レッスン6
「せーんせ、帰りまショー?」
イルカ先生の受付任務が終わる頃を狙って、受付所へとやってきた。
任務を真面目に遂行するイルカ先生の心情を慮り、時間ぴったりにではなく、人が掃けたところで声を掛けるオレは学ぶ男だ。
初めてイルカ先生を迎えに行った時、時間厳守で連れ去ろうとしたら本気で怒られてしまい、それに懲りたオレはその教えを頑なに守っている。それに。
「おい」
「イルカせーんせ」
帰還者ならびに受注者も依頼人もいない受付で、イルカ先生の前に立って頭を突き出す。
「え、えっとカ、カカシ先生」
左右に目を走らせ動揺した顔でオレを見てきたが、それを無視してぐっと頭を突き出せば、イルカ先生は深いため息を吐いた後、おもむろに手を伸ばし、厚い手のひらで頭を撫でてくれた。
こうやってオレが言いつけを守るとイルカ先生はご褒美をくれるのだ。ならば守るしかあるまいて。
「迎えにきてくれてありがとうございます。それに、ちゃんと俺の言ったことも守ってくれて嬉しいです」
「えへへ~」
「……おい」
わっしゃわっしゃと髪を揉まれるように撫でられ、その気持ちよさに顔が緩む。
オレが満足するまで撫でてくれた後、イルカ先生は隣を気にしながら帰り支度を始めた。それを今か今かと待っていると、イルカ先生の隣から妙にきつい視線が絡んでくる。だが、オレはいつも通りにそれを華麗に無視し、オレを待たせまいと急ぐイルカ先生の様子をうっとりと眺める。
オレのために、というのが何気にポイントだと思う。
「あからさまに無視してんじゃないよ!!」
イルカ先生が顔を上げ、オレに帰ろうと声を掛ける寸前、横合いから大振りな音が上がり何かがこちらに突き進んできた。
それを軽く後ろに反ることで避け、目を見開き顔を青くするイルカ先生へ早く帰ろうと促す。
背後ではオレが避けた何かが壁に当たり、大仰な音が立っていたが、オレには関わりのないことだ。
「今日の夕飯何にしますー?」と口に出せば、横合いから無粋な怒鳴り声が響いた。
「カカシ、こっちを向け!!」
ドガンと破壊音を立てる方向へ、嫌々ながら視線を向ける。無論、感情を悟らせるようなへまはしない。表向き今気づきましたよという態で、にこやかに頭を下げる。
「これは五代目、お久しぶりです。今日も無駄に若作りしてますーね」
ぎちぃっと何かを磨り潰すような音が聞こえたが無視。
オレの徹底的な態度に何かを悟ったのか、五代目は憤怒の表情を消し去り、艶やかな笑みを浮かべた。
「あぁ、お前の無駄な駄犬ぶりよりかは見苦しくしてないつもりだがな。で、三週間経つが任務進行具合はどうだい? イルカは色々と優秀な忍びだ。いつまでもお前に縛るほど余裕はないんだがね」
粘着的に絡んでくる五代目の言葉にオレは涼し気な顔で対応する。
「あらー。ま、そうでショーね。イルカ先生が優秀だってことは言われるまでもなくオレ自身が知ってますし。でも、いいんですか、五代目? 変に焦って中途半端に打ち切ったおかげで、また元通り、なーんてことになったら」
使い物にならないくノ一がまた出来上がりますねぇ。
にこっと笑い言外に告げれば、笑みを浮かべていた五代目のこめかみがぎちりと蠢いた。
「ほぉー、お前、私を脅す気かい?」
「いえいえー。まさか火影さまを脅すなど恐れ多い。忍びの本分は任務遂行第一です。いい加減な任務はできないという思いからですよ」
しばらくお互いが笑顔で牽制し合ったが、先に根を上げたのは五代目だった。
「はっ、やめやめ。本当にむかつく子だよ。どうしてこうもこんがらがった子になっちまったかねー」
投げやりな態度で頭を掻きむしり、盛大なため息を吐く五代目。
「さぁ? 五代目曰く恋愛異常者ですしー」
五代目は嫌な顔でオレを見た後、もう一つため息を吐いてしみじみこう述べた。
「……イルカ、私は断然お前の味方をするからね。こいつ関連で何かあったら存分に頼りな。あらゆるコネと権力と物理で守ってやる。そして、カカシ。お前、全てが終わったら覚悟しときな」
慈しみのこもった眼差しをイルカ先生に向けた後、五代目はオレに犯行声明ともいわんばかりの眼光で睨み付けてきた。
帰り支度が整ったのか、所在投げに立っているイルカ先生の元へ行く。突然の火影からの庇護宣言に困惑しているイルカ先生を慰めながら、五代目の視線から匿うように肩を抱いて、受付所から連れ出す。
「イルカ先生にはオレがついてますから間に合ってますー。若作り婆の若いツバメは御免でーす」
扉をくぐる直前、駄目押しとばかりに言い放てば、「クソカカシー!!」と怒号と共に何かが飛んできたため、イルカ先生の肩を抱いたまま外へと走り抜けた。
まったく、更年期はとうに過ぎただろうに、本当情緒不安定な婆だーね。
ここまで来たなら物も飛んでこないだろうと、建物の外に出てようやく足を緩める。
腐っても火影なため、一応後方確認と後ろを振り返れば、イルカ先生がオレの腕の中から一歩飛び出た。
そこにあった温もりがすり抜けていくのをまざまざと感じ、捕まえようと手を伸ばして、振り返ったイルカ先生の表情に手が止まる。
「カカシ先生、行きましょうか。今日は、何にしましょうかねー」
顔は笑っているのに、泣きそうな表情。
カラ元気ともいえる言葉を掛けながら、オレを拒絶しているそれに、言葉が咄嗟に出なかった。
どうしましたと首を微かに傾げて、いつもの会話を望むイルカ先生の思いに報いるため、込み上げる不安を飲み下して、いつものように能天気な言葉を返す。
「そう、ねー。魚が食べたいかも」
「また魚ですか。カカシ先生、魚大好きですね。前世は猫だったんじゃないですか?」
「えぇ、忍犬使いにそれはないでショー。どうせなら狼とかいいなぁ」
「孤高の王者、似合いすぎてつまんないですって。俺的には孤高であっても可愛がられるにゃんこがお勧めですよ」
「何よそれー」とくだらないやり取りをしながら、イルカ先生を窺う。
泣きそうな顔も、オレを拒絶するような空気もすでに霧散していたけど、あのとき胸に痛いほど感じた悲しみは忘れられそうになかった。
徐々にイルカ先生との関係が崩れていっている。
そう、感じずにはいられなかった。
「いい加減、オレも何かしたいー! 少しでいいから! ね? ね?」
上げ膳据え膳の毎日。
先ほどイルカ先生に拒絶されたこともあって、オレはどうにかしてイルカ先生のご機嫌を取りたくて粘った。
「……いや、カカシ先生。そういうところが駄目だって言ってるんじゃないですか。俺の今の目標はカカシ先生を甘えん坊に改革することですよ。甘えん坊が働き者であって言い訳ないじゃないですか」
夕飯を作ってもらい食べた後、てきぱきと食器を下げて、台所で洗いだしたイルカ先生の腰に抱き着き強請る。
「ほら、邪魔」とぞんざいな扱いでオレを振り落とそうとしたが、それに抵抗して抱きしめる腕に力を込めれば、「苦し、くるしっ」と水の滴った手でタップしてきた。それでも意地でも離すまいとすれば、とうとうイルカ先生が根を上げた。
「わ、分かった! 分かりましたから!! 手、はなっ」
了承は得たとばかりに力を緩めば、イルカ先生がげほげほと咳きこむ。
「強情張るからですよ」と立ち上がって、優しくイルカ先生の背中をさすれば、誰のせいですかと涙目で睨まれた。イルカ先生のせいですーよ。
「で、何がしたいんですか? お生憎様、もうやることはやってます」
そう言われてみれば、洗濯物もないし、風呂も入ったし、茶碗も洗ったし、見るからにするべきことがない。
にやにやと笑って見つめてくるイルカ先生にムッとしかけて、あることに気付く。
洗い物を終え、手をタオルで拭いているイルカ先生の爪が少し伸びている。
これがあったと、オレは内心ほくそ笑み、イルカ先生へ手のひらを差し出した。
「? 何です?」
要領を得ない顔でこちらを見るイルカ先生の手をこちらから取り、オレは掲げるようにそれを突き出す。
「イルカ先生、爪、切ってあげまーすよ」
うげっと言わんばかりに体を引こうとするが、それを阻止して居間へと連れ込んだ。
イルカ先生を座らせ、その前に新聞紙を引き、オレが愛用しているクナイとヤスリを傍らに置く。
「はい、じゃまずは右手からいきましょーかっ」
左手を差し出し促せば、イルカ先生は顔を引きつらせていたが、やがてしぶしぶと右手を乗せた。
手のひらは厚くて、指は長く骨ばっている。指の側面にはクナイダコやら筆ダコが出来てて、日頃チョークを握っているせいか指先は荒れていた。
触れることでイルカ先生の日常がよりよく知れて楽しい。
確かめるように一本ずつの指と爪を親指で撫でさすっていれば、イルカ先生から声が掛けられた。
「……あの、切らないんですか?」
ふと顔を上げれば、イルカ先生は目を伏せ、恥じらう様に頬を赤く染めている。
日焼けした肌が色づく様や、思ったより長いまつ毛が微かに震える様に、喉が渇きを覚え、思わず生唾を飲込んでしまった。
こういう時に名前を呼んでもらえれれば、オレは……。
「カカシ先生?」
呼びかけられて我に帰る。
どきどきと微かに早くなっている鼓動を自覚して、動揺してしまう。一体何に反応しようとしているんだ。イルカ先生は男、オレと同じ男だーよ。
「ん。じっとしててー。切れ味は折り紙つきだーから」
「……でしょうね」
どこかうつろな声を出すイルカ先生を気にせず、視線を落とし爪にそっと刃を当てる。いつものようにそのまま余分な爪を削いでいると、目の前のイルカ先生から呼吸音が聞こえないことに気付いた。
ちらっと様子を窺えば、若干顔を青くして固まっており、それがおかしくて吹き出してしまった。
「ちょっ、カカシ先生!!」
吹き出した時に少し手がぶれたせいか、イルカ先生が悲鳴をあげる。やだね~、オレが傷つけるとでも思ってるの?
「イルカ先生、緊張しすぎ、オレのこと信用なさすぎー。オレがイルカ先生を傷つけるなんて有り得ないでショ」
それとちゃんと息してよと続ければ、イルカ先生は不満そうに唇をぎゅっと萎ませた。
「……なんで爪切り使わないんです?」
右手の爪を粗方削いだ後、ヤスリをかけていると、膨れたような声で問いかけられる。
「んー、長年の習慣ってやつかーな。爪切りなんて、うちにはなかったかーらね」
軽く肩を竦めれば、イルカ先生はほんの少し体を震わせて、妙な気配を纏い始めた。
きっとイルカ先生の頭の中では、オレの幼少期とか任務付けの日々を送ってまともに里に帰られなかったんだとか、色々と考えているんだろう。そして、不用意な発言をした自分を戒めているに違いない。
視線を上げると、案の定イルカ先生の眉間には深い皺が刻まれていて、真剣にオレのことを思ってくれているのが手に取るように分かった。
そんなの気に病むことじゃないよと、一言言えば済む話なのだが、何となくイルカ先生が悩む姿はオレにとっては嬉しくて、そのまま思い悩んでもらうことにする。
うんうんと唸りそうになるイルカ先生をたまに見つつ、左右の爪をすべて削ぎ、整え終わった。
仕上げに爪に息を吹きかければ、考え事をしていたイルカ先生の口から素っ頓狂な声が出て、それにも笑ってしまう。
恨みがましい目で見られたけど、それも数秒のことで、仕方ないなぁと今度は違った意味で眉間に軽い皺を作るから、オレは嬉しくて堪らなくなる。
「あ、ねぇねぇ、今度はイルカ先生がオレの爪整えてよ」
上機嫌そのままに無造作に両手を預ければ、素っ頓狂な声をあげられた。
「え!? カカシ先生、それ、まずいですって!!」
途端に慌てだすイルカ先生に首を傾げる。
「なんで?」
「なんでって、カカシ先生ほどの忍びなら分かるでしょう!? 自分の武器ともなりえるものを他人に委ねるなんて」
「やーだねぇ。イルカ先生とオレ、他人じゃないでショ」
「いや、俺が言ってるのはそいうことじゃなくてですね! ミリ単位の誤差が危険を」
ぐだぐだ言ってくるイルカ先生をはいはいとあしらい、無理やりクナイとヤスリを持たせる。
「ちょっと、カカシ先生!」
「なーによ。イルカ先生言ってたでショ。オレを甘えん坊にするって。オレはこうして自分の意志を捻じ曲げてイルカ先生に甘えてるのに、それを無駄にするつもりー? あーぁ、せっかくオレ甘えてるのになぁ、こんな反応されるならこの後もう甘えることできそうにないなー」
うぬぬぬと苦悶の声を上げ始めるのを見て、ほくそ笑む。我ながら意地が悪いが、どうしてもイルカ先生に爪を整えてもらいたいのだ。
足元見やがってと悪態をつくイルカ先生に笑みを向ければ、額を引きつかせながら笑いかけてきた。承諾されたらしい。
うきうきしながら手をもう一度出せば、イルカ先生は深いため息を吐いた。
「俺はカカシ先生みたいにクナイの扱いはうまくないんで、ヤスリでしますよ」
オレの右手と左手を前に躊躇った後、左手を取られる。緊張した面持ちで唾を飲み込むとヤスリを爪に当て、オレを見つめてきた。その真っ直ぐな視線に思わず姿勢を正してしまう。
「……カカシ先生、今からしますけど、きちんと指示してくださいよ? 絶対してくださいよ」
あまりに必死な様子がおかしくて笑いそうになったけど、ここで笑ったら機嫌を損ねてしまいそうでぐっと腹に力を入れる。それでも少しはからかいたくてオレはイルカ先生の背後に回った。
突然オレが立ち上がって後ろへ回ってきたことに困惑していたけど、特に抵抗もなく後ろからイルカ先生を抱きこむことに成功する。
膝を立てた両足の中にイルカ先生を入れて、脇の下から左手を出して、目の前に掲げ「この方が見やすいからーね」と嘯く。
「……なるほど」
取ってつけたような言葉でも、イルカ先生からは特に反論は出てこなかった。あっさりと納得したことに肩透かしを食らった気分だ。もっと慌てふためくかと思ってたのにざんねーん。
「じゃ、いきますよ! 指示お願いします」
イルカ先生の肩口に顎を乗せ、丁寧にヤスリを掛け始めた指先を見つめる。
シュッシュと小さな音を立て整っていく爪を見ながら、腕の中にある体温が嬉しくて仕方なかった。
戻る/7へ