「いや〜、本当にアミィちゃんにかかったら、チェスターって子猫みたいだね」
ようやく笑いを引っ込めたクレスに、チェスターは仏頂面のまま、じろりと一瞥した。
「え、どうしたの? チェスター」
「……そこまで大笑いされたら、オレだって気の一つぐらいは悪くするさ」
「え、ご、ごめん。僕そんなに笑ってた?」
自覚はないのかとばかりに、チェスターは思いっきりため息を吐く。
チェスターの家を出、村から出てからも、クレスは思い出すようにクスクスと笑い続けていた。これで気を悪くしない奴がいれば、よっぽどの人格者であろう。いるものなら会ってみたいと、チェスターは心中ごちる。
「えへへへ…。ごめん、チェスター」
頭を掻きながら、愛想笑いを浮かべるクレスに、チェスターはにやりと笑う。
「よし、悪いと思うなら…。命に代えても大物を捕って帰るぞ!! いいな、クレス!」
「え…。命に代えてもって……」
あからさまに顔色を変えるクレスの反応に、チェスターは大笑いした。
「冗談だって。命に代えるまではいかないが、クレスには大いに働いてもらうからな! 覚悟しとけよっっ!」
情けない顔で頷くクレスに、また笑い出すチェスターだった。




二人は村の南にある森へと歩き出す。
ここはトーティス村の人々が狩りやきのこなどを採集する場所として、頻繁に訪れている場所である。
クレスたちも小さい頃は遊び場として、そして今では狩りをするためによく訪れている。
いつも通っている森へ続く道を、ゆっくりと歩いていたチェスターが、ふとクレスに声を掛ける。
「なぁ、クレス。オレずっと前から気になってた事があるんだよ」
「ん、何?」
「そのさ…アルベイン流道場は、バンダナをつける決まりでもあるのか?」
「え? そんなものないけど。いきなりどうしたの?」
チェスターはちらりと、クレスがいつもつけている額の赤いバンダナを目にやる。それにつれられて、クレスも自分のバンダナを見た。
「だってよ、お前もお前の親父さんも、それに門下生の奴らもつけてるじゃないか」
「え?! いや、別になんとなくだけど……。でもトリスタン師匠はつけてないよ」
「プッ!! あんな蝿も止まれないような頭につけられるわけないだろ!」
「そうか。プッ、あはははっはははは………は……」
クレスの笑いが途中で、引きつったまま止まった。どうしたのだろうとクレスを見やったチェスターも息を呑み、笑いを止める。
クレスの斜め後ろに、話題の本人が殺気だった様子でこちらを見詰めていたのだった。
「……ト、トリスタン師匠……?」
「ん、クレスにチェスターか……」
鋭い眼光に射抜かれ、クレスたちは背中に嫌な汗をにじませる。クレスの耳へ口を軽く寄せ、チェスターは小声で問いかける。
「タイミングが悪すぎだ。聞かれてたと思うか?」
「わ、わかんないけど…。どうだろうね……」
ひそひそと話す二人に、トリスタンはぎらっと視線を向けた。
「何を話しておるんじゃ?」
「いえ! べ、別になんでもありませんよ!」
「ト、トリスタン師匠はもうお帰りなんですか? お早いですね!」
チェスターに続いて、クレスも早口で言い繕う。瞬間、ものすごい形相で見詰められ、たまらず二人は目を閉じた。
「お〜、そうなんじゃよ〜。聞いてくれるか! クレスにチェスター!!」
『……はい?』
ものすごい罵声が飛び込んでくると思いきや、駆け寄るなり、なぜかトリスタンは饒舌に話し出した。機関銃の如く喋りだしたトリスタンは、いつ息を吸っているのだろうかと思える程である。
内容は、道場の稽古をつけに行くため、ここに自分がいることを知らせるなと言っておいたはずが、客が来たと伝言役に見知らぬ者を寄越され、しかもその客人の名前すら告げずに去っていったということだ。
トリスタンはミゲールとの会話や、ミゲールが目をつけている有望な若者を育てることを唯一の楽しみとしているため、それを邪魔されることを徹底的に嫌がる。
その辺りの事情も相まってか、トリスタンの腹の立ちようは目を見張るものがあった。
「まったく! わしの楽しみを邪魔するばかりか、礼儀知らずな者を寄越しおって! 近頃の若者は礼儀というものをしらん!」
『……はぁ……』
二人はただ頷くしかない。
「どういう客人か知らんが、待たせるわけにもいかんし、わしは帰らねばならんのじゃ! まったくもって腹ただしいことじゃて! …こういうわけじゃ、それじゃぁの…」
トリスタンは二人の挨拶も聞かず、町へと帰っていく。そんなトリスタンの後姿を見て安堵の息をついた時だった。突然、トリスタンは二人に振り向き、にっこりと笑った。
「チェスターにクレスや。影口を叩く時は回りに気を配るものじゃよ。それじゃの、ほっほっほっほ」
固まる二人を残し、朗らかな笑い声をあげてトリスタンは去って行った。
「……底知れねぇ、爺さんだぜ」
チェスターはトリスタンが去った方向に視線をやり、頭を掻いた。それにつられて、青みがかった髪が揺れる。
「うん……。いつから、あそこにいたのか気がつかなかったよ……」
二人は顔を見合わせ、重いため息をつく。狩りへ行く前から、どっと倦怠感に襲われた二人であった。




ようやくという思いで目的地の森へと到着した。
むせ返るような森の匂いが二人を出迎える。目には見えないが、密やかな生き物の気配や鳥達の鳴き声、ざわめく木の葉、虫達の合唱などが聞こえ、森のにぎやかさを窺えることができる。
クレスの胸に心が躍るような興奮に似た気持ちがこみ上げてくる。
「よし!」
胸の辺りで両手を握り締めた。
「さてと行きますか。狙うは大物だからな!」
「アミィちゃんが喜ぶような、だろ?」
チェスターの言おうとしていた言葉を先に言い、クレスはチェスターに視線を向ける。面食らいつつも、チェスターは切れ長の目を細め、にやっと笑んだ。
「そうそう。わかっていればいいんだよ」
笑みに応えて微笑んだ直後、チェスターが叫んだ。
「クレス、運がいいぞ! 大物だ!!」
叫ぶと同時にチェスターは走り出す。
森の奥深くに、遠目でもわかるくらい大きな猪がいた。ワンテンポ遅れてクレスも走り出す。猪も追っ手に気付き一目散に駆け出した。
「クレス、二手に分かれよう。挟み撃ちだ!」
「わかった」
チェスターの気配が横の林に消えるのを感じる。
猪は茂みの中へと次々に飛び込んでいく。幼少の時代から親しんだ森を強みに、クレスもその後を追いかけた。
人の通らない獣道を行くため、木々の枝が引っかかり、クレスの身体は擦り傷だらけだ。
どのくらい走り続けただろうか。
気が付くと、クレスは猪を見失っていた。
確かにこちらの茂みの中に飛び込むのを見たのだが、実際自分が飛び込むと猪の姿はどこにも見当たらない。回りは木々と葉が茂っているだけで、猪の気配さえ感じられない。
「まずいな…。どこに行ったんだろ…」
焦りが言葉となり口をついて出る。
目の前の茂みをかき分けると、視界が急に開けた。太陽の白い光が一瞬目を灼く。




「――――!」
次に目を開けた瞬間、息を飲んだ。
目前には、緑が生い茂る、巨大な樹がそびえ立っている。
太陽の恵みを一身に受け、まるで天にも昇る勢いで枝を伸ばし、大振りな枝には、小鳥たちがにぎやかにさえずっていた。
その樹はクレスが今までに見たことがない程、雄々しく、美しさに光り輝いていた。
言葉もなく魅入られていれば、大樹の前に女性が現れた。
薄絹を纏った、美しい女性。
宙に浮かぶ女性の出現に驚く間もなく、女性はクレスを見詰め、形の良い唇を動かした。
『樹を…、樹を…けがさないで……』
透き通る声が、風と共にクレスの耳元を過ぎる。




はっと我に帰った時、目の前には女性はおらず、大樹がただそびえ立っているだけであった。
しかし、その大樹は先程の緑が生い茂るものではなく、今にも朽ちそうな大木だ。
葉はほとんど落ち、残っているわずかな葉も風にそよがれるだけで、はらはらと落ちていく。
目を何度も瞬きし、擦っては目の前の大木と、先ほど見た樹を思い比べるが、似ても似つかない。
白昼夢にでも襲われたのかと思い始めた矢先。
クレスの真横から小枝を踏み荒らし、こちらに向かってくる気配が感じられた。ただならぬ気配に、腰に提げた剣を抜き、身構える。




「クレス、そっちに行ったぞ!」
チェスターの声が聞こえた直後、茂みの中から巨大な影が飛び出す。それは向きも変えず、クレスに突っ込んできた。
「っ!!」
とっさに身をひねりそれをやり過ごすが、バランスを崩し地面に倒れ込む。
「クレス、大丈夫か!?」
猪の後からチェスターが駆けつけてきた。
「大丈夫…。久し振りの大物だね…」
服についた汚れも払わずに、目前の猪の姿を確認し生唾を飲み込んだ。
猪はクレスより二倍はあるかという大きさだ。
山のような背にはチェスターが射たと思われる矢が数本立っており、少量の血が流れているが、弱まっている様子はない。
獰猛な息をつき、鋭利な牙がそびえ立つ両端の口から泡が出ていた。両眼は赤く血走り、怒りの目をクレスたちに向けている。
「ああ、結構タフだぞ。気をつけろ」
猪から目を離さずに、真剣な表情でチェスターが囁く。クレスも目はそのまま、ゆっくりと立ち上がり赤いマントをはたいた。
猪は荒い息をついたまま、前足で地面を蹴り、突進の予備運動を行う。自分を追い掛け回す、鬱陶しい追っ手に一矢報いる考えだろう。
深く息をはき、次の瞬間、猪に向かって走り出した。
「デヤァアアア――――!!」
飛びあがり、渾身の力を込めて剣を振り下ろした。剣が猪の鼻面に当たる直前、猪は鋭い牙を横に振る。
かち合う音が響き、青い火花が散る。
弾かれぬよう剣を力強く握り締め、振られた真横の衝撃に乗って、猪の右目に回し蹴りを放った。だが、蹴りなどではびくともせず、猪は身を振るってそれをやり過ごす。
いつもならば、もう一度踏み込むところだが、今回の相手は頑丈だ。ひとまず体勢を立て直すべく、後ろに飛び下がり間を開けた。
猪の血走った目が、クレスへと注がれる。こちらに突っ込もうとする意志を受け、背中が総毛立った。
わずかな恐怖心を押し込め、受けてやると息を吐いた刹那。 クレスの耳の横を鋭い音と共に何かがよぎる。
それは、真っ直ぐ猪の眉間に吸い込まれた。
「グォォォオォォォォオッッッン」
猪は苦しげに叫び、頭を一、二回大振りに振ると地面に身を沈める。そして、そのまま微かな痙攣を残し、二度と起き上がらなくなった。
猪の眉間に深々と突き立った矢を見た後、後ろを振り返る。すると愛用の弓を手にした、チェスターの満面の笑みが目に飛び込んできた。




「へっへっへっ」
「はぁ〜、やったね、チェスター。お見事!」
「ありがとな。お前が猪の動き止めてくれなきゃ、外してた。……しっかし、お前がいきなりあんなでっかい大物に飛び掛った時は驚いたぜ。クレスも強くなったな〜。始めは逃げてばっかりだったってのによ」
チェスターの言葉に、クレスは心外だと眉根を寄せる。
「何、言ってるんだよ。チェスターだって始めは獲物じゃなくて、僕に当てるほどの腕だったじゃないか。おかげで、チェスターの前にしばらく立つことができなくなった。…忘れた訳じゃないだろ?」
チェスターはとぼけた様子で、視線を合わせようとしない。
「……それが、今じゃ、こんな大物を一発で仕留めるようになって」
しみじみと言葉を漏らしたクレスに、チェスターは思わず目を向ける。
しばし二人は顔を見合わせていたが、クスクスとどちからともなく笑い出し、ついには大声で笑いながら、お互いの肩を叩き合った。
「これで今晩の夕飯はお預けにならずにすむね、チェスター」
「ああ、これだけの大物は滅多にないからな。アミィの奴、大喜びだぞ。ついでに、クレスのマーボカレーの材料も手に入ったし、楽しみにしてくれ」
クレスは歓声をあげて、早速猪の皮を剥ぎにかかろうと、小刀を取り出す。鼻歌交じりのクレスに続き、チェスターも手伝おうと手を伸ばした。
その時、チェスターの耳に不吉な音が聞こえた。
振り仰いで周辺を見渡し、ある方向に視線を止める。
「……クレス。何か聞こえないか?」
「え?」
見上げれば、手を伸ばしたまま固まっているチェスターがいた。チェスターは厳しい表情で、切れ長の目をトーティス村の方向へと向けている。
「……この音。……まさか…!?」
チェスターが全身を強張らせ、吐き出すように叫んだ。
「警鐘だ…。警鐘が鳴っている!!」
「え?」
立ち上がり、耳に手を当て神経を集中させる。
カンカンと、硬質的な音が風に乗って聞こえた気がした。微かだが、確かにトーティス村の方角から聞こえてくる。
「あの煙は…」
チェスターは目を細め、村の方角から立ち上ってきた白と黒の煙を見詰めた。言い知れぬ予感が二人の胸をよぎる。
先程まで明るかった空は暗雲が立ち込め、いつの間にか重い雲が広がっていた。それに伴い、地上へひそやかに闇が舞い下りてくる。
「…アミィ……」
うめくように呟いたチェスターの顔は蒼白だった。
「クレス、村に戻るぞ!」
「ああ!」
二人は仕留めた猪をも忘れ、村へと走る。不吉な雲を気にしながら、ただ走り続けた。
枯れ果てた大樹は、二人の後姿を黙って見詰めていた。





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