夢(中編)




「イールカさん。起きてくださいよー。今日はいい天気ですよ〜」
ぴちゅぴちゅと雀の鳴き声と一緒に、柔らかい声が聞こえてきた。
瞼に朝の光を感じ、おれは嫌がって布団を頭で引き上げる。
「…れは今日、ずっと寝て過ごすんです……。ずっとずっと寝てるんです」
身を守るように体を折り曲げ、おれは意地でも布団からでるつもりはないと、主張する。
すると声の主はくすくすと笑い、蓑虫状態になっているおれをつついてきた。
「イルカさん、おかしなこと言うねー。これはイルカさんの夢の中だよ。夢の中でも寝てるつもりなの?」
声の主の言葉に、目が冴えた。
「は?!」
布団をはねのけ起きあがれば、ベストを着用した忍服の見知らぬ男が布団の横に座り、笑っていた。
「え、え、え?」
状況が掴めず、辺りを見回せば、そこは昨日と変わらぬ、煎餅布団が一つあるだけのおれの部屋だ。
夢だと男は言ったが、とても夢とは思えない。
どう判断していいか分からず、男に視線を向ければ、男はとても幸せそうな笑みを浮かべ、おれの名を呼んだ。
「イルカさん、お誕生日おめでとう。今日はオレとずっと一緒にいようね」
男の声に、柔らかな微笑みに、とっさに言葉が出てこなかった。
胸が、震えた。
思わず伸ばしそうになった手を引き止め、頭を振る。
いくら優しい声や笑みをくれたからって、おれ一人だとは限らないのだから。



「や、藪から棒に何ですか。お、おれはあんたなんて呼んじゃいません……って、一体、アンタ何者ですか!!」
目を覚ませばそこにいた不審者に、おれは飛び下がる。だが、それよりも早く男はおれの手を掴んだ。
「は、離してください!!」
動きの速さにヒヤリとしたものが背中を過ぎる。
己よりも上手。上忍かもしれない。


突如現れた敵かもしれぬ者に、焦りが募る。
状況は最悪。
男の手を振りきる自信もない。
暗器は携帯しているが、この男に通用するかさえ分からない。


何か策はないかと思考を回転していると、男は首を傾げ不思議なことを言った。
「イルカさん、オレのことわかんないの? よく飲みに行ってたのに、悲しいなー」
眉根を下げ、男は表情を曇らせた。
何を言っているか分からず、見つめていれば、男は一つやるせない息を吐くと、コレと目を指さした。
「イルカさん、これに見覚えないですか? あなた、酔っぱらって、オレの額当て引っ張って取っちゃったんだーよ。そんでコレ見て、手叩いて喜んで、ウサギの目みたいで可愛いなんて言ったじゃない」
男の差す左目は赤かった。
その赤い瞳に浮かぶ、三つ巴の印は……
「写輪眼……って、カカシ先生?」
緊張していた体から力が抜ける。
それと同時にカカシ先生は、おれの手を離してくれた。


「どうしたんです? いきなりおれなんかの部屋に来て。あ、もしかして何か御用とかですか?」
突然の来訪者に驚いたが、渡りに船と用事を聞き出す。これで、一人でいなくてもすむ。
弾むように尋ねた問いに、カカシ先生は途端に拗ねた顔を見せた。
そういえば、いつもの口布がないせいで、カカシ先生の顔がばっちり見えている。
沈着冷静なイメージが強いが、こういう顔もするのだと興味深く見ていれば、もっと口を突き出し、カカシ先生は本格的に拗ね始めた。
「ひどいですよー、イルカさん。これはあなたの夢だって、オレ、さっきから言ってるじゃない。オレは、今日、あなたに呼び出されてここにいるんだよ」
「え……夢?」
カカシ先生の言われた言葉が今度はすんなり入ってきた。


ナルトたち7班の縁でカカシ先生と時々飲みに行っていたが、木の葉崩し以降、任務に次ぐ任務に加え、サスケが里を離れ、ナルトやサクラがそれぞれの道に歩き出したのを機会に、おれとカカシ先生の接点はなくなってしまっていた。
本来ならば、カカシ先生がおれのアパートを訪ねること自体、あり得ない。そもそも、カカシ先生はおれのアパートを知らないのだ。


「あぁ、そうですね…。夢、ですよね。あはははは、現実味がありすぎて、区別、つきません、でした…」
夢と知って、何だか寂しくなった。
本当はカカシ先生ともっと親しくなりたかった。反発してやり合った仲だけど、それでもカカシ先生はおれにとって、憧れの人というだけでなく、とても好ましい人だった。
酔った時、突然、締まりなく笑い出す声や、時々、子供のような我儘を言ってみたり、普段は人嫌いとさえ思わせる態度を取るのに、実は触れ合うのが好きでいつもおれの手を触っていた。
無邪気な子供のような、カカシ先生のあの独特な空気が好きだった。
友人は無理だとしても、気のいい飲み友達として末永く付き合いたかったというのが、本音だ。
そこまで考えて、カカシ先生を見る。


目の前にいるカカシ先生は酔ってはいないけど、おれを見つめて首を傾げいている。
その仕草は、居酒屋でおれの話を聞くときに見せる、定番の姿だった。
子供がいつお話しをするのか、待っている姿によく似ていて、可愛いなと思った記憶がある。
一つ思いだしたら、次々とカカシ先生と過ごした時間を思い出して、無性に懐かしくなった。
そこで、ああと思う。


「……ちょっと分かりました。おれ、カカシ先生に会いたかったんですね。夢の中に登場させちゃうまで会いたかったなんて、おれも驚きましたが」
力なく笑いを洩らせば、突然肩を掴まれた。
驚くおれに、カカシ先生は眉根を寄せて「こら」と一言言った。
「イルカさん。そんな笑い方は駄目です。今日はイルカさんの誕生日なんですよ。イルカさんが楽しんでもらえるためだけに、オレはここにいるんです。そんな寂しい顔しないでください!」
語調も強く言われ、思わず「はい」と返事してしまう。
そんなおれをカカシ先生はよろしいと頷くと、満面の笑みを浮かべた。
けれど、カカシ先生は突然表情を引き締め、おれに向かって人差し指を一本立てた。
「あ、言い忘れてました。ここはイルカさんの夢の中なんだから、オレのことはカカシなり、はたけなり、写輪眼なり、好きに呼んでくださいっ。カカシ先生だなんて他人行儀な呼び方はなしですよっ」
「写輪眼が一番他人行儀じゃないですか?」
おかしな言い分を突っ込めば、頬を膨らませ、カカシ先生はより強調してきた。
「カカシ先生より、マシです!! とにかく、今からイルカさんは、カカシ先生以外でオレを呼びなさい。上忍命令ですッ」
腕を組んで、声高に命令する割に、しょぼい命令内容だ。
思わず笑えば、カカシ先生は一瞬眉根を寄せたが、後は一緒に笑ってくれた。


「えっと、じゃ、カカシさんって呼ばせてください」
「えーーー、カカシでいいよ?」
「無茶言わんでくださいよ。いくら夢でも居心地悪すぎますって」
「イルカさんは謙虚ですねぇ」とカカシ先生いや、カカシさんがどこか残念そうにつぶやいた。
「あ、そういえば、カカシさんも、おれのことイルカ先生じゃなくて、イルカさんて呼んでますね。どうしてですか?」
純粋に不思議に思って聞いてみた。たぶん返ってくるのは、あなたの夢だから分からないという答えだろうけど…。
じっと見ていれば、カカシさんは急に体を固まらせ、視線をさ迷わせたかと思うと耳まで顔を真っ赤にさせた。
思わぬ反応に目を見開いていれば、カカシさんは非常に恥ずかしそうに俯き、己の親指同士を弾き合わせながら、小さい声で言った。
「夢だったんです。イルカ先生をイルカさんって呼ぶことが……」
おれの夢なのに、カカシさんの夢まで出てくるのかと、どうでもいいことを思いつつ、どうしてとまた聞いてみた。
するとカカシさんは、ますます顔と耳を赤くさせ、消え入りそうな声で言った。
「だって………すっごく親密な仲に見えるでショ」


カカシさんの言葉に目が見開く。
けれど、次の瞬間に胸を満たした感情は何と言えばいいのだろう。
おれはとても嬉しくなって、大笑いした。
「あはははははははは、カカシさん、夢ちっちゃすぎですよッッ。おれのことイルカさんって呼ぶことが夢だなんて、そんなバカな……っ!!」
写輪眼のカカシともあろう人が、なんて可愛いことを言うのだろう。
大笑いするおれを、カカシさんは顔を真っ赤にさせて詰ってくる。
「ひどいですよッ! そんなに笑うことないじゃないですか。オレがどれだけ練習したと思ってるんです?! ちゃんと言えるまで、舌だって何回も噛んだんですからねッッ」
思わぬ告白に腹が痛くなるほど笑い転げてしまう。
あぁ、本当に夢みたいだ。


カカシさんは、告白ついでに居酒屋で飲んでいた時のことまで話しだしてくる。
本当は毎日誘いたかったけど、先生は忙しそうだしお仕事の邪魔になりそうだから我慢したんだとか、先生と一緒のジョッキでお酒を回し飲みしたり、先生の食べているものをちょっともらいたかった、先生があまり美味しそうに食べてるからつられて食べ過ぎて、ちょっと体重が増えたんだとか、ナルトといつも一緒に一楽行っているのが羨ましくて、本当は先生と二人だけで一楽に行きたかった、先生ったら子供たちがいると、オレを放って子供のところに行くから寂しかったんだとか、中忍試験で険悪なムードになったときは精神的に参った、その後に木の葉崩しが起きて、任務が忙しくて先生に会えないのが辛かった、また前みたいに飲みに行きたかった、先生と他愛ないお話して笑いたかった、先生の笑顔が見たかった、先生の部屋に上がって酒も飲んでみたかった、それにお泊まりなんかもしてみたかった、先生の側にずっといたかった。


『先生』、『先生』と言って。
カカシさんは一生懸命話してくれた。
そのうちカカシさんは小さくしゃくり始め、薄青い瞳と赤い瞳から丸い涙を零し始める。


「オレ、何度も死にかけました。任務でヘマしたり、チャクラ切れおこしかけたりして、もうダメだって、ここで終わりなんだって、何度も思いました。でも、その度に先生の笑顔を思い出したんです。あの笑顔をもう一度見たい、お帰りなさいってもう一度言われたいって。先生はオレの大事な人なんです。――木の葉崩しのとき、本当は先生の元へ行きたかった。怪我してないか、心配で、オレ、気が気じゃなかったんです」
ぽろぽろと泣くカカシさんの涙が、胸に堪えた。
頑是なく泣く子供のようなカカシさんを胸に抱きしめ、背中をさする。
カカシさんは、震える手でおれの肩にしがみついた。
小刻みに震える肩が切なくて、頭に頬をすり寄せて慰めた。
「でも、オレは上忍で、木の葉の里のはたけカカシで、写輪眼のカカシで」
背中を波打たせ、カカシさんは言う。
責任がある。守る義務がある。導く役割がある。
自分だけの思いを貫くことが、どうしてもできないのだと、カカシさんは泣いた。


「ごめんね、せんせ。ごめんね、せんせい。オレは先生を一番大切にしたいのに、一番大切にはできないんだ。誰よりも先生のことを思っているのに、先生に何もしてあげられないんだ」
謝る必要なんて一つもないのに、カカシさんは泣きながら謝った。
何度も何度もごめんなさいと、カカシさんは言う。
おれは泣きじゃくるカカシさんをしっかりと抱きしめ、そんなことはないと言った。
けれど、カカシさんは謝るのを止めてくれない。
何度も謝り、カカシさんは泣いた。


泣くカカシさんを抱きしめ、おれは救われた思いだった。
これが例え夢でも、荒唐無稽な妄想だとしても、目が覚めたらすべてなくなってしまう幻だとしても、この腕の中にいる人に、例えようもない愛しさを感じたのは、おれにとっての現実だと歯を食い締めた。
一番欲しかったものをカカシさんがくれた。
両親以外の誰からももらったことがない、とても繊細で壊れやすくて、でも強いもの。
それをカカシさんがくれた。


泣くカカシさんに、おれは笑う。
「カカシさん、ありがとう。おれが一番欲しかったものをこの日にくれてありがとう」


喜びと、その行幸に感謝を込めて、おれは言う。
「カカシさんがこの世に生まれて、おれと出会ってくれて、ありがとう」


囁くように耳元に贈った言葉は、カカシさんの涙を止めはしなかった。だけど、


「せんせ、大好き」
くしゃくしゃの顔でカカシさんが笑う。
泣きながら顔を真っ赤にさせて笑う顔は、とんでもなくぶさいくだったけど、その笑顔だけは絶対忘れたくないと、胸に刻んだ。









「カカシさーーーー」
涙を拭こうとして上げた手が空振る。
目を見開いて、やけに天井がぼやけて見えた。


「やっぱり、夢だったんだ……」
掠れるように呟いた声と同時に、生温かいものが眦から零れた。





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