*****
「結婚前提でお願いします!!」
緊張を多分に含んだ声が下から突き上げ、まどろんでいた意識が浮きあがった。
聞き覚えのある声に、はたけカカシはまたかと嘆息をつく。
アカデミーの裏にある大きな樹は、枝ぶりといい、日の当たり方といい、まどろむには最高の場所なのだが、ただ一つ欠点があった。
幹に預けた体を少しずらし視線を落とせば、年若い男女が向き合っている。
男は女にまっすぐ手を出した体勢で深く腰を折り、一方の女は男の前で硬直していた。
「ご、ごめんなさい! 私、そんなつもりじゃっっ」
青ざめた顔をした女は、引き気味に体を逸らし、次の瞬間脱兎のごとく背を向けて走り出した。
「あ、え、あ!!」
去っていく女の背中を見つめ、男は引き留めるように右手を突き出す。だが、男の足は一歩も踏み出せないまま、女の姿が見えなくなるまで見続け、そして、力なく肩を下げた。
「……な、何が悪かったんだ」
がくりと頭を落とし、男は心底分からないと言った呟きを零すと、背中を丸めて去って行った。
「……無茶ぶりのせいだろ」
男が去って行った方向に向けて、カカシは忌々しげに呟く。
甚だ迷惑なことに、カカシのお気に入りの樹は、うたた寝をする以外にも、告白する場に適しているようだった。
そして、常連のカカシと同じくして常連であるのが、あの男だ。
信じられないことだが、あの男はとにかくモテる。毎回違う女に誘われては、この場にやってきて告白されていた。
自己愛を押し付ける陳腐な三文芝居振りに、心で唾棄していたが、何度も演じられる寸劇を前に、この男はカカシの思うものではないと知った。
女が告白し、男が了承する。普通ならばそこで話は終わるはずなのに、男はわざわざ自分からまとまった話を壊しにいくのだ。
おかげで、カカシは度々まどろみを邪魔される羽目になっていた。
「結婚ってねぇ…。一体いくつなのよ、あれ」
婚期を逃すことを恐れる女のように、男は二言目には結婚前提という言葉を出していた。
黙って女の言葉に頷けば、ひとまず特定の女はできるだろうに、男は結婚という形に固執している。
正面から顔を見ていないため、正確な歳は分からないが、あの物慣れない雰囲気とどこか浮ついた空気は十代後半ぐらいだろうかとあたりをつける。
黒髪を頭のてっぺん近くで一本に縛り、支給服のベストを着た、中忍であろう男。
何の特色もない男に見えるが、異様に女受けがよく、そして、早くも結婚したいと本気で願っている、変わり者。
あの男の無茶な要求を受け入れる女が現れるまで、カカシのうたた寝時間は邪魔されるのだろうなとため息を吐き、もう一度眠り直そうとした。そのとき。
油断すれば聞き逃してしまうほどの音量で高く鳴いた鳥の声に、思わず舌打ちが出る。
閉じていた目を開け、梢を避け上空を見れば、旋回する小鳥の姿がある。
次の仕事が決まったようだ。
「はいはい、行きますよ」
全くもってこの里は人使いが荒いと、つい数時間前に帰ってきた己の身の上にため息を吐いた。だが、休みをもらっても何かをしたいと思えないカカシは、いざ休みをもらった方が精神衛生上悪いような気がした。
だったら、仕方ないかと、カカシはずらしていた面を被りなおし、火影の元へと急いだ。
******
「はい、しゅーりょー」
闇夜に沈んだ草むらへ、前面から地面に倒れこんだ、忍び崩れの夜盗に止めを刺し、任務の終わりを告げる。
カカシの声を聞きつけ集まってきた、本日の仕事仲間に「おつかれ」と声を掛けた。「おつかれ」と互いの無事を確認しつつ、後始末に移る。
夜盗の亡骸を残さず一か所に集め、火遁で火をつけたところで、一人が大きく伸びをした。
「あー、やっと里に帰れる。今度こそは部屋の掃除しなくちゃなー」
肩を鳴らしながらぼやく鳥面に、隣の猫面が小さく笑った。
「お前、この前もそう言ってなかったか?」
「あ? そうだっけ?」
「どうせ、お前のことだ。色街にしけこんで、帰んなかったんだろう」
亡骸が燃える様を見詰めたまま、狸面が笑う。鳥面は「だってよー」と首の後ろに手を組み、いじけたように声を出した。
「仕事終わりはやっぱり柔らかい人肌が恋しくなるもんじゃん? それに、いい妓見つけちゃったんだよ。おれとの相性ばっちりだし、さりげない気遣いが癒されるっていうの?」
むふふと笑う鳥面に、猫面は呆れたようにため息を吐いた。
「今回も部屋の掃除は無理そうだな。……で、カカシは、里に帰って何する予定だ?」
名前を呼ばれ、カカシはあからさまにため息を吐く。
一応、暗部としての任務中だと咎めれば、猫面は今さらだろと苦笑した。
「お前の髪が銀色だってことで、顔は割れたも同然だろ。それより、お前、里では何してんの? こいつのように廓にこもってんのか?」
毎回こもってる訳じゃねぇと文句を言う鳥面を無視して、猫面はカカシからの返答を待っている。狸面も興味を引かれたのか、耳を澄ませている気配を感じ、カカシは面の下で眉根を寄せた。
面倒だと心底思いつつ、カカシはひとまず変化の術の印を組んだ。ぼわんと特有の煙が晴れた先には、黒髪になったカカシがいる。そして、黒髪のカカシは憮然と言い放った。
「べーつに。寝て起きて、糞して、催したら適当に見繕って解消して、腹減ったら何か食うだけだ」
「わー、色んな意味で可愛くねぇ」と猫面が呟く。
可愛さを求めてくるなともう一度ため息を吐けば、狸面は小さく笑いながら「そうだ」と思い出したように口を開いた。
「何もすることないなら、俺から一つ与えてやるよ」
夜盗の亡骸が崩れ、灰になったことを確認し、視線を上げた。
同様に視線を上げた狸面はカカシに、一枚の紙を渡してきた。
ある時期にしかお目にかからないその紙に、カカシは内心で舌打ちを打つ。
「まだあったの?」
げんなりと言葉を紡いだカカシに、狸面はあるんだよとご機嫌に言葉を返す。
渡された紙は、任務終了を報告する書類だ。
暗部の任務は火影から任務を拝命し、火影に直接報告し、任務完了という形式を取っているのだが、いつの頃からか、ある一定の期間だけ、暗部受付所を設置し、任務終了後3時間以内にその書類を提出する決まりが追加で出来た。
二度手間だし、面倒くさい。おまけに、受付所を設置する意味が分からない。
カカシが思うように、その決まりは、他の暗部の者たちからも頗る評判が悪かった。
しかも、暗部受付所の受付員たちは、中忍だが成り立ての者たちで、誰もかれもが暗部とは程遠い至極まっとうな正規部隊に所属している。
修羅場を潜り抜けたこともない、経験もない、暗部とも会ったことがない、ないない尽くしのいわゆるひよこどもだ。
そんなひよこどもが、戦闘の高揚感を引きずったままの暗部に会えばどうなるか。
恐怖に顔は歪み、言葉は支離滅裂、ちょっと話しかけようものなら、失神する者も大勢いた。
やっと終えた任務後に、そのような態度を取られれば、誰しも心穏やかにはいられない。
鬱憤を晴らそうにも、暗部の受付所は特殊な結界で覆われ、その中で暴力行為が行われようものなら、即暗部が捕獲される仕組みだ。
暗部たちからすれば、余計な精神疲労を抱えるばかりか、面倒で厄介事でしかなかった。
何度も火影へ廃止するよう直訴したが、火影は設置した理由を明かすこともなく、必要なことだと言い切り、訴えを退けた。
当然おもしろくない暗部たちは、自分たちから行動を起こすことを決意した。
受付員である中忍たちを脅して、あちらからも廃止願いを出してもらおう、と。
暴力が駄目なら殺気で、直接手が下せないなら精神的に。
そのような合い言葉を胸に、暗部たちは受付員たちをことごとく脅かした。わざと血を被ったまま現れたり、いかにも発狂していますという態をとり壁を打ちつけたり、静かに脅迫してみたりと、様々な手法で受付員たちと接している内に、受付員たちの顔ぶれが変わった。そして、その日数が短ければ短いほど、暗部受付所の設置期間が短くなったのだ。
その事実に気付いた時から、暗部たちはいかに受付員を早く止めさせるかに力を注いだ。何回か繰り返している内に、誰が一番受付員を早く止めさせることができるかと、ゲーム感覚で賭けるようになり、今では暗部一同の数少ない娯楽と成り果てている。
火影の命で、しぶしぶ暗部受付員をする中忍たちにはいい迷惑だろうが、恨むならば火影を恨んで欲しいと言うところが、暗部一同の見解だ。
「……オレ、そういうの興味ないんだけど」
格下の者を虐げて喜ぶ趣味はないと、紙を突っぱねようとすれば、狸面はまぁまぁと勝手にカカシの手にその書類を握らせた。
「そう言うなって。今回の受付員は面白い奴だから、一度会ってみるのもいい経験になるぞ。ちなみに、俺たちの予想だとこいつが最後の一人だ。なかなかに手ごわい」
早く止めさせることが目的なのに、残っていることを喜んでいる狸面に疑問が沸く。
「へー。あいつまだ残ってんの? もしかして最長じゃねぇ?」
鳥面もその受付員のことは知っているらしい。感心するように口を挟んできた。
「たぶんな。聞いた話によると、最初は前にいた奴らと同じように、びびってたんだけど、ある時を境に変わったらしいぞ」
「どういうこと?」
狸面の言葉に、猫面が首を傾げる。狸面は俺も詳しくは知らないがと前置きした後、笑いを含んだ声で言った。
「どんなに俺たちが凄んでも、笑顔でいるんだと。『お疲れ様でした』って、まるで友人にでも言うように言葉を掛けてくるんだ」
機嫌良く笑いだした狸面に、「変な奴もいたんもんだ」と、鳥面と猫面も釣られて笑っていたが、カカシには何も感じられなかった。
******
里の大門を潜り、火影に報告しにいく狸面と、束の間の休養を楽しむ鳥面と猫面と別れ、カカシは暗部受付所へと向かっていた。
暗部受付所は、今は使われていないアカデミー教室の一室を使用している。
昼間は子供たちでわき返るであろう廊下を通り、一番奥にある教室へと進む。廊下は埃もなく綺麗な様子だったが、暗部受付所となっている教室の外観は、埃が溜まり、蜘蛛の巣が張り、全体的に異質な空気を放っていた。
受付所入り口の戸の前に立ち、ため息を吐く。
狸面はお前もいっちょ脅かしてこいとしきりに発破をかけていたが、カカシは乗るつもりは全くなかった。
一言でいえば面倒に尽きる。
反応が面白いんだと声を弾ませて言った狸面に、趣味が悪いと思うしかない。中忍を甚振って何が楽しいのか分からない。
そこまで考えて、ここ最近楽しいと思ったことすらない自分に気付いて、カカシは唇を歪めた。
食事も、睡眠も、女も、体が欲しているからしているだけだ。そこに楽しみを見つけようと思うことすら面倒臭い。
もしかして、自分は任務をしている時が一番自分らしいのかもしれないと、どこか諦めの気持ちで教室の戸を滑らせた。
「……あ」
ぽつんと間抜けな声が響いた。
カカシが戸を開けた先、真正面に位置する長机と椅子に座った男が、大きな口を開けたまま、手に持つおにぎりを前に固まっていた。
何となく見つめ合うこと数秒、男は慌てたようにおにぎりを後ろ手に隠し、立ちあがった。
「や、あの。いえ!! 任務お疲れさまでした! 報告書をお受け取りいたします」
顔を真っ赤にして、手を差し出す男の声に、おやと思う。
つい最近聞いた声だ。
そう思い立った直後、カカシの口から無意識に言葉がこぼれ出ていた。
「あー。あんた、結婚前提男じゃない」
「ふえっ!」
びくっと一瞬体を飛び跳ねさせ、男の目が大きく見開く。何故それをと羞恥と混乱を混ぜ合わせたような感情を顔に表し、男は目に見えて狼狽し始めた。
よく表情がころころと変わる男だ。
後ろ手で戸を閉め、男の元へと足を進ませる。
入る前の教室の有様はおどろおどろしかったが、中は綺麗に掃除されている。
本来ならば子供たちの机と椅子が並べられている場所には何もない。
だだっ広くなった、何もない空間を突っ切り、男の前へと止まった。
真正面から見た男は、何とも平凡な顔つきをしていた。
黒髪に黒目、体型は中肉中背、強いて特徴をあげるならば、鼻のど真ん中を横切った派手な傷跡か。
このような男が女にモテることがいささか信じがたい。もしかして、男の容姿ではなく、出自が女に持て囃される原因かと分析しつつも、カカシが知る限りでは忍びの名門と言われる名家に、この男と一致する者は思い浮かばなかった。
金も持っていなさそうだしねぇと、袖口が擦り切れて今にも破けそうなアンダーを見つつ、首を傾げていれば、男はぱくぱくと口を動かし、カカシに何か言いたそうな顔をした。
大方、どうして知っているのかと聞きたいのだろう。
カカシは男の前に報告書を差し出し、せっかくの機会だからと口を開く。
「あんたは気付いてないだろうけど、アカデミーの裏に大きな樹があるでショ。あそこ、オレの昼寝場所なの」
カカシの言葉を理解し、男の顔が首から上に向かって瞬く間に紅潮した。茹でダコと同じくらい鮮やかに染まった色具合に、半ば感心しつつ、カカシは男の後ろ手に気付き、声をかけた。
「あんた、後ろ。大変なことになってるよ」
「え、あ! あぁぁぁ、勿体ねぇ!!」
俺の夜食がと、握りつぶしたおにぎりが落ちないように慌てて支える男を観察した。
何か、鈍いねぇ。
忍びらしくないなぁと、心のうちで思っていると、男は貴重なものを失わずにすんだと心底安堵した表情を浮かべ、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます。おかげで、おにぎりを無駄にせずに済みました」
折り目正しく頭を下げる男に、ますます忍びらしくないと言う感情が膨らむ。別に礼を言われるまでもないよと言葉を返せば、私にとっては非常に重大なことですと力説された。
おにぎり一つのことなのに変な奴と、知らず唇が上向く。
「大した礼もできませんが、お腹減ってません? 三つおにぎり握ってきてるんですけど、一つ、いかがですか?」
屈託なく言われ、反応するのが遅れた。
男は潰れたおにぎりをタッパの蓋に置いた後、持参していた手拭きで手を拭い、空いていた椅子をカカシの元に運び、「どうぞどうぞ」と座るように促した。
報告書を出したら、すぐにでも帰ろうと思っていたのだが、いささか目の前の男に興味を覚えた。
全く知らない男でもないし、少しだけ話してみるかと腰を下ろせば、男はカカシの前にラップに包まれたおにぎりと、水筒の蓋を置いた。水筒の蓋からは味噌の匂いが漂ってきている。
「あんた、弁当持参で暗部の受付してんの?」
大した度胸だと半ば感心して言ったのに、男は咎められたかと思ったのか、しゅんと落ち込んだ。
「す、すいません。俺もどうかと思ったんですけど、一晩中起きてると腹の虫が鳴き出して…。腹鳴かせて、任務するよりはマシかと思いまして、その……」
すいませんと最後にもう一度頭を下げた男に、カカシは噴き出した。
「一晩中起きてたら、腹鳴っちゃうの? あんた、本当に忍び?」
けたけたと笑い出したカカシに、男は違いますと即反論した。
「お、お言葉を返すようですが、私だって、里外任務中はそんな失態はしません!! ただ、この受付任務はそう緊張感のあるものじゃないですし、何度も気を張ろうとしても、つい気が緩むというか……」
最後には、少し不貞腐れたように言い訳をする男に、へーと内心息を吐く。
男は全く気付いていないようだが、暗部を前にしても緊張しないと言ったも同然だ。
里内で行き交っている暗部の噂は、性質の悪いものがほとんどだ。下手をすれば、上忍でさえ、暗部を恐れているというのに、この目の前の中忍は暗部に対して特に気を負ったものはないようだ。
小さく鼻で音を鳴らし、カカシはおもしろいと呟く。久しぶりに、気分が高揚している自分に気付き、苦笑がこぼれ出た。
「そ。ま、いいんじゃないの。確かに、報告書を受け取るだけじゃ、気分がだれるのも仕方ないよーね」
カカシの言葉に、男の顔が上がり、嬉しそうにほころんだ。
「そう言ってくださると、本当にありがたいです! 男の手弁当なんで、味の保証はできないですけど、どうぞ食べてください」
全部梅干し入りですと、握り潰したおにぎりへかぶりつく男に、何だか肩の力が抜ける。
美味しい美味しいと全身で叫んでいるように食べている男に釣られて、カカシの腹も減ったように思えてきた。
立場上、他人からもらった物は食べたことがなかったが、幸いほとんどの毒性には耐性がある。それを強みに、ご相伴に預かることにした。
面をずらし、口布を下げ、ラップを剥がし一口。
口の中に広がった、ちょうどいい塩梅の塩加減と、ほぐれていく優しい米の味に、知らず呟いていた。
「……うまい」
二口、三口と食べ進めるカカシに、男は良かったと締まりのない笑みを浮かべ、自分のおにぎりを食べ進めていった。
注いでくれた、わかめと豆腐の味噌汁もお代わりし、もらったおにぎりを食べ終えたカカシは、口を開く。
「あんた、名前は?」
名前を聞かれるとは思っていなかったのか、男は最後のおにぎりに手を伸ばそうとした手を引っ込め、カカシの顔を見詰めた。
どこかばつの悪い顔をしカカシを窺う男に、どうしたのと声を掛ければ、男はどこか怯えた顔をしてカカシにお願いをしてきた。
「あの、名前を教えるのは構わないんですけど。火影さまには弁当持参していたことを言わないでくれます?」
お願いしますと瞳に切実な色を浮かばせ言ってきた男に、笑いが込み上げる。まさかというか、そんなくだらないことを心配しているとは思いも寄らなかった。
「あんたバカじゃない? 結婚前提宣言もどうかと思ったけど、そんなことよりもっと他に心配することあるでショ?」
ケタケタと笑いながら指摘すれば、男は憤慨した声で言い募ってきた。
「あ、あのですね! 暗部に所属している方には分からないと思いますけど、しがない中忍以下の忍びは些細な言動が命取りになることだってあるんです!」
「へー。それなのに、弁当持参してたんだ」
からかうように言い返せば、男はうっと言葉を詰まらせると、視線を逸らしてぶっきらぼうに言った。
「……空腹が一番の敵なんです」
男もくだらないことを言っている自覚があるのだろう。男の目元は真っ赤に染まっていた。
一頻り笑った後、「言わないよ」と軽く返せば、カカシが笑ったことに傷ついたのか、眉根を寄せて口を突き出している。
「絶対、言わないって、約束するから。だから、教えて?」
「ね?」と何度も首を傾げてお願いすれば、男は渋々ながらも口を開いた。
「うみのイルカです」
「うみの、イルカ。ふーん、イルカって言うんだ」
改めてイルカを見詰める。
平凡な男だと第一印象では思っていたが、よくよく見れば愛嬌のある顔立ちをしている。コロコロ変わる表情は見ていて飽きないし、イルカに合わせて一本に縛った髪が動く様も、犬の尻尾を見るようで微笑ましい。
カカシがじっと見ていたことに気付いたのか、イルカは見ても何も出てきませんよと笑いながら、おにぎりを掴むと、ラップを剥ぎ一口齧った。
「で、暗部さんのお名前は何て言うんですか?」
気負いもなく、自然に飛び出た問いに、カカシはちょっと困ってしまった。
何の反応もないカカシを訝しく思ったのか、顔を上げたイルカは、ようやく自分の問いの意味に思い至り、顔色を変えた。
「あ、すいません。俺……」
口に手を当て、失言を謝るイルカに、まいったなぁと内心で呟いた。
今、カカシは変化で黒髪になっている。そして、変化していることを残念に思っているカカシがいた。
本来の色である銀髪だったならば、はたけカカシだと分かるだろうに。カカシからは何も伝えられないが、イルカに察してもらえることが出来たのに。
イルカにカカシを知ってもらいたいと思っている自分を見つけ、自嘲する。
新しい関わりなど面倒だとしか思っていなかったのに、いつの間にかイルカはカカシの心の中に入り込んでいる。そして、イルカを知りたいと望んでいるカカシがいた。
今のカカシがそんな望みを持つとは、思いもしなかった。
「あ、あの……」
怒っていないか上目遣いで窺うイルカに、小さく首を振った。
狸面の言う通り、イルカはどうやら変わった人物らしい。特に、暗部に所属している者たちにとっては、懐かしい何かを感じさせる。
そこまで考えて、暗部に限ったことではないかと打ち消した。イルカは女にもよくモテるのだ。
何となくそのことを面白くないと考えた自分に驚きながら、カカシは不安げにこちらを見詰めるイルカに軽く声をかけた。
「怒ってないよ。ま、でも、暗部の素性を詮索した罰に、おにぎりをいただこうかな」
長机に肘をつき、その上に顎を乗せて見詰めれば、イルカは自分が持っていたおにぎりに視線を移すなり、「え」とあからさまに嫌な声をあげた。
そんなに腹が減っていたのかと思えばおかしく、素直すぎるというか、正直なイルカの反応に笑った。
結局、カカシは次の日におにぎりを食べさせてもらうことを約束し、その日は帰った。
****
「はい、約束した茄子と豆腐の味噌汁です」
どうぞと、湯気の立つコップを渡され、カカシはありがとうと笑みを作る。
イルカと会ってから、早一ヶ月。
あれからカカシは暇さえあれば、深夜の受付所へと出向き、イルカの手弁当をねだった。
報告に来た訳でもなく、ふらりとやって来てはイルカの夜食を食べながら世間話をするカカシに、イルカは少し不思議そうな顔をしていたが、日によっては誰も来ない日もある受付任務にとって話相手がいることは都合良かったのか、何故やってくるのか言及されたことはなかった。
だが、一人分の夜食を二人で食べるのがひもじくなったのか、イルカは、ある日、「高給取りの癖して、薄給な俺から、楽しみの夜食を奪うんですか!」と本気で半泣きした。もっと食べたいと、ぶつぶつ嘆くイルカを前に、考えた挙句、カカシはお金を渡した。
カカシにとってはそう大した額ではなかったのだが、多すぎると受け取ることを固辞したイルカに、それじゃこのお金で毎晩オレの夜食も作ってと案を出した。それならばと金を受け取ったイルカは、必ずカカシの分の夜食を持ってきてくれるようになった。
「暗部さんの資金のおかげで、今日は奮発して牛肉の甘辛煮を中に入れてみました」
嬉しそうにおにぎりを頬張り、イルカはご機嫌の様子だ。
「えー。オレ、梅が良かった。肉入れるくらいなら、秋刀魚の身入れてよ」
油こいものが苦手なカカシは、あっさり系の具剤が好きだ。「ジジ臭いですね」と、濃い味の具剤が好きなイルカは、どこか貶すような勢いで言葉を吐いてくる。
「イルカー。あんた、ちゃんと野菜食べてる? オレ、思うに、最近のイルカの腹あたりがヤバイ気がするんだよね」
うらっと人差し指を腹に向かって突き出せば、ふごはっと変な声を出してイルカが咽た。
「ちょ! 食べている最中は止めてくださいよ!」
勿体ないと憤慨するイルカを笑いつつ、カカシはおにぎりを頬張る。
一応、肉だけではなくにんじんや玉ねぎも入れているから、それなりに気を付けているのだろうが、肉と野菜の割合は肉の方が断然多かった。
「太るよ」と、なおも呟けば、イルカは真っ赤な顔で否定する。
「太りません! これからまだ伸びますからねっ。若いうちに食べる肉はいいんですっ」
断言するイルカに、ふーんと気のない相槌を入れる。それに噛みつこうとしたイルカが口を開く前に、そういやーとカカシは尋ねた。
「イルカって、何歳なの? 18、19くらい?」
性格はてんで子供だが、落ち着きのある顔立ちは、もう少し上に見られるかもしれない。カカシよりも上ということはないだろうがと、返事を待っていれば、イルカはどこか嬉しそうな気配を滲ませ言った。
「俺、16です。大人びて、見えました?」
いやー、滲み出ちゃうんですかねぇ、大人の雰囲気ってやつがと、照れるように頭を掻きまわすイルカを、カカシはしばし黙って見続けた。
更なる褒め言葉を期待し、うきうきとカカシを見詰めたイルカに対し、カカシはぽつりと言う。
「顔、老けてんね」
「はぁぁぁ、そっち?! そっちなのか!!」
思い当たる節でもあるのか、イルカは大いに憤った。
「いや、だって……16? や、確かにガキ臭いとは思っていたけど、その顔で16って……」
「……もういいです。歳の話は止めましょう。辛くなるんで、止めてください」
くっと男泣きするイルカに、「そう?」と言葉を返し、カカシはおにぎりを食べる。
イルカも味噌汁を飲んで気を取り直し、おにぎりを口に運ぶ。
がつがつと食べる様は確かに食べ盛りの頃のそれだ。今まで何度も食に対して異様な情熱を見せていた訳を知り、カカシは内心納得する。
それと同時に、食べ盛りということはと連想して思いついたことを、口に出した。
「そうしたらさ、性欲の方も大変?」
ぶっと変な音を出して、イルカが咳きこんだ。
「へ? はぁ?」
顔を真っ赤にしてうろたえるイルカの反応に、初心な匂いを感じ取り、カカシはにやりと笑った。
「あー、まだかぁ。オレの時は、それこそ収まりつかなかったからねぇ。イルカはどうなのかなーと思ったけど、まだなんだ」
ふふふと小さく笑えば、イルカはむっと顔を顰めた。そして、おにぎりを口に放り込みながら、毅然と言い切った。
「無駄ですよ、暗部さん。俺は結婚するまでそういう行為はしないって決めてるんです。からかおうったって意味ないですからね」
驚くほど真っすぐな言葉を耳にし、逆にカカシが動揺した。
「え? 本気で言ってんの?」
思わず焦った声を出せば、イルカは重々しく頷いた。
「俺の夢です。結婚して、その人のことを一生愛して共に生きていく。平凡だけど幸せな温かい家庭を築いていきたいんです…!」
うっとりとカカシではない、どこかを見詰め、夢を語るイルカに、少しもやっとしたものを感じた。思うままにそれを吐き出せば、イルカを傷付けることになることだけは分かったため、カカシは「あっそ」と気のない返事を返した。
「……暗部さんも無理って思ってるんですか? 言っておきますが、俺はやりますよ! 必ずこの手に愛する人を掴んで、結婚して、一生共にいますからねっ」
意気込むイルカに、はいはいとカカシは軽く返す。
それに剥きになってイルカが言葉を強めていく度に、カカシの気持ちは重くなっていった。
叶わない夢物語を語るイルカに、甘いだけの理想を語るイルカに、イライラが募る。まだ見ぬ誰かを想像し、酩酊した瞳を向けるイルカに、どうしようもなく腹が立った。
「バッカじゃないの。そんなのいる訳ないじゃない。女なんて、虚栄心が強くて、業腹で、自分が一番可愛いとしか思っていない。性欲処理ぐらいしか役に立ったことなんてないよ。そんなものに、愛? ある訳ないでショ。初心なあんたなんて、騙されて貢がされて、散々利用されて」
「止めてください!!」
ダンと長机が軋んだ音をあげた。
席を立ち、手の平で叩いたイルカが、カカシを見詰める。
そこに怒りの感情はなく、どこか寂しげで悲しい感情が覗いて見えた。
奥歯を噛みしめた。
自分が言った言葉が、とてつもなく陳腐で、子供じみたものに思えて、居た堪れなくなった。
「……もう、いいよ。オレ、明日から来ない」
ごめんと謝ればいいのに、カカシの口から出たのは素直じゃない言葉だった。
「え?」と小さく息を飲んだイルカの声に、瞬間、喜びを感じたものの、どうしても素直になれなくて、カカシは席を立つ。
「暗部さん?」
うろたえた声で呼びかけるイルカに、心が沸きたつ。それと同時に、イルカが悪いという思いが芽生えた。
カカシがいるのに、目の前にカカシがいるのに、イルカが違うところを見るから。
まだ会ってもいない、いるかも分からない女に、現を抜かすから。
カカシが気分を害したのも、普段なら絶対言わない言葉を吐いてしまったのも、こうして素直になれないのも、全部、全部。
――イルカが、悪い。
「暗部さん!!」
戸を開けて、受付所を後にする。
一拍置いて、追い縋るようなイルカの声が聞こえたが、カカシは走る速度を止めなかった。
******
「黒髪犬の暗部さん」
砦の内部探索の命を受け、近くの丘で見張りをしていた時だった。
狸面が茶化すように、カカシへと声を掛けてきた。
「……眼、悪いんじゃない? 眼科に行ってくれば」
砦から目を逸らさずに返せば、狸面は大きくため息を吐きながら、カカシの隣へ腰掛けた。
「今日は無理だ。長期戦になるだろうから、初っ端から根詰めるな。持たないぞ」
松明を片手に、出入りが激しくなった砦の様子に舌打ちをつき、狸面へ視線を走らせる。
暗がりに没した周囲は、全ての物を闇へと同化させていた。
「鳥は?」
姿が見えないもう一人の仲間の行方を尋ねれば、狸面は肩を竦ませた。
「寝る、だそうだ。深夜の見張りは任せろとも言っていたな」
自由すぎる鳥面にため息を吐いていれば、狸面はもう一度尋ねた。
「で、どうすんだ。黒髪で、犬のお面の暗部さんとやら」
狸面のしつこい問いに、何がと返す。つれないねぇと唸り、狸面は頭を掻いた。
「受付員のことだ。あの子、お前のこと待っているぞ」
瞬間思い出したのは、イルカの笑い声だった。
よく食べて、よく笑っていた。
不意に会いたいという気持ちが沸き起こったが、カカシは息を吐いてその思いを掻き消す。もっと、イルカは反省すればいいのだ。
「べーつに。オレは会いたくないね。だいたい、ちょっとおかしいんじゃない? 少し優しくしたらつけあがっちゃって、イルカもね、自分の立場ってもんをもうちょっと分かったらいいのよ。そうしたら、オレだってそれなりに考えてやらないこともないし、会いに行くのだって考え」
途中まで言いかけた言葉は、狸面の吹き出す声に掻き消された。
そのままくくくと、腹を抱えるように小さく笑いだした狸面に驚きを禁じえない。
「ちょっと、今、任務中よ。気、弛み過ぎじゃない?」
眉根を寄せて指摘すれば、すまんすまんと狸面は起き上がり、一、二度深呼吸を繰り返し、はーっと大きく息を吐いた。
「しかし、カカシ。お前自分で何言ってんのか分かってんのか? まんまガキの喧嘩の言い分だぞ、それ」
笑いを噛み損ね、時々ぶふっと息を吐き出す狸面の言葉に、カカシの頭は真っ白に染まる。
「……は?」
呆けるカカシにツボを刺激されたのか、再び腹を抱えて、ひーひー笑い始めた狸面に、おもしろくない感情が過ぎった。
「ちょっと! 何なのよ、あんた!!」
小声で叱責するが、狸面はすまんすまんと言うだけで、笑いを止めてくれない。むっとしつつも、落ち着くまで待ってやれば、しばらくしてようやく狸面の笑い声が止んだ。
「あー。久しぶりに腹痛くなるまで笑った。そうかぁ。お前がなぁ。……あぁ、それだったら、暗部の受付所もそれなりに意味のあるものだということか」
火影さまのお考えが見えたと、小さく零した狸面の意図が知れなかった。
何か言いたいなら言えと、腕を組むカカシを一瞥した後、狸面はそうだなぁと顎を掻く。
「お前、自分の中の変化に気付いているか? あの子に会ってから、お前は変わった。それが何か分かるか?」
突然の問いに、困惑した。
変わった? カカシが?
特に身に覚えがなく、いいやと首を振れば、「鈍感だなぁ」としみじみ言われた。
思わず食って掛かりそうになった自身を何とか抑え、大人しく聞く態度を取る。
それを見届けて、狸面は小さく笑った。
「何かを感じられるようになってんだよ」
狸面の言葉に、面食らった。
突然言われた曖昧な言葉に、どう反応しようか迷っていると、狸面はそれと指を差す。
「少し前のお前なら『そう』だけで、済ましていたはずだ。そうやって思い悩むこともなかった」
バカにされた気分になった。
忍びは感情を表に出さないことを第一とする。それなのに、狸面はカカシが心を動かしていると言っているのだ。
「……ちょっと。侮辱しないでくれる? 不愉快なんですけど」
不快な気持ちを表すように、殺気を差し向ければ、狸面は気を負う素振りもなく首を振った。
「侮辱する訳ないだろう。俺はお前がそういう風になってくれて嬉しいよ。任務中のお前は忍びとして完璧だ。その年で己を律することができるのは最早才能と言っていいくらいだ。だがな、忍びでない時のお前は今までいたか? 任務から解放されたお前は、お前自身は今までどこにいた?」
静かな声に、張っていた殺気が消える。
答えられず、視線をさ迷わせるカカシの肩を、狸面は柔らかく叩いた。
「カカシ。自分の感情のまま、時には突っ走るのもいいことだ。だがな、そのとき、お前にとって一番大切なものを見失うなよ」
何も答えないカカシに、狸面は立ち上がる。
老い耄れも先に休ませてもらうわと声を掛け、林の中へと姿を消した狸面の背を見送り、カカシは小さく呟いた。
「……一番、大切なもの?」
狸面が少し悲しげに呟いた言葉が、耳から離れなかった。
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「あーぁ。結局、止めさせることできなかったな。オレ、結構自信あったのに」
「でも、今回の受付員は良くなかったか? 俺、もう少しいてもらいたいって思ったし」
「あー、分かる分かる」と、賛同する声を聞いて、血の気が引いた。
昼間、暗部の待機所で自分の荷物を整理していた時のことだ。
今晩、イルカに会いに行こうと決心し、手ぶらで行くのも気が引けて、何かあげた方がいいかと悩んでいた時だった。
世間話のようにされる会話は、イルカのことで。
過去の出来事のように、言葉を交わしていたのは、暗部の受付所のことで。
男たちが会話している内容を頭に収めた直後、自分の鼓動の音がやけに大きく聞こえた。
それから、カカシは掴みかかるように会話していた男たちに、事実を確認した後、頭が真っ白になったままアカデミーへと向かった。
まだ時刻は昼だ。
暗部の服装のまま行くことはさすがに憚れ、正規の忍び服に変化した後、暗部の受付所があった場所へと急いだ。
幸い、昼休みの時間で、子供たちは教室の中で昼食をとっている。
気配を微弱にし、滑るように廊下を走り、突き当たりの教室へとたどり着く。
汚れた戸、蜘蛛の巣の張った窓。
あのとき見た時と何ら変わらない外観の戸を横に滑らせて、息を飲んだ。
受付をするための長机と、数脚分の椅子があっただけの部屋だったはずだ。
それなのに、目の前に広がる部屋には、机や椅子が雑多に置かれ、物置と化していた。
「イルカ?」
目の前にあるものが信じられずに、名を呼んだ。
一緒に語り合い、おにぎりを食べ合っていた記憶の欠片を見つけたくて、目を凝らした。
一歩足を踏みこむ。
踏み入れるだけで舞い上がる埃に、人の気配はない。後ろ手で戸を閉めて、あれは夢だったのかとどうしようもない思いに囚われていれば、床に足跡があった。
真新しい痕跡は、最近のものだ。
祈るようにその足跡を追い、着いた先には、あの長机がぽつりと置かれていた。
詰まれてある机や椅子に隠れるように、ひっそりと置かれている長机には埃は溜まっていない。
小さく息を吐いて、長机に近付く。
撫でるように指先を這わせて、記憶の中の物と一致する、確かな物を確認していると、机の側面、壁側を向いた面に釘が打ちつけてあるのが見えた。
身を乗り出して覗きこめば、そこには袋が掛かっている。何の変哲もないスーパーの袋だ。
釘から取り外して、袋を持ちあげれば、ずしりと重たい感触がある。
何だろうと中身を見れば、そこにはおにぎりが三つと、密封されたカップ、そして厳重に幾重にも紐で巻かれている紙がある。
おにぎりとカップを置いて、紐を解いた。
紙の中には小銭がぎっしり詰まっており、包んでいた紙には、こう書かれてあった。
『ごめんなさい』と。
「あ」と声が出た。
違うと、その言葉は違うと、カカシは思う。
その言葉を言うのは――。
「オレの方だ」
突然、文字が書かれた紙が、黒く滲む。
ぼやける視界を嫌って、目元を擦った。
いつも自分の中にあった空白が、今日はやけに強く感じる。
父や、先生を亡くした時から、己の一部となっていた空白が胸を締め、痛いくらいに叫んでいた。
寂しい。恋しい。と。
己を占める感情が何かを知った時、我慢できなくなって、カカシは膝をついた。
ずっと泣けなかった。
自分の情けない感情を認めることができずに、全てに蓋をして、目を逸らし続けた。
馬鹿みたいだと思う。馬鹿だと思う。
自分はこんなにも泣きたかったのだと、一人になった己を嘆き、悲しみたかったのだと、今更のように思い知る。
「イルカ、イルカ」
零れる涙の合間に名を呼ぶ。
イルカに会いたいと願う。
イルカが恋しくて、堪らなかった。
それでも、もう今は会えない。
カカシはその機会を失った。
暗部である身では、イルカと言葉を交わすことさえ難しい。
馬鹿な自分を責めて、責めて、狸面の言葉を思い出した。
『お前にとって一番大切な物を見失うなよ。気付いたらなくなっている。そんなこと、ザラにあるんだからな』
カカシ先生を泣かせたい欲望が半端ないらしい……。ごみん、かかってんてー。