惚れてんだっけと今さらながらに思い出す。
気まずくなるのが嫌で、言い訳をしようとすれば、イルカ先生は少し困った顔をオレに向けてきた。
「あぁー、せっかくのお誘いですけど、最近業務が立て込んでいて、お付き合いできそうにないんですよ。俺の一押し温泉を紹介しますから、誰か他の方と行ってください」
美肌効果を謳う温泉もありますから、女性ならきっと喜びますよと、付け加えた言葉に眉根が寄る。
「…オレは、先生と行きたいんです。他の人と行って何が楽しいんですか」
オレのこと好きなくせに、他の人を誘えだなんて、どういう神経してんだか。
不機嫌を隠さずに言えば、イルカ先生は変な笑みを顔に張り付けた。頬は緊張し、眉根は寄り、ぶざまなことこの上ない。好きなオレと一緒にいられるのに、どうしてそんな顔すんのさ。
「――えっと。ともかく、俺のお勧めするのはですね」
オレの思いに気づいた訳ではないだろうが、イルカ先生は普段通りの笑顔に戻り、温泉の話に戻った。
家に帰るまでイルカ先生はずっと喋り続けていた。オレは相槌さえ打たなかったのに、イルカ先生はそれでも喋っていた。



******



イルカ先生の家で腹を満たし、また明日と別れた。
あれほど胸くそ悪かった気分も、夕飯で一気に機嫌が直るのだから、オレも安い男だと夜の町を歩きながら一人笑う。
しかし、今日の秋刀魚は旨かった。秋刀魚の脂といい、塩加減といい、米があれほど美味く思えたのは、ずいぶん久しぶりだ。
こりゃ、秋が楽しみだーね。
旬である秋の秋刀魚ならば、今日以上に美味いのだろう。
情報としての、季節に気を配ることはあったが、季節に沿った楽しみを意識したのは、これが初めてかもしれない。
秋の秋刀魚だって、料亭に行ったとき、勧めるから頼むような受動的なもので、自分から楽しみに待つなんてなかった。
里に慣れてきたってことなのかねぇ。
居心地が悪いはずのここは、最近ではそう思うことが少なくなっている。戻るとばかり言っていたここに、帰るという言葉を使い始めたのは、それは――。



「カカシぃ」
甘ったるい声に呼ばれ、足を止めた。
歓楽街であるここは、赤いネオンの下、多くの人通りが行き交っている。酔漢たちがたむろする通りに混じって、昼間の黒い髪の女がこちらに駆けてくる姿が見えた。
ため息混じりに後ろ頭をかく。そういやー、約束してたんだっけ?
肩を上下させながらオレの前に立ち、女は笑う。笑みの形に大きく伸びる真っ赤な唇が、存在を声高に主張してくる。
「待ちきれなくて、迎えにきちゃった」
軽く首を曲げ、上目遣いに視線を送られる。そのまま女はオレの腕に自分のそれを絡ませ、しなだれかかってきた。
「ねぇ、カカシ。早く私の部屋に行こう?」
胸をこれみよがしに押し当て、吐息のように囁いてくる。瞳は潤み、物欲しそうな光が瞬いていた。
会った途端、欲情する女に、食傷気味になる。本当にそれだけしか頭にない女ってのは、興醒めだーよね。
がりがりと頭を掻くオレの腕を引っ張り、自分の部屋の道へと案内しようとする。
昼間はいいなと思った肢体は柔らかいだけの固まりで、艶のある黒髪は、赤い灯りの下、淀んだ川面にも似て歪んで見えた。
一度粗が見えると、そこでお終いだ。こりゃ、無理だーね。
顔を一撫でして、小さく息を吐く。手っとり早くお帰りしてもらうには……これだな。
急かす女の腕に構わず、足を止める。不満げな声をあげた女に、指を向けた。
「せっかくだから、ちょっと飲みたいんだけど」
「そんな、お酒なら私の部屋にもー」
難色を示す女の腰を抱き、そっと囁く。
「綺麗な女を見せびらかせたい気持ち、分かんない?」
「…カカシ」
ぽっと頬を赤らめ、従順に寄り添ってくる女に、内心で舌を出す。飲ますだけ飲ませて、とっとと潰すか。
今更だが、あのとき了承するのではなかったと悔やむ。
居酒屋の暖簾をくぐる直前、見知った気配に足を止めた。向こうもオレの気配に気づいたのか、くぐる寸前で足を止め、お互い顔を合わせる形になった。



「……胸くそ悪い…」
言葉通り、心底思っている声音で紅が言った。紅はしこたま飲んだらしく赤い顔を晒し、脇をアスマに抱えられている。
「面倒くせぇとこで会うな」
何でここに来やがったと非難めいた言葉を向けられ、眉根が寄る。どこに行こうが、オレの勝手だろう。
煙草をくゆらせたアスマの視線がオレの左腕に向く。女は勝ち誇るように笑みを顔に張り付かせ、同じくアスマの左腕に支えられている紅に挑戦的な眼差しを送っていた。
「胸くそ悪さ十倍だわ」と呟き、紅は支えられているアスマに視線を向け、宣言した。
「せっかくの酒が台無し。こうなりゃ、直接イルカの家に行くわよッ」
「…まだ飲むのかよ」
めんどくせぇと顔へ滲ませ、それでも付き合う気でいるアスマはお人好しを通り越して、アホに違いない。
「ちょっと、なんでお前たちがイルカ先生とこに行くのよ。先生、お疲れなんだから、休ませてあげなさいよね」
早く店に入ろうと腕を引っ張る女を待たせ、釘を刺す。こいつら遠慮というものを知らないからな。先生はアカデミーで朝が早いんだ。オレだって遠慮してやっているのに。
迷惑かけんじゃないよと視線で忠告すれば、紅が鼻で笑った。
「ハッ、散々っぱら、迷惑かけてるアンタに言われたくないわ。その上、こんなバカ女連れ回して…。決めた、イルカには私がいい男を紹介してやる。アンタみたいなロクデナシじゃなくてねッ」
脇を支えてくれていたアスマから身を離し、紅は胸を張る。「面倒くせぇ」と呟くアスマに目を向け、オレは軽く笑う。
「へぇー。例えば、隣にいるアスマみたいな?」
口ではどうとでも言うが、紅がアスマを気にかけているのは間違いない。
あんた、できるの? と水を差し向けるオレに、紅は心底、オレを見下して言った。
「そうね、それもいいんじゃない? アンタとアスマ。比べるまでもなく、アスマの方がいい男だもの」
アスマの首に腕を回し、引き寄せる紅。
オレでもぞっとするほどの色気を眼差しに込め、アスマを見詰めた後、オレの腕にぶら下がる女へと視線を移した。
「趣味悪いのね」
紅の言葉に、引っ付いていた女の体温が上昇したのがわかった。膨れ上がる怒気に、アスマではないが面倒だとため息を吐く。
この女も上忍だ。こんなところで紅とじゃれ合いでもされたら、それなりの被害は出る。
「ちっ、面倒くせぇなぁ。ほら、さっさと行くぞ」
「入るよ」
にらみ合いに発展している女たちの腕を掴み、同時にアスマと動く。気が合うねと視線を向ければ、アスマは苦虫を噛み潰したような顔でオレを責めてくる。
『テメェが元凶だろうが』
声のない台詞に、肩を竦めた。女と一緒に店内へ入った時、後ろから紅の声が響く。



「アンタ、本当にイルカがアスマと出来ちゃってもいいのね?」
「は? なに言っ」
振り返って発そうとした言葉は、店内の喧噪に混じって消える。顔を向けたそこには、もう二人の姿はなかった。
煙の名残をみて、瞬身の術を使ったことを知った。里中で術を使うのは、あまり誉められたことではない。だが、それだけイルカ先生の元に急いでいたということであり。
「カカシ、いつまで突っ立ってんのよ。ほら、席、空いたから行きましょ」
あれだけ嫌がっていたのに、率先して席につく女に呆れる。しかも、女が選んだ席は、出入り口から否が応でも目につくカウンター席だ。
覆面忍者にこんな席勧めてくるとはいい度胸だよ。本当ーに。
口布の下で、舌打ちをする。女に対する苛立ちが収まらない。
女はオレの気配に気づきもせず、お気楽な笑顔をまき散らしながら酒を勧めた。





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カカシ先生、悶々の巻き。