「おめぇ、明日、誕生日だったよな?」
気の置けない友というよりは腐れ縁の悪友から、すれ違い様に声を掛けられた。
「そーだけど、なに? とびっきりのイイ女とうまい酒でも用意してくれるわけ?」
オレの好みは難しいよと軽口を叩けば、女は無理だが酒とおもしれぇもんは用意できると、アスマはふてぶてしい笑みを見せてきた。
人の誕生日の何が楽しいのかオレには理解できなかったが、アスマの前にも色々と声を掛けられていた。
どうせなら綺麗どころに囲まれる方が男としても嬉しいよなぁと、歴戦のくノ一と駆け引き応酬精神修養の会へ顔を出そうかと思っていたが、ここにきて心が動いた。
アスマの自信ありげな笑みが気になるし、律儀に誕生日を祝ってくれる悪友の心遣いに感謝したこともあり、むさい野郎どもの気の置けない集まりに行こうと考え直した。


思い返してみれば、ここが運命の分かれ道だったのだろう。




******




「あーらら、盛り上がってるねぇ」
任務を終え、アスマから告げられた場所へ足を運べば、貸し切りの奥座敷は酔っぱらいの姿があちらこちらに見え、中には卓に突っ伏して爆睡している輩もいた。
出入り口に突っ立っているオレを見つけたアスマが、こっちに来いと手招きしてくる。
へべれけに酔っ払った顔見知りから不明瞭なおめでとうの言葉をもらいつつ、オレの席であろう上座へ進む。
酒豪で酒好きのアスマの飲み会となれば、こうなることはほぼ予想通りだったが、一応釘を刺しておくべきだろう。
「ちょっとアスマー。主役が一生懸命仕事してんのに、それほっといて先に盛り上がるなんてひどいんじゃなーい?」
駆けつけ一杯と渡されたビールジョッキを持ち、席に座りつつ、一気に飲み干す。
おぉぉと拍手と歓声に迎えられ、どもどもと手を上げ、唇についた泡をぬぐい取った。
覆面忍者の宿命として、それはすべて一瞬の出来事だった訳だが。
印を組んで目くらましの術をかけて、口布を取る。
常時口布をして慣れているとはいえ、外す瞬間の解放感は得難いものがある。
一つ息を吐き、もう一杯ちょうだいとアピールすれば、出入り口近くの年若い忍びが「喜んで」と叫び、部屋から出ていった。店員を呼べばいいのに自ら取りに行く様は、酔っぱらっているとしか思えない。



「意外だな。てっきり綺麗どころへ行くと思ったんだが」
斜め右に座るアスマが愉快そうに笑いながら、オレの肩を小突いてくる。
えらく上機嫌なアスマを見て、恒例の賭事をしていたのだと知る。そして、アスマは大勝したというところだろう。
反対に、アスマの隣に座っている黒髪の美女がこちらを恨めしそうに睨んでいるのを見て、あちらは負けたかと見当づけた。
「全くよ。鼻伸ばしてあの子たちのこと見てたくせに、どういう風の吹き回しかしら?」
どうやらあの美人のくノ一のお声掛けも紅の差し金らしい。
心の中でご愁傷様と呟き、素知らぬ顔で目の前に置いてある煮魚に箸を伸ばした。
「ん〜? 友人のお誘いに乗るのは、心ある者として当然でショーに。あ、ここの魚、うまいね」
嘘くさい! と叫ぶ紅に、アスマは今日は無礼講だ、とことん飲めと酒を勧めてくる。
オレの出現に、紅のように荒れ始めた一角を目に収めつつ、オレもとことん飲むことにする。そして、会場に入ってから気になっていた者について尋ねた。



「で、この人なに? ここで眠るって偶然?」
爆睡しているのか、時折高いびきをかく男に親指を向ける。
オレの斜め左で、突っ伏して眠る男。額当てを首にかけ、頭頂部の後ろあたりで黒髪を縛っていることぐらいしか、特徴をあげられない。
ベスト着用からして中忍以上だと分かるが、不特定多数の者がいる中で上忍が爆睡できるとは考えにくい為、この男は中忍なのだろう。
上忍ばかりの集まりに中忍がいることも驚きだったが、身動き一つしないで眠り込んでいる男の図太さと警戒心の無さに呆れつつも羨ましくなり、天辺で縛られている髪を軽く摘み引っ張ってみる。
反応がない。
もう少し強く引っ張ってみたが、まだ男は眠りこけている。忍びとは思えない鈍さだ。
一体この男はどこまでしたら起きるだろうと好奇心に駆られて手を伸ばしたところで、横から邪魔が入った。
「なーによ」
手を払われ、おもしろくなくて目を転じれば、アスマはあきれた口調で咎めてくる。
「悪戯すんな。起きちまったら台無しじゃねぇか」
男に悪戯って何なのと思う。そんなんじゃないよと肩を竦めて、これはアスマがわざわざ用意したものだと知った。
「アスマのおもしろいもんって、この人なの?」
オレの言葉に、アスマはどこか悪戯小僧を思わせる笑みを浮かべる。
「そうだ。今から、お前にご託宣してやる。誕生日祝いに受け取れや」
胡散臭い言葉に眉根が寄った。
いつからこいつは神とやらを信じる信心深さを身につけたのだろう。
だが、周りもオレの考えとは違うようで、アスマの言葉を聞きつけるなり、あれよあれよという間に人垣が出来上がる。
オレたちを囲む周囲の者たちはどこか浮き足立っていて、もしかしなくてもオレの誕生日祝いというよりは、アスマのおもしろいものを見るために集まっているみたいだった。
胡散臭いと思うことには変わりないが、上忍連中がおもしろがるなら、これは期待できるかもしれない。
一体何をするのか、周りの見物客と一緒にアスマの動向を窺えば、アスマは席を立つと男の斜め後ろへと座り、その肩を揺さぶった。



「おい、イルカ。お前と話したい子供がいるぞ」
イルカとは男の名か。だが、おかしなことも言った。
子供。
アスマは確かにそう言った。
どこに子供がいるんだと口を開き掛けた時、爆睡していた男が唸りながら目を覚ました。
「……こ、ども?」
寝ぼけた声と共に、顔が上がる。
まず目についたのは、顔の真ん中を横切る大きな傷。鼻の真ん中あたりに走る傷は深かったのか、大きな跡を残していた。
男の顔は眠気のために歪み、茫洋とした瞳を正面に飛ばしていた。
中肉中背のどこにでもいそうな男。この男がおもしろいと称される理由に疑問を覚えてもよさそうなのに、オレが感じたのは奇妙な胸騒ぎだった。
職業柄、人を見る目はあると自負しているが、この男から感じるのはもっと違う何か。
その何かを見極めようとする前に、アスマが指言葉でオレに指示してきた。
『こいつの名を呼べ』
訳が分からない。問おうとして、アスマは静かに首を振る。その顔がやけに真剣で、気勢を殺がれた。
周りに視線を向ければ、オレの言葉を待っているように皆固唾を飲んで見守っている。
おかしな成り行きになったと諦め半分、一体何が起こるのか興味半分、オレはその名を口にのぼらせた。



「……イルカ」
名を呼ぶだけの行為なのに、緊張したためか声が少し掠れる。
それを恥ずかしく思う間もなく、男の目がこちらへ向いた。
茫洋としていた瞳に意志が宿り、黒い瞳がつるりとした光を弾く。真っ黒い瞳は夜よりも深い闇を湛え、オレの姿を映し出した。
ぞくりと背筋が震える。指先が震え、脳内が痺れるような甘い疼きに襲われた。
囚われる。
直感的に思った。
脈拍が打ち鳴り、鼓膜を揺らす。何かの瞳術に見入られたかのように、視線が外せなくなった。
周辺の喧噪が、気配が遠のく。
男と二人、何もない、圧迫した空間に放り込まれた気がした。
黒い瞳が穿つ。蝕む。
まずい、体が動かない。声も出せない。
焦りと緊張の中、危機感だけが大きく広がり、なす術もなく瞳を見つめ返していると、不意に男が笑った。
驚くほど無邪気に、腑抜けた笑みを浮かべた瞬間、世界は元いた場所に帰される。
耳に入る喧噪、密集した人の気配、宴の用意がされた奥座敷の中。
軽い息切れをおこしている以外、体の異変は見受けられない。
手のひらにかいている汗ごと、手を握りしめた。
遅れて噴き出る汗の感触を不快に思っていれば、男の体が揺らめいた。



「美人な子だ。こりゃ、将来、男が放って置かないなぁ。今からイイ男の見分け方をしっかりと学んでおくんだぞ〜」
かしこい嫁さんになれよと、男は満面の笑みを浮かべて、こちらへ手を伸ばしていた。
頭に触れる柔らかい感触で、初めて頭を撫でられたのだと気づいた。
油断はしていないつもりだった。任務時以上に警戒を強め、目の前の男に対処できるよう気を張っていたというのに、どうしてオレは男に接触を許している?
混乱と同時にうろたえた。
想像を超えている。こんなことは今まで一度たりともなかった。
男の手を振り払うため、男を今一度警戒するため顔をあげた先で、言葉を失う。
男はオレを見て微笑んでいた。全て分かっていると見透かすように、そして手を動かす。
大きく一回、愛おしむように慈しむように、指先から男の気持ちに触れた気がした。
心臓が暴れ回ったのは始めだけで、あとは凪のように静まった。
こみ上げてきたのは、訳も分からない悲しさと懐かしさで、オレは混乱しながらうなだれる。



「イルカせんせー、その子は男の子ですー」
「そうです。ちゃーんと立派なものがついてますぅ」
周りの茶かす声に、男は驚いた声を上げて頭から手を離した。
そのことを安堵した自分と寂しく感じる自分がいて、また戸惑う。
「そうなのか!? 先生、あまりに綺麗だから女の子と思っちまったよ。ごめんなぁ。まぁ、旦那から嫁選びが困難になったに代わっただけだから間違いではないな」
うんうんと深く頷く男に、周りは冷やかしの声をあげる。それに過敏な反応をする男を見て、周りから笑い声がこぼれ出た。
そのとき、書物で読んだ学校の風景が思い浮かんだ。
男が黒板の前の教卓に立ち、小さな椅子に座っている自分たちの前で話をしている。
今日はカカシの誕生日で特別だから、男の横にいる。男の一番近くで接することができる、年に一度だけ、いや、生涯に一度だけのたった一つの機会。
そう思った瞬間、心が歓喜に満ちあふれた。だが、すぐさま否定する。
おかしい。いや、異常だ。
この場は今、異様さで満ち満ちている。
ここは学校ではなく、ましてや自分たちは男の生徒ではない。
首を振り、焦げ付いたように脳内に巣くったイメージを振り払う。
周囲に視線を向けて様子を窺った。
自分たちを囲む者たちは、誰もが屈託なく笑っている。今までぶすくれた紅も、さっきまで隣にいたアスマも、一歩退き、満面の笑みを浮かべていた。
まるで子供のような、無邪気な顔で。



ぞっとした。
血の気が引いた。
見知った仲間が大勢いるとはいえ、この体たらくはなんだ。
目の前の男が知れずもたらした場の変容に呻く。何の変哲もない男が及ぼした影響力の強さに舌打ちし、これほどまでの者がいたのかと臍を噛んだ。
この中では今、自分だけが自我を保っていると言える。ならば、何をするべきだ。男がどのような術を使って、アスマたちを取り込んでいるか分からない今、何をすればいい? 男を殺すか? いや、殺した瞬間に発動する術だったらどうする。様子を見るか、だが、あまりにもこの男は得体がなさすぎる。何をしでかすか分からない。
頭の中で対処法を弾き出す。
一つ一つ脳内で再現し、考えられる最悪なケースと照らし合わせて、外部からの応援が一番妥当だと結論を出す。
幸い男と自分の距離は近い。
自分の体で死角を作り、緊急式を作ろうとした、そのとき。
目の前をゆっくりと過りながら、男の手がオレの手を掴んだ。
あっけなく捕まった手を見つめ、声を失う。何かの冗談であって欲しかった。
男の手が近づくのは分かっていた。視線で動きを追っていたのにも関わらず、見ていることしかできなかった。
首筋がちりちりと痛む。
焦りと緊張でどうかしてしまいそうだ。
何度も死に近い場面と遭遇したことはあったが、ここまで焦ったことなどない。
男の目的が分からず、自棄になって叫ぼうとした。けれど、叫ぶ前に男が口を開く。こちらを落ち着かせるように、男は目を細めて笑った。



「大丈夫。オレは君の敵じゃない。今だけ、君はオレの生徒であり、オレは君の先生だ」
語り掛ける言葉に反発する自分と、納得しそうになる自分がいる。
振り切るように、バカなことをと叫んだオレの口から出たのは、全く違う言葉だった。
「ーーオレの師は、先生は、たった一人きりだ…!」
意識とは裏腹な言葉に息を飲む。
どうしてだと自問する前に、声は意識を裏切り、なおも言葉を紡いだ。
「お前なんて知らないし、いらない。オレにはミナト先生一人だけで十分だ!」
叫ぶように拒絶するように鋭く言った言葉は、どこか揺らいでいて、そのことにひどく胸が痛んだ。
なぜか悔しくて悲しくて、泣きそうになる自分を押さえながら男を睨んだ。
男はオレの言葉にただ微笑んで、そうかと頷く。いい先生だったんだなと、オレの言葉を反論せずに認めてくれた。
「君にはもう先生がいたのか。ごめんな、無理強いするつもりはなかったんだ。そうだな…、だったらオレは人生の先生だ。君のミナト先生とは少し違う分野での先生。言っておくが、先生はたった一人と決めつけなくていいんだぞ?」
男の言葉に、小さく息を吐く。奪われずにすんだと強く思った。
強ばっていた肩から力が抜け、流れ落ちそうになる鼻水を手の甲でこすった。
男はオレが落ち着いたことを見計らい、柔らかい声で尋ねてきた。
「なぁ、改めて自己紹介しないか? オレはうみのイルカ。イルカ先生って皆からは呼ばれている。君の名前は?」
両手を軽く握られ、顔をのぞき込まれる。
頭の頭頂部で結ばれた黒い髪が揺れる。犬のしっぽみたいだとよそ事を考えながら、小さく名乗った。
名乗った相手に名乗らないのは失礼だと、小さい頃から父に言われていた。
「はたけカカシ」
ぶっきらぼうに呟けば、イルカ先生はそうかと弾んだ声をあげる。
「はたけカカシ。カカシか」
断りもなく頭を思い切り撫でられて、頭にきた。オレはもう一人でも任務へ行ける忍びだ。周りにいるような、アホ面を晒しているガキとは違う。
周りの視線も気になって、止めろと手を払おうとすれば、イルカ先生は元気がいいなと両手を使って、手荒く髪はおろか顔までも撫でてきた。
「もう、何なのよ! アンタ、うざい!」
「なーんだよ、そう癇癪起こすなって、ちょっとしたスキンシップだろう? おー、ぷにぷに」
頬を両手で挟まれ、感触を確かめるように強弱をつけて押される。手を離せと引きはがしにかかるが、イルカ先生の手はちっとも動かなかった。
思い通りにならなくて顔に血が上る。
ガキの扱いをされている自分が恥ずかしくてたまらず、呪い殺すように睨みつけていれば、イルカ先生は眉根を落とした。
「んー、カカシは人との触れ合いをもう少し増やすべきだなぁ。そうだな。大人との触れ合いよりは子供と触れ合う方がお前も安心だろう。近々、元気なお子さまが突進してくるだろうから、それ受け止めて、オレみたいに撫で回してやれ」
「……言っている意味が全然わかんないんだけど」
頬を押し揉みされつつ訳の分からないことを言われ、不機嫌にも拍車がかかる。
イルカ先生はオレの顔を見るなり、しょうがないなぁと苦笑して、突然抱き上げてきた。



「ちょ、何!? 一体何すんだよ!!」
突然浮き上がった体に動揺して叫ぶ。
イルカ先生はオレの慌てる様も無視して、膝へ横抱きに抱えた。
イルカ先生の肩に頬が触れる。腕の中にすっぽりと覆われて、緊張と羞恥で頭が爆発しそうだった。
文句を言おうと顔を上げれば、イルカ先生の顔がふれ合うほど間近にあった。
「な、な!!」
案外長いまつげと、透き通るように黒い瞳が間近にあって訳もなく焦る。
「ち、近い! 顔近付けんな、変態!!」
額を遠くに押しやるように手を突っぱねれば、イルカ先生は暢気に笑った。
「カカシは恥ずかしがり屋さんだなぁ」
「うるさい! アンタが常識なさすぎなんだ!!」
しばらく拘束から逃れようと頑張ったが、どういう訳かちっとも逃れる気がしなくて、しかも、足掻いているオレを微笑んだまま見下ろす態度も気に食わなくて、オレは抵抗を止めた。
「あれ、もう終わりか? もっと暴れても先生は大丈夫だぞ」
あっけらかんと言ってきた言葉に腹が立つ。
体力の無駄だと分かったと吐き捨てれば、イルカ先生は辛そうな笑みを見せた。
あれほどバカみたいに笑っていたのに、急に顔を曇らせたことに驚いた。
「そ、そんなに傷つかなくてもいいでショ!! 言っておくけど、アンタのこと嫌いっていうんじゃなくて、この格好が……!!」
嫌なんだと主張する前に、イルカ先生は小さく首を振り、ありがとうなと泣きそうな瞳でオレに言う。
イルカ先生が泣きそうになるとオレまでもつられてしまいそうで、泣くなと叫べば、うんとイルカ先生は頷き、オレを抱きしめてきた。
イルカ先生の匂いと体温が体を包む。
少し緊張はしたけれど嫌な感触と気配はなくて、オレはされるがまま抱きしめられていた。


「なぁ、カカシ」
何となく下を向いて、イルカ先生の体温をただ感じていると、声を掛けられた。
「なに?」
視線を上げれば、イルカ先生はオレをまっすぐに見下ろしていた。相変わらず泣きそうな顔は変わらなかったけれど、何か言いたそうな気配を感じて口を閉じる。
そのうち、イルカ先生は静かな声で語りだした。
「お前の運命は、お前が思っている以上に過酷だ。大切な人と出会いながら失う定めを持っている。そして、お前はそれを何となくだが理解している。それはすごく辛く悲しいことだ」
突然の言葉に動揺した。
ずっと隠していたものに触れられた気がして、体が固まる。
声もなく、イルカ先生を見つめていると、イルカ先生は何度もオレの頭を撫でた。
「けれど、それに絶望する必要はない。お前が今まで死に物狂いで築き上げたものが、その定めを凌駕するときが必ずやってくる。お前はお前の選んだ道を信じればいい。お前が今まで頑張って、掴みとった小さな良心をしっかりと胸に抱いて、歩み続ければいい」
まっすぐな瞳は、言葉とともにオレの中へ深く染み込んでいった。
喉が痛いと思った。
鼻の奥も痛い。
声は出ず、視線を外すこともできない。
何かの衝動が突き上げてきたが、どう発散していいか分からず、オレはただ見上げる。
イルカ先生は小さく笑って、オレの頭を抱きしめた。
「困った奴だなぁ。こういうときは泣けばいいのに。オレの胸を貸しても、それでもお前は泣けないんだろうな。でも、カカシ、お前はきっと泣けるようになるよ」
胸の中、縋るように服を掴む。
イルカ先生の呼吸と体温を感じながら、オレは息を殺して言葉を聞いた。
「お前には、運命の相手がいる。その相手と会えば、お前はきっと泣けるようになる。それにな、その人は決してお前をーー」
小さく耳元に落ちた言葉に息を飲むと同時に、イルカ先生の体が傾いだ。
え、と思う暇もなく、抱えられていたオレの体は後ろに倒れるイルカ先生と共に畳へ倒れ込んだ。



「っ!」
成人男性が二人倒れ込んだ音と衝撃に、意識が覚醒した。
跳ねるように身を起こせば、拘束していた男の腕はもはや力はなく、オレが起きた拍子に畳の上へと転がった。
目の前の男は大の字になって、再び高いびきをかいて眠り込んでいる。
夢か幻だと思い込みたかったが、周囲の声がその思いを打ち消す。
「あー、何か、いい話だった」
「心が洗われたなぁ」
「カカシ、運命の人いるんだ、いいなぁ」
ぐすぐすと鼻を鳴らし、お開きだとばかりに奥座敷を出る者たちに声が出ない。
「え、ちょ、ぅえ!?」
あれだけ警戒していたのに、オレは一体何をやってるんだ。
あの男と喋っていたオレは、途中から子供のオレになり代わっていた。たぶんあれは、小生意気な少年時代のオレだ。
遅れて顔に熱が集まる。
途中から人の気配なんて全く気にしなくなっていた。男に抱き上げられるばかりか、甘えるように縋ってしまうなんて、何て情けないところを見られたのだろう。
わーわーと内心で騒ぎまくっていると、最後まで残っていた、幹事役であろうアスマが眠りこけている男の体を肩に担ぎ上げようとしていた。



「ちょっと! どこに連れていくつもり!?」
連れ去ろうとするアスマに、つい咎めるような声が出る。アスマの隣では紅が渋々という様子で勘定の計算をしていた。
「あ? もちろん、こいつの家に送り届けてやるんだよ」
「家? アスマ、この人の家知ってるの?」
オレの言葉にアスマはおろか、紅までもが目を見開く。
一体何なのだと眉根を寄せれば、紅が口を開いた。
「あんたが初対面の相手の動向を気にするなんて珍しいー。まぁ、おおかた、イルカ先生の力が気になるんだろうけど、残念ね。あんたの個別指導はこれでおしまい。あんたにあの力が発動することはもう二度とないわ」
思ってもみないことを言われて瞬間呆ける。だが、普通に考えるならば、紅のように考えることが普通な訳で。
自分の心境に戸惑っていると、紅が訝しげな表情でこちらを見た。何となく心の内を知られたくなくて、調子を合わせることにする。
「で、具体的に何なの、あれ? 個別指導ってどういこと。アスマはご託宣とか言ってたけど」
覚えていたかと軽口を叩くアスマに目を向ければ、アスマはタバコを胸ポケットから取り出すと、口にくわえた。
「知っている奴は知っているんだがな。こいつ、妙な力持ってんだ。一個人に対しての過去から未来が見えるらしい」
「……よく当たる占いみたいなもん?」
胡散臭いことに変わりはないが、聞き慣れた言葉を出せば、少し首を傾げられた。
「そうだな。始めはそう思ったんだが、イルカの言葉は全てが本物で出来てやがる。占いというよりは予言。予言というよりは託宣が近いんじゃねぇかとオレは思ってる」
やけに詳しいなと思っていれば、アスマはタバコに火をつけ、首を竦めた。
「こいつは弟みたいなもんだ。九尾の事件で、親類縁者が一切いないイルカを親父が保護した経緯でな。だから、たいていのことは知ってる」
「……誰もそこまで聞いてないでショ」
「何言ってやがる。おっかねぇ顔してこっち見てたくせに」
そんなことは絶対ないと主張する直前、アスマの肩にぶら下がっている男がかすかに呻いた。
「おっと、こうしちゃいられねぇ。こいつの力は部外秘に加えて禁止されてんだ。裏工作しなくちゃなんねぇから、オレは抜けるぜ。後は紅に聞けや」
制止の声を掛ける間もなく、アスマは白い煙を立たせて消えた。
白煙が薄く消え行く中、不貞腐れたような声が出てしまう。
「……何なのよ」
引き留めようと出しかけた手が何となくばつが悪い。
誤魔化すように握りしめて引き戻せば、にんまりと笑っている紅の瞳とぶつかった。
「……なに?」
「いえ、ねぇ。さーて、どうしようかしらぁ。アスマはああ言っていたけど、個人情報をあれこれと喋るのはいけないことよねぇ」
明け透けな紅の脅し文句に、アホらしいと自宅に帰るために足を踏み出せば、背後からぼそりと聞こえた。
「あら、いいの? 言っておくけど、イルカ先生の情報は今や火影様預かりの極秘情報よ。アスマは色々と口止めされているし、今のところフリーなのは私ぐらいなんだけど」
どうすると挑発的な言葉に反発心がもたげるも、なぜかオレの足は、そこから一歩も動かなかった。




******




すっかり薄くなった懐の財布に少しため息を吐きながら、誰もいない道を一人歩く。
空を見上げれば、煌々とした月が闇夜にかかっている。
今宵の月は満月に近く、夜の任務に行くには不向きな状況だ。
そこまで考えて少し笑う。
月を愛でる気持ちはオレにはないか。
月を眺めながら自宅への帰路を進み、もしうみのイルカだったらと考えて、何も思い浮かばないことに気がつく。
託宣を口にするうみのイルカは、先生という位置づけが正しい気がした。
先生としてのうみのイルカならば、お前はどう思うとオレに聞くのだろう。自分の意見は言わず、オレの気持ちを引き出そうと話を展開させていくはずだ。
でも、あのうみのイルカではない、うみのイルカならば何と言うのだろう。
話したことはない、存在だって今日知ったくらいだ。
それなのに、その気持ちを、考えを、知りたいと思う自分はどこかおかしいのだろうか。
「よく、わからないねぇ」
ため息と同時に呟く。
月明かりは、夜目が利く忍びには眩しすぎるくらいだ。
それでも中天に掛かる月を見上げ、紅の話を思い返した。



「うみの家の本家は、大昔、神を祭る一族だったらしいわ」
そう切り出した紅の話は、到底信じられない、胡散臭いたぐいのものだった。
昔、今となってはいつの頃かも知れぬ遠い昔、神を祭っていた一族がいた。
その神は姿を持たず、代々うみの家本家の男の長子に宿り受け継がれていくものだった。
過去から遠い未来のことを見据える能力を持ち、その時代時代の有力者たちの力となっていたらしい。だが、その神は穢れを嫌い、穢れに触れると力を失うともされていた。
ここで指す穢れは、人の死や流血、争いごともそれに入る。
今も昔も、戦のない時は存在しなかった。
うみの家が守り受け継いできた神は、時と共に穢れを蓄積し、とうとうその力を無くし、その存在さえ危うくなった。
そのとき、神は言葉を残したらしい。
「私の力はもはや費えた。しかし、愛し子たちよ。私はそなたたちの心に住まおう。そなたらと共に私も生きよう」と。
優しく、人が好きだった神だったらしい。そして、うみのの一族もその神を深く愛していた。
うみのの一族は、その神の言葉を大切にし、子々孫々と受け継いだ。
『この身に宿るは我らだけの命ではない、人を愛し慈しみ、そのためにいなくなってしまった希有なる神の御魂が宿っている。ゆめゆめ忘れるな』
時を越え、時代を経て、その神の御魂は、うみの家の血筋を引く、最後の生き残りであるイルカが受け継いだようだった。
うみの家の分家の末端であったイルカは、詳細は知らないものの、幼い時、昔話と一緒に父親から話してもらったようだ。
「この体には自分の心と、そしてうみのの家とあらゆる人を慈しみ守ってくれた優しい神様の心が宿っているんだよ。だから、イルカ、自分を粗末にしては駄目だよ。お前は一人ではないのだから」
何でも好奇心を持って無茶をするイルカの安否を気にしての言葉だと幼心にイルカは思ったらしいが、あるときイルカは感じたそうだ。
九尾の事件で一人きりになった自分に寄り添ってくれる何かの存在を。
そのとき、イルカはようやく声をあげて泣くことができた。
九尾の事件以来、一人ぼっちだと心を閉ざしていた自分とようやく別れることができたのだと、後にアスマに話したという。



はぁと月を仰ぎ、ため息を吐く。
あのおかしな場は、神由来の能力だと紅とアスマは結論付けているようだった。
忍びに神も鬼もあったものではないだろうにと思う反面、うみのイルカのあの影響力を見てしまえば、他に説明が思い浮かばない。
うみのイルカが初めてあの能力を発現したのは、どうやら三代目火影の前でらしい。
縁側で昼寝をしているイルカを見つけて、風邪を引くぞと起こしたときに、イルカは突如あのような状態になったそうだ。
三代目も始めは寝ぼけているのだと思っていたようだが、自分の過去を言い当て、ずっとくすぶり続けていた存在の名を出したことで詳しく調査することにした。
その結果、うみの家の口伝を知り、そして他国にあったうみの本家は先の戦で滅んでおり、イルカが実質最後のうみの家の血を引く者だと判明した。
だが、神の御魂が宿るとはいえ、神の力はすでに失われている。なのに、どうしてイルカにその力が使えるのかは全くもって分からなかった。
しかも、その力が発現するのは、一定の決まり事がある。
イルカの深い眠りを覚ました直後、誕生日を迎えた者が『イルカ』の名を呼んだ時のみ、イルカはあの状態になり、その者の行く末を告げる。ただし、それは生涯に一度きり。
おもしろいことに、イルカはその状態時は常に先生モードだという。イルカには対象者は子供の姿で見え、ある者は叱られ怒られ、ある者はこんこんと説教され、ある者はげんこつを落とされたという話だ。
偶然にもその決まり事を踏み、イルカの託宣を聞いた奴は多いのではないかと紅に聞けば、答えはノーだった。
不幸か幸かわからぬが、忍びが深く眠りにつくのはほぼ里内限定だ。そして悲しいことに、イルカには彼女がいたことがないらしい。
けれどそれだけではない何かを感じて、紅にしつこく聞けば、紅は提示額の二倍を示してきた。
嫌みを交え快く払ってやれば、紅はこう言った。
「イルカ先生のご託宣が受けられる条件としてもう一つ。ここ数年生存できる者限定なの。決まり事を守って実行しても、ご託宣がないということは、その人はここ数年で死ぬ運命だっていうことになるの」
こういう商売だからねと、紅は結んだ。
三代目が口止めしたのも、ここら辺が理由だろうなと思う。
ここ数年で自分が死ぬと知れば、上忍といえど心安らかにはいられない。



「……オレの託宣なかったら、あいつらどうしてたんだろうーね」
ふと思いついて、顔が歪む。
どうせあいつらのことだから、こっちが知らないのを逆手にとって、無礼講だと叫んでなぁなぁにして終わらせるつもりだったのだろう。
納得のいかない何かを覚えるが、過ぎたことなのでどうしようもない。
「生涯に一度の託宣かぁ」
託宣時のうみのイルカは、自分がしたことを記憶していない。一歩間違えれば混乱をきたす能力のため、三代目は能力のことをうみのイルカに告げなかったそうだ。そして、本人に知られてはならぬと箝口令を布いた。
そのおかげで、オレはうみのイルカの情報を頑として教えてもらえなかった。
そもそもうみのイルカの託宣は禁忌事項に入っており、託宣を受けた者たちもほとんど偶然の者たちばかりのようだ。アスマのようにああやって会場を整えて、公にやること事態まずいようで、紅から自然に出会う以外の接触は禁止と言い含められた。
探ることも見る事も駄目、さもなくばその記憶を消すと、アスマから伝言を言付かったと、真顔で言った紅に苦笑してしまった。
けれど、それより一番苦笑いしてしまうのは、



「会いたいと思っているオレ自身なんだよねぇ」
あーと、訳もなく声を出す。
月の光が届かない暗がりを選びながら歩き、独り言を呟くオレは不審人物そのものだ。
「記憶を消されるのは嫌だし、このまま会えないのも嫌だし、とーんだ誕生日だーね」
誕生日というものに拘りはないはずだったが、こんなに切なくてもどかしい思いを抱える日にならなくてもいいはずだろう。
イチャパラのセオリー通りならば、誕生日はもっとふわふわしていて、甘ったるい砂糖菓子のようなトロケるような極上の一日であるべきなのだ。
首を上げ、顎はこれ以上ないくらい突き上げているというのに、鼻の奥から鼻水が垂れてきそうだった。なのに、自分の瞳には涙の一粒さえ浮かばない。
うみのイルカの言葉を思い出す。


『お前には、運命の相手がいる。その相手と会えば、お前はきっと泣けるようになる。それにな、その人は決してお前をーー』


「『悲しませたりはしない』、か」
耳元に落とされた最後の言葉を唱える。
途端に締め付ける胸の痛みと、身に巣食う空しさに、奥歯を噛みしめた。
うみのイルカはとんだものをプレゼントしてくれたみたいだ。
うみのイルカの言葉を聞いて思った。
運命の相手がいるというなら、その相手にまだ会っていないオレはとても孤独なんじゃないかと。
出会うべき相手と、未だ邂逅できていないオレはさびしい奴なんじゃないかと。
思ってしまえば、忘れていた感情が蘇った。
悲しい。
一人ぼっちのオレは、とてつもなく悲しくなってしまった。
「ーー責任とってよ、うみのイルカ」
月に向かって胸の内を吐き出す。
思い出したくなかった感情を暴いた詫びをしろよと、恨ましげに言う。
一人だと痛感させられてしまった悲しみをどうにかしてよと詰る。
淋しいと死んじゃう動物がいるように、オレは悲しいと死んじゃうから、だから、あんたがオレを癒してよと、八つ当たりめいた言葉を繰り返す。
子供のオレを抱きしめてくれたなら、今のオレだって抱きしめられるでショ。あのときは泣けなかったけど、今度抱いてくれたら、きっと泣けるんじゃないかと思う。
涙は忘れたと、泣いてはいけないのだと我慢を強いた自分を、ようやく許せると思うのだ。



仰ぐ月は相変わらず白い光を放っている。
うみのイルカと自然に会える頃には、オレは運命の相手と出会えているのだろうか。
そんなことを考えた。










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遅くなりましたが、カカシ先生誕生日おめでとー!!
……あんまり祝えていないですね。はは。








運命