ずっと今日も幸せ 9

「――もう、戻れないよ。全部、真黒だ」
歪む視界には何も映らない。いつしか闇は全て覆い、オレを飲み込んでいた。逃げる場所も、隠れる場所も何処にもありはしない。肥大化した闇は、オレの外にも溢れ出し、いずれ全てを飲み込む。
ようやく触れるようになった光も、美しいと感じた光も、守りたいと切に願った光も、いずれ飲み込んでいくのだろう。
「カカシ?」
上から息を飲む声が聞こえた。オレの名を呼ばれた。でも、望む声ではない。
当たり前か。失ったものは二度と目の前に現れない。
せめてと、思う。
深い絶望の中、手の中にある硬質な切っ先を首に当てた。
忍びも一般人も。女も子供も容赦なく刈り取ったコレでオレの命を終わらせることで、少しはその人たちの慰めになればいい。
無理かと笑う。己の穢れた命で慰められる魂は、ありはしないだろう。
結局、オレを求めて受け入れてくれたのは、先生だけだった。



「……あぁ、違う、か」
細く、息を吐いた。
逆だ。オレが先生しかいらないと思っている。懐かしく、焦がれた光よりも、あの朴訥で野暮ったい男を何より求めていた。
同じところに行ったら、また側に置いてくれるかな。
先生の顔を最後に思い浮かべ、横に引いた。



「この、大バカッッ」
切り裂く寸前、顔を殴られた。続いて、右手に持っていたクナイを遠くに投げられ、胸へ馬乗りに乗り上げられた。
「こんのド最低の鈍感唐変朴男!! いい加減にしなさいよッ」
女が、紅が、拳を振るう。右に左に。それを避けることもせず、無抵抗に受けながら、紅の言葉を聞いた。
「どうして、自分の気持ちが分からないのよッ。バカッ。答えは目の前にあったのに、アンタが素直になるだけで、イルカも、アンタも苦しむことはなかったのにッ」
「大バカ」と、震える拳が最後に、力なくオレの頬を打った。



「――もう止せ。気は済んだだろ」
アスマに腕を掴まれ、紅が身を起こした拍子に、滴が飛んだ。
「まだよ、この怒りはこんなんじゃ治まりきらないんだからッッ」
鼻を啜ってぐずぐずと文句を言う紅の肩を叩き、アスマが覗きこむ。
「やっと目ェ覚めたみてーだな。……お前に朗報だ。イルカが死んだのはお前が見た幻術。里に帰りゃ、ぴんぴんしてガキどの相手をしてらぁ」
任務完了とばかりに、ポーチから煙草を出し、髭男は唇に咥えた。
「……バカみたい」
ヤニ臭い煙を間近で嗅ぎながら、腕で目を覆った。あのときの衝動がまだ体に残っている。
「はっ、鬼の目にも涙か?」
軽口を叩くアスマを睨む気力さえなかった。
「…煙が目に染みただけ」
唸るように言った言葉をアスマは笑い、それ以上何も言ってこなかった。
仰向けに寝るオレの傍らに、アスマが腰を下ろす。
しばらく無言が続く。声が、出なかった。
やがて泣き止んだ紅が草を踏みしめ、オレに向かって皮肉げに笑った。



「あーぁ、とんだ目に遭った。…アンタ、自覚したなら言うことは言いなさいよ。ま、今更言ったって手遅れかもしれないけどね」
アスマの隣に勢いよく座り込んだ紅の言に、バカかと呟く。
「…全ては幻術が言わせたまやか――?!」
最後まで言い切る前に、無抵抗な頭をしこたま叩かれた。何すると身を起こしたオレに、紅は額に筋を張りつかせ、低い声でアスマに言った。
「アスマ、縛るわよ」
「あ? おお」
幻術からようやく戻ったオレの体は、体感と意識の間で少しばかり齟齬が生じている。いつもと同様の動きが出来ず、抵抗する間もなく縛られてしまった。
写輪眼を額当てで隠し、印が結べないように何度も手を確認され、縄抜けもできないように、実戦さながらに縛られた。いや、痛みが絶えず襲うことからして、それ以上の縛め具合だ。
「この、うわばみ、熊ッッ!! お前ら、何考えてやがんだッッ」
叫ぶオレを見下ろし、紅は怒りの表情を崩さず、切りこんできた。
「それはこっちの台詞よ。この期に及んで、まだ認めないつもりなの?」
何がだと眉根を寄せれば、決まっていると背中を踏まれた。
「あんたがイルカのことを大事に思っていることよ! あんたがイルカのことをそういう意味で愛しちゃっているっていうことよッッ」
気炎を上げて叫んだ紅の言葉に、唖然とした。続いて込み上げたのは、押さえきれない笑いの衝動だ。



「何の冗談よ。オレがイルカ先生のことを愛しちゃってるって? 何見て、そんなこというのよ。全く全然わかんなーいね」
馬鹿馬鹿しくて大笑いしてやれば、妙に冷めた気配がオレを見詰めた。それが鬱陶しくて視線を上げれば、心底呆れた顔が出迎える。
思いもよらない反応に食ってかかろうとすれば、煙を吐きながら、アスマがオレを担いだ。
「…時間が勿体ねぇ。帰りながら話すぞ」
「賛成。ここまで鈍いと病気ね。病気」
「はぁ? お前ら、バカじゃないの。帰るなら、下ろせってのッ」
暴れてみるが縄はびくともせず、アスマは予告もなく飛んだ。
「ふざけんじゃないよッ。こんな情けない姿見せられる訳ないでショーがッ。解けッッ」
アスマの肩で暴れていれば、うるさいと紅から踵落としを食らった。容赦ないそれは目から火花を飛び散らせる。
歯噛みして唸るオレに、アスマはしょうもねぇとぼやく。
「オメェにとってイルカは大事な存在だってのには気付いたんだろ? そこは否定しなかったしな」
横目で確認してくる、アスマの細かい性格が忌々しい。答えずにいれば、再び紅の踵落としが直撃した。
「ッッ!! 紅、お前なッ」
いい加減にしろと睨めば、紅は真面目な顔でオレを見据えた。
「それが原因で私たちを殺そうとした癖に。迷惑かけられた分、アンタに聞く権利はあるわ」
よりにもよって雷切りを私にぶっ放そうとするなんてと、呪われるよりも重い怨嗟の視線を受け、憤りの言葉を飲み込んだ。代わりに、好きは好きでも違うとオレは唸った。
「先生の存在は好ましいと思ってる。けど、それだけだ。ましてや、男とどうこうなれる訳ないじゃないッ」
まだ言うかと、鬼の形相を見せた紅を押し止め、アスマは面倒くせぇと嘯いた。



「じゃ、聞くがよ。オメェはイルカをどうしたい? 側にいるだけでいいのか?」
それは勿論と頷く。オレは先生の側にいられればそれでいい。それ以上は望まない。
「カカシ。肝心なことを忘れてるんじゃねぇか?」
オレの視線を受け、アスマは哀れなものを見るような目でオレを見た。いけ好かない態度だーね。
憮然と見詰めていれば、アスマは言った。
「イルカにはイルカの生き方がある。いつまでもオメェに構ってる暇はねぇ。いずれイルカも嫁さんをもらって幸せな家庭を作るだろうよ。そんとき、オメェどうすんだ。夫婦生活に入り込んで、そのとぼけた顔を晒し続けるつもりか?」
バカなと笑ってやりたかった。先生はオレを――。
「…カカシ。『先生はオレのことが好きなんだーよ』なんてふざけたこと抜かしたら、もう一回食らわせるわよ」
出かけた言葉を飲み込む。事実なのに。紅に視線を向ければ、鼻で盛大に笑われた。
「はっ。ちゃんちゃらおかしいわね。アンタ、バカ通り越して滑稽だわ。いつまでもイルカがアンタのことを好きでいる保証はどこにあんのよ。これから先、イルカが可愛い女の子に恋することだってあるのよ? 男心は秋の空より移ろいやすいんだから」
「…女心だろ?」と突っ込むアスマを無視し、紅はオレから視線を外さなかった。言えることがあるなら言ってみろと言外に語る視線に、オレは言葉を無くす。
先生がオレ以外に惚れる? オレを見る度笑っていた先生が、他の奴に同じ顔を向ける?
途端に胃が重くなる。薄暗い感情がひたりと忍びよる。



「はい、それ。アンタ、誰かがイルカに必要以上に近づくと、そのおもっ苦しい殺気出すのよね。どうしてそういうことになるのか、アンタ、分かってる?」
これしきのことで殺気と呼ばれては堪らない。単に胃の調子が悪いだけだと口に出す前に、紅は口端を上げた。
「独占欲。アンタは、イルカが自分ではない誰かを見詰めることが許せない。イルカに近づく輩も許せない。アンタが感じているのは、独占欲よ。イルカを独り占めしたいと望んでいる」
指先を突き付けられ、一瞬言葉を失う。負けじと紅の突拍子のない言葉に反論しようとすれば、アスマに先を越された。
「おまけに、嫉妬も絡んでやがるしよォ。イルカがオメェのことを『はたけ上忍』て呼び出してから、所構わず殺気振りまくようになったよなぁ? 終いにゃ、イルカに懐くナルトにも牽制しやがって、みっともねぇ。素直に認めちまえ」
ナルトが先生の家に行くと聞いて、なかった任務を無理やり入れた。らしくない行動ではあった。でも――。



「オレ、男だし、ホモじゃないし…」
男同士で一体どうすればいい? 先生とオレは結婚出来るわけでもなく、確かな形を築き上げるには友人という位置しかないではないか。
どちらかが女だったら良かった。そうすれば何にも囚われず、先生の一番側にいられた。
「オメェよ…。本当にアホだろう」
「というより、何、その頭の悪さ」
呆れるを通り越して、無表情になった二人の視線が何故か痛く感じる。
仕方ないじゃないか、どうしろっていうんだ。
一番悔しがっているのはオレだと二人を睨みつければ、同時にため息を吐かれた。紅に至っては頭痛がしてきたと頭を押さえる始末だ。
「カカシ。オメェ、変なとこで常識ぶるんじゃねぇよ」
「……。『男なら、大事にしたい女を自分の一番側において、一生幸せにしてあげなきゃダメだ』って、先生が言った」
「ここで言う先生とやらは四代目か?」と独り言を言うアスマを尻目に、紅は頬を引きつらせた。
「一番、肝心なことが分かってないようね、カカシ。あんたの尊敬する四代目が言いたかったことは、大事にしたいと思った人を幸せにしなさいってことよッ。性別なんて些細なことよ! いい? アンタが、今、一番誰が大事なのか。誰が一番側にいて欲しいか。そして、一番幸せにしてあげたいのは誰なのか言ってみなさいよッ」
決まりきったことを言う紅に、眉間に皺が寄る。
「…イルカ先生」
「だったら簡単でしょ! なんで、そこでアンタは納得いかない顔してんの! 答えは出ているじゃない。何、二の足踏んでる訳!!」
こうなったら何もかも話せ、ぶちまけろと吠える紅に、オレは自棄になって叫んだ。
ずっと思っていたこと。先生に確認する勇気が持てなくて、ずっと気になっていたことをここでぶちまけた。



「だって先生ってば、オレのこと好きって言う癖に、女の裸見てにやけてたんだもんッッ!! オレが脱いだ時はそんな顔しなかった癖にッ」
思い出すのも腹ただしい。
先生と距離が開いても、オレは諦めきれずに先生の後をついて回っていた。
その日も受付が終わる頃を狙い、先生に会いに行った。そこでオレは見てしまったのだ。
同僚に小声で呼ばれた先生が、のこのこついて行った先で、にやけ顔の同僚から「これどうだ」と差し出された写真集を見て、目を輝かせた。そして声高に食い付くばかりか、同僚の勧めるがままに捲った箇所を見て、とんだやに下がった顔を晒したのだ。
上忍的スピードで垣間見た写真は、子供のような顔をした女が、豊満な胸を自分の腕で寄せ、カメラに向かって挑戦的なポーズで誘惑しているものだった。
一応、水着を着用していたが、はみ出ている部分がやたら多いそれは、裸として認定していいものだ。
真っ赤な顔をしてごくりと生唾を飲み込み、先生が同僚と肩をくっつけてはしゃぎだしたのを機に、オレはその写真集を一瞬にして燃やしてやった。
騒ぐ二人を前に、オレは素知らぬ顔で余所余所しい先生を追い払い、残った同僚とやらに釘を差したことは言うまでもない。
『先生に、変なもの見せないでくれる?』
イロリと名乗った男は、すいませんと米搗きバッタのように謝り、それ以後先生に変なものを見せることはなくなった。
全く、とんだことをしてくれる奴がいたものだ。先生はオレに惚れているんだから、余計な真似をしなくてもいいのに。
先生に再びちょっかいかけやがったら、写輪眼使って不能にしてやると心意気も新たに決意する。



「……紅。オメェ、息しているか?」
心配するというより、窺う様子のアスマの声音に、何だと斜め後ろに視線を飛ばす。
するとそこには、顔を真っ赤にして歯ぎしりを鳴らす紅の姿があった。はぁ? あの女、頭大丈夫なのかーね?
「紅って、今日ブルーデ―なの?」
怒り心頭の紅の様子に、こそりとアスマに尋ねれば、紅は両目に電灯でも装着しているかのように瞳をぎらつかせた。
「カーカーシィィィ」
怒りの頂点を越したのか、紅から荒々しいチャクラが迸り、長い髪が逆立つ。
ばきぼきと指を鳴らし、オレを引き裂く素振りを見せる女は、素直に関わり合いたくないと思う。
綺麗に塗られた赤い唇と、爪のマニュキアがいい感じで、紅の化け物具合を引き立たせていた。
「…オレは知らねぇからな」
ぼそりと無関係を装うアスマの友とも思えぬ言動に、オレはショックを隠しきれない。
「ちょっと髭ッ! アレは、お前の女なんだから、人様に迷惑かけないようにちゃんと手綱握っときなさいよねッ」
「だ、誰が、オレの女だぁ?!」
素っ頓狂な声をあげ、咥えた煙草がぽろりと落ちる。赤い光が下に流れている小川に吸い込まれ消えた。あぁー、やだやだ。髭熊が照れたって薄気味悪いだけだっつぅーの。
「てめっ、カカシ」と照れ隠しのせいか、熊までも怒りの形相でオレを睨んでくる。似たもの夫婦って言葉は、こいつらのためにあるんだろーね。
しばし、熊の純情ぶりを堪能する羽目になったが、それは意外にも早く打ち切られた。



「カカシ…」
地獄の底を這う声がオレを呼ぶ。
げ。
「今更純情ぶるんじゃないわよ、この種馬ァ」
がたがた震える紅の後ろの木々はざわめき、木の葉は舞い、嵐もかくやという勢いだ。
碌でもない予感を覚え、素早く全身にチャクラを行き渡せる。特に頭頂部は念入りに、二重三重にも覆い終えたところで、それは来た。
ぎらりと紅の目が光り、一瞬にしてオレの目前に現れる。脚線美を誇る足ではなく、真っ赤な爪を手の平に巻き込んだその左拳を握りしめて。
「初めて付き合った彼と初ベッドインしたどこぞの女学生かぁ、テメェはぁぁ!!」
「っっ?!」
振り切った拳は、狙い過たずオレの右目に直撃した。普段片目しか晒していない奴の利き目を狙うって、それってどうなのよ?
チャクラで覆っていなければ、骨折間違いなしの衝撃に声もなく震えていれば、紅は止めとばかりに踵落としを決めてきた。



「おいおいおい、もう止せ。これでも里の稼ぎ頭だぞ?」
紅を止めるなら、その前に避けるなりなんなりしてオレを守れッ。
髭の間抜けと、痛みを紛らわすために胸の内で大声で叫ぶ。移動する振動が頭と目に響く。クソッ、どうしてオレがッッ。
「あーぁ、本当、アスマがいなかったら、ぶち殺してやってたわッ。あー、何コイツ。何でこんなのがいるの。何でそんな奴にイルカは惚れんの!?」
ぶりぶり怒りの咆哮を上げ、前を先行した紅が叫ぶ。
「立派にあんたらはバカップルよ! どうしたって、お互いしか見えてないじゃない。その癖、カカシの頓馬は今更、『オレ、男なのに、先生は本当にオレのことが好きなの?』って不安になってるし。アンタ、アホじゃない?」
痛みを堪えて視線を上げる。紅はひたすら前に走りながら、一つもぶれない声で言いきった。
「アンタと初めて会ったイルカは何て言った? どう見ても女には見えない、胡散臭い格好のアンタを見て、イルカはプロポーズしたんでしょ。それが答えでしょうがッ」
ことんと小さな音を立て、胸のつかえが取れた気がした。
黙り込むオレに、紅は忌々しいとばかりに舌打ちを打つ。
「結局テメェは、イルカに愛されているテメェを信じきれなかったていうことだな」
アホくせェと呟いたアスマの言葉に、反論することができなかった。



俯いた視界から木々が消え、整備された道なりへと変わる。里の大門はもうすぐそこだ。
遠回りして、やっと見えた自分の気持ち。
三代目が言ったことはこれだったのかと、全てを見透かしていただろう、あのときの狸爺の言動が今では面映ゆい。
あの闇が消えない限り、自分を信じることは到底無理だ。だが、先生が見ていたオレを信じたいと思う自分が、ここにいる。
先生の側にいたい。
会って、オレの気持ちを伝えたい。
先生から離れて、日増しに渦巻いていた鬱屈は、言葉にすればこんなにも簡単なことだった。



「…イルカのとこに行くわよ」
報告書は私らで出しておくと、不機嫌な声で呟いた紅の言葉に、頷くことしかできなかった。
里の大門が開かれた。
先生が待つ里に、今、帰ってきた。
先生、オレはあんたに愛されたオレを信じてみるよ。







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紅先生の決め言葉…。今、思っても、もっといい表現があるのではないかと悶々します…。あぁ、キャッチコピー能力欲しい!!
そして、次でラストです。