レッスン 4



******


「『カカシさん』。俺を愛してるなら、そのままでいてください。そして、指先一つ動かさないで下さい」


にっこりと蕩けるような笑みを浮かべたイルカを前に、オレは知らず沸き上がる唾液を飲み下す。
愛しいイルカの言うことを全て聞いてやりたいと思うが、体中を駆け巡る衝動が強すぎてどうにも我慢できない。
「イルカ。でも、オレは」
「はい、動かない。そのまま、そのまま。動いたら、『カカシさん』のこと大嫌いになりますからね」
嘘でも言われたくない言葉を言われ、ぎゅっと胸に痛みが走る。悲しくなって思わず泣きそうになっていれば、気付いたイルカがオレの頭を優しく撫でてくれた。


「もう少しで終わりますから。終わったら、カカシさんからいっぱい愛してください」
イルカのお誘いに体が熱くなる。うまいこと操作されている現状に悔しさを感じながらも、イルカがオレを見つめる瞳に嘘偽りはないから、オレは今日もぐっと我慢する。
「……絶対だからね。嘘ついたら容赦しないよ」
ぼそりと呟けば、イルカの体が小刻みに揺れた。その振動を享受しながら、耳の穴を優しく掻く感触と頬に当たるイルカの温もりに身を任せた。


オレは今、イルカに耳かきをしてもらっている。今まで付き合っていた女たちには俺が率先してしていたため、こうしてされるのは初めてのことだった。
始めこそ、愛しいイルカの太ももの感触と近い距離に、情欲の方が抑えきれずに何度か押し倒そうとしたが、イルカの先手の言葉もありどうにか獣じみた情動は抑えることができた。
だが、まぁ、その解放も時間の問題だ。何たって、イルカはこれが終わったら、いっぱい愛してと言ったのだから。長い間、お預けを食らっていたが、とうとうイルカに触れることができる。
うきうきしながらその時を待っていれば、とうとうイルカの手が止まった。
そして、イルカは言う。


「はい、終わりました。『カカシ先生』、お疲れ様です」
イルカ先生の言葉にはたと我に返った。
ものすごく待ち望んでいたものを寸前で取り上げられたような、ひどい肩すかし感に襲われてしまう。
信じられない気持ちで、膝枕をしているイルカ先生を見上げれば、イルカ先生は何一つ悪いことをしたとは思ってはいない顔でどうしましたと問いかけてくるから、ひどく性質が悪い。
「……何でもないです。ありがとうございました」
他に言うこともなく、渋々と起き上がったオレに、イルカ先生は屈託なく笑った。


「はい、お粗末さまでした」
きらきらの笑顔を見せ、正しく任務を遂行しているイルカ先生。
そういう任務だし、イルカ先生の感情を思えば努力しているのだとも分かる。けれど、一言言わないと納得いかないものが芽生えているのも事実だ。
任務を初めて三日となるが、イルカ先生ときたら、さきほどのようなことばっかり仕掛けてくるのだ。
惚れ薬のせいでそうなっているとしても、望みを直前で取り上げられる鬱憤は着実に溜まっている。


「……ねぇ、これってさ。オレがただ弄ばれているだけじゃないの? 本当にこれで恋愛下手が治るの?」
うろんな目で告げれば、イルカ先生はきょとんとした顔で瞬きした後、肩を震わせて笑いだした。
始めこそ耐えるように我慢していた声は、段々と大きくなって終いには腹を抱えて笑い始めるものだから、気分がどんどん下降してくる。
何がおかしいのよと文句を言う前に、イルカ先生はにじみ出た涙を拭いながら口を開いた。
「実はこれって、恋愛中のカカシ先生の行動を真似してるだけなんですよ。今まで散々ご自身でやらかしてきたことを自覚されたようで何よりです」
ちょっと悪い顔で口端を上げるイルカ先生に、オレはぐうの音も出なくなる。というか、イルカ先生ったらそんな顔もするのね。
新鮮な気持ちになってじっとイルカ先生を見ていると、居心地が悪くなったのか、意地の悪い表情を一変させて慌てて付け足してきた。


「いや、被害者の方々に代わりちょっとした意趣返しも兼ねてますが、俺がこういうことするのも理由があるんですよ。本当です!」
おどおどとオレの顔色を窺い始めたことに、ちょっと胸がスッとした。散々やられっぱなしだから、少しくらいはいいよね。
「ふーん、どういうことなんですかねぇ? まぁ、オレはー火影さまからも異常だって言われるくらいの、恋愛音痴らしいですしぃー」
笑いたくなる頬を引き締め、拗ねた口調で視線をそらせば、イルカ先生は目をしきりにさまよわせながらほんの少しオレに近づき、顔をのぞき込んできた。
「そ、それを治すための任務ですから頑張りましょう! ね?」
「なんか、オレってろくでもないってイルカ先生に思われてるみたいだしー。あーぁ、イルカ先生だけはオレの味方してくれるって信じたのにぃ、もうホントがっか」
「味方です!!」
オレの言葉を遮り、イルカ先生は両肩を握りしめてきた。
「俺は、何があっても! あなたの不利益になることはしない!!」


距離を縮めてきたイルカ先生の気迫に飲まれ、からかうための言葉は消えてしまう。
こちらを射抜く黒い瞳は切実な色も混ざっていて、遅れてオレは思い出す。
イルカ先生はオレに惚れているのだ、と。


しまったと思うのと、イルカ先生が我に返ったのは同時で、示し合わせたようにお互い身を引いた。
イルカ先生があまりにも色を見せないから、直接言われたのにも関わらず気安い態度で接してしまう。
元から好ましい人物だと思っていたし、人付き合いの苦手なオレが自分から交流を図っていた人物だったこともあり、いざ胸の内を告げられてもうまく距離感が掴めない自分がいた。
途端に気まずくなる空気にどうしようかと頭を悩ませていると、オレの気持ちを察したのか、イルカ先生が小さく息を吐いた。
誘われるように顔を上げれば、イルカ先生はどこか諦めの滲んだ苦笑を浮かべていて、そのことに何故か胸が痛くなる。
ここで慰めるのは違う気がしたけど、イルカ先生のそんな顔を見るのは嫌で口を開こうとしたオレを制すように、イルカ先生は口を開いた。


「俺がカカシ先生曰く、弄んだ理由ですけども。事前調査でカカシ先生の元彼女たちとのやり取りをお聞きして、明らかにカカシ先生が甘え下手だったからです」
さっきのやり取りはなかったことにしたらしい。
気まずいのはお互い様だったが、それでも納得していないオレがいる。悶々とした何かをまた抱えながら、イルカ先生の望む方向へと無理矢理関心を寄せて、ふと気付く。
今、イルカ先生はなんと言った? 事前調査で、元彼女?
言葉がようやく頭に入って、血が上った。
焦り、困惑、怒り。
色々な感情が沸き上がってきて、今、オレの顔は真っ赤だろうと思う。
イルカ先生はオレの反応が意外だったのか、目を丸くして驚きながら曖昧に笑った。


「カカシ先生が顔真っ赤なのは、どれに反応してるんです?」
「ぜ、全部ですよ!! イルカ先生に何言ったのよ、あいつら!! ホント、もう最悪!!」
イルカ先生には知られたくなかった!!
任務とはいえ私生活が直結する問題に、プライバシーの配慮とかないわけ!? ただでさえ情けない任務内容だというのに、どれだけイルカ先生のオレに対する好感度下げる気よ!! あんの若作りババアめっ。
とんでもない任務を言い渡した五代目に恨み言を呟いていれば、イルカ先生は頭を掻きながら話を進めた。


「えっと、任務ですし、カカシ先生はそこまで気に病むことはないかと。えー、話は戻しますけど、カカシ先生は与えるばかりで、人からもらうことをされてないんですよね。たぶん、ここにカカシ先生が恋愛音痴である由縁が隠されている気がしてならないと俺は思っているわけです」
衝撃受けすぎて頭が痛くなってきたが、何とか精神的ダメージを端に寄せ、話に参加する。
「多少は尽くしますけど、言われるほど尽くした覚えはないですよ?」
恋愛など、どれだけ想い人に尽くすかではないのだろうか。
オレの発言はイルカ先生にとっては異常だったみたいで、ひきつった顔を見せられた。
何かを思い出したのか、寄せられた眉根を押し揉みながらイルカ先生は非常に重苦しい声で告げる。


「……あのですね、カカシ先生。恋人同士とはいえ、家の中では彼女を一歩も歩かせない、料理を一度もさせない、風呂でも自分の体を洗わせない、髪も乾かせない、全てが上げ膳据え膳、全てカカシ先生が行っているっていうのは、異常以外の何物でもありませんからね」
どこか怒りを感じさせる目で睨まれ、心臓がきゅっと縮まる。泣きたい気持ちになるは何故だ。
「え? だって自分の惚れた女だよ? 大事にしなくてどうすんの。些細なことでも全部オレの手で世話した……い、よ?」
言い訳のように繰り出した言葉は、イルカ先生の冷徹な眼差しに晒されて徐々に勢いがなくなる。
みんなそうじゃないのと一縷の希望を掛けて、もごもごと尋ねれば、イルカ先生の特大のため息が聞こえてきた。
え、そんなにおかしいこと??


「あり得ません。信じられません。呆れを通り越して絶望さえ感じます」
え、そんなに!? ちょっとオレの恋愛そこまでひどいの?!
否定されまくられ、内心凹む。五代目が全否定してきたときよりもショックがひどい。
雨に打たれながら不眠不休で敵を倒し、救援物資もなくチャクラも体力も底が今にも尽きそうなのに、嫌がらせのように新たな敵が追いかけてきた時の心持ちになりながら、イルカ先生の持論を拝聴する。
「カカシ先生は極端なんですよ。確かに彼女に尽くすのはいいことですよ。でも、物事には何事にも限度があるんです。それに、恋愛ですよ、恋愛! 一人で恋している訳でもないのに、何が哀しくて一人相撲取らなくちゃいけないんですか! 相手がいるんですから、お互いに尽くして思い合いましょうよっ」
拳を握り語りかけるイルカ先生に、首を傾げてしまう。
過去の大事だった彼女たちとの付き合いで、オレは相手に対して何かを求めていただろうか。答えは否だ。
そして、彼女たちから何かをしてもらいたかったか。答えは当然、否だ。


不意に見えた自分のありようにぞっとした。
自分で自分が理解できない。
オレは本当に恋愛をしていたのだろうか。これではまるでイルカ先生が言っているように一人相撲を取っているようだ。
相手がいるはずなのに、どうして一人で完結するような真似をしたのだ。
ただ誰かに尽くしたかった?
そんなまさか。忍びとして里に忠誠を尽くしているオレが、不特定な誰かのために働くほど目出度い頭はしていない。
だったらなんだ。忍びではなく、個人としての思いか。
全てのしがらみを脱ぎ捨てたその先にある何かへのーー。


「カカシ先生?」
思い耽るあまり、イルカ先生の声が聞こえてなかったようだ。
「ごめん、何?」
「聞いてなかったんですか? まぁ、いいでしょう。とにかく、俺の目的はこうです。アホみたいに彼女に尽くすカカシ先生の欲求の真反対に位置する甘えたいという心を肥大化させようと思っています」
「……は?」
今、とんでもないことを聞いたような気がした。
聞き間違いだという祈りを込めて、もう一度言ってくれと視線で促せば、イルカ先生は真剣な顔でこう宣った。
「カカシ先生が甘えたくて甘えたくてたまらないようにするため、甘えん坊レッスンを開始します!!」
どやぁと目を輝かせて、この任務の肝心要の方針発表にオレはうろたえる。


「え!? 本気? 正気なの、イルカ先生!!」
オレ、上忍で、泣く子も黙る元暗部で、昔はそれはもう荒んでいて、鬼とか悪鬼とか、銀髪の悪魔だとか言われたりなんだりもしている、現在でも木の葉の稼ぎ頭の一角を担っている、自分で言うのもなんだけど凄腕忍者なわけよ? え? それが甘えん坊?
何かの冗談でショと冷や汗と何とも言えない汗を全身に流していると、イルカ先生は目をきらきらとさせてオレを見た。
「本気です、正気です! アカデミー教師の沽券をかけて、俺がカカシ先生を甘えん坊にしてみせます!! このレッスン、必ず成功させてみせますとも!!」
熱がこもったその言葉に、思わず声を張り上げていた。


「マジかーーーーー!!!?」



戻る/ 5



------------------------------------------