「くそ…」
舌打ちと共に牢の壁を叩いた。分厚い壁はクレスの手に堅さだけを伝えてくる。
一面は頑丈な鉄格子がはめ込まれ、明かり窓もなく、分厚い石壁に三方を覆われた牢からの脱出は、不可能に思えた。
父母の、トーティス村の皆の仇を見つけたというのに、ペンダントを奪われるばかりか、閉じ込められてしまうなんて。
このままでは仇を討つことができないばかりか、自分の命さえも危うい。
仇を前にして、手も足も出せなかった自分の弱さに嫌気が差した。
壁を叩き、自分の不甲斐なさを責める。胸の内に滾々と溢れ出る黒い感情が身を燃やし、にじりつく。
憎かった。
初めて、人を憎いと思った。憎しみがこんなに強い感情だとは思いもしなかった。
今ならば、迷いも無くクレスは剣を振るえるだろう。無慈悲に、冷酷に、相手の心臓へと冷え渡る刃を突き刺せる。
あの黒い鎧の男の身へ刃がかかる刹那を思うだけで、クレスの心は歓喜に沸き立つ。
だが、それはあくまでも妄想でしかない。
歯軋りをして、己の鎧を引っかいた。情けと言い放ち、自分の装備を返した黒い鎧の男を思い出す。
自分には一生勝てはしないと、言外に言い放った眼差しが悔しくてならない。
身につけていた鎧一式を返したのも、その思いの表れだろう。
『弱き者よ』
あの男の言葉が胸を貫く。
「力が、欲しい…」
壁に両手を突き、額を押し付ける。頭を後ろに振って、思い切り壁に打ちつけた。
(力が欲しい)
父を殺した仇を討つ力が欲しい。
もう一度頭を後ろに引き、壁に打ちつけた。
(力が欲しい)
母を殺した仇を討つ力が欲しい。
再び頭を引いた。
(力が欲しい)
あいつを倒す力が欲しい。
何度も後ろに引き、何度も打ちつけた。弱い自分を詰り、憎い仇を恨み、ただひたすら力を求めるように、呪うように打ちつけた。
(力が欲しい。力が欲しい。力が欲しい。力が欲しい。力が欲しい。力がが欲しい。力が欲しい。力が欲しい。力が、力が!)
視界の端に何かが流れ落ちた。
荒れる息で額を押さえれば、バンダナに濡れた感触と、手の平に濡れた朱が見えた。
「……父さん、…母さん……!」
血に塗れた父母の姿を思い出し、崩れ落ちるように膝をついた。
零れ落ちる涙が手についた血と混じり、滲む。
あの日見た、雨の景色と重なる。
絶望感に苛まれ、それでも憎しみは消えないと、クレスは声を押し殺して泣いた。
「……私の、声が聞こえますか?」
かすかに聞こえた声に、顔を上げた。
辺りを見回しても、鉄格子がはまっている面を除けて、三面は石壁で閉ざされている。
涙を拭い、用心深く鉄格子に顔を押し付けて左右を見渡す。だが、散々クレスが確認したように、左右は細長い通路と壁しかない。
空耳だったのかと顔を戻したクレスの耳に、再び声が聞こえてきた。
「私の声が、聞こえますか?」
今度ははっきりと聞こえた。
クレスの背後の壁の奥から、女性の声が聞こえる。視線を奥の壁へと向け、注意深く観察すれば、石壁の下にネズミの穴ほどの小さな隙間が空いていることに気がついた。
「…だれ、ですか?」
ゆっくりと近づきながら、話しかける。だが、声の主はクレスの問いに答えることはなく、何度も同じ言葉を言い続ける。
「手をこちらへ……手をこちらへ差し伸べてください」
自分の手を見つめ、女性の声を聞く。
「お願いです。手を、こちらへ」
懇願するように語り掛けてくる女性が、不可解だった。
誰とも知れぬ者の言うことを鵜呑みにしないだけの、警戒心は持ち合わせていた。だが。
一度握りしめた手を開き、ゆっくりと穴へと差し入れる。
どのみち、牢に閉じ込められたクレスは、何もできはしない。
わずかなりとも変化が起きることを望んで、意を決して穴へと手を入れる。
さすがに利き手を任せることはできなかったが、開いた穴に手首まで入れたところで、手のひらに何かが落とされた。
「それを、…掲げてください」
声を聞きながら手を引き戻す。
開いた手のひらの中には、白いユニコーンの飾りがついたイヤリングがあった。
美しいものだった。一目見て高価なものだと分かるそれに戸惑うクレスへ、女性は繰り返す。
「…掲げて。…壁に、掲げて」
女性の必死の声に促され、イヤリングを壁に掲げる。
イヤリングは始め、小さく揺れているだけだった。
何も起こらない。いや、起こるわけがない。
諦めにも似た眼差しをイヤリングへ注いでいれば、クレスの耳に何かが擦れるような音が聞こえてきた。
それが、クレスが掲げるものだと思い立った時、イヤリングは硬質的な音を立てながら振動し始め、そこから光が生まれた。
「ッッ」
目を灼かんばかりの光に、とっさに右手で顔を覆う。それでも突き刺す光にたまらず目を閉じたと同時に、重い音が響き渡った。
自分の足を打つ細かな破片を感じつつ、徐々に弱まっていく光に、閉じていた目を開く。
「、これは…」
目の前の光景に息を飲んだ。
素手ではびくともしなかった分厚い壁が崩れ、穴が開いていた。
穴はクレスが屈めば通れるほどの大きさで、脱出するには十分だった。
信じられない思いでイヤリングを見つめた。
強烈な光はもはやなく、今では淡い光を灯し、徐々に消えていくそれに、言葉にならない感謝が浮かぶ。
希望の光が見えてきた。
「…お願いです。牢屋に捕らえられている女の子を助けて、あげて…。あなたなら、きっと館から逃げ出せます…」
女性の声に頷いた。
開いた穴に手をかけ、奥にいるだろう女性に向かって声を掛ける。
「勿論です。あなたも一緒にーー」
穴をのぞき込んで、言葉が途切れる。
クレスの視界の奥。
暗く陰る壁に、一人の女性が張り付けられていた。その胸に、剣を突き立てられてーー。
息を飲んだ。
頭を下げて、穴をくぐり、張り付けにされている女性の元へ歩み寄る。
両腕を水平に広げ、足を一つにまとめられ、壁についた拘束具に固定されている。長きに渡って拘束されたせいか、白を基調とした法衣は黒く汚れ、女性の体も信じられないほどに痩せていた。
「…そんな……」
呻くような声がこぼれ出る。
左手にあるイヤリングを握りしめた。
このイヤリングのユニコーンは、法術師の象徴として有名だ。そして、女性が着ているこの法衣は、その者が法術師であることを示している。
ならば、このイヤリングはこの女性の物である可能性が高い。
だが、壁に張り付けられた状態で、どうやってクレスにこの耳飾りを渡したのか。それ以前に、この女性は死して時間が経っていることは間違いなくーー。
石の床に、女性が流したであろう血が乾いている様を一瞥し、顔を覆って息を吐いた。
信じられないことばかりが起きる。けれど、たった一つ確かなことは……。
息を吸って、目を開ける。顔を覆っていた手を退け、女性を貫く剣を引き抜いた。
荒々しい使われ方をしていたせいで、刀身は傷だらけだが刃はまだ生きている。十分使える代物だ。
剣の状態を確認した後、女性の腕を拘束している器具の隙間に刃をねじ込み、てこの原理を使って器具の留め金を壊した。
幸い、老朽していたようで、苦もなく壊すことができた。
同じように反対の腕と、足を戒める器具も壊し、自由になった女性の体を床へと横たえた。生前は美しかっただろう長い金髪が床へと流れる。
想像していたより安らかな表情で目を閉じている女性に、少し安堵しながら、頭を垂れる。
「……ありがとうございました。どうか安らかに眠ってください。ーーこの剣、使わせていただきます」
説明はできないし、にわかには信じがたい。だが、クレスはこの女性が助けてくれたのだと思った。
女性の冥福を祈るように改めて一礼した後、鉄格子へ向かう。
クレスがいた牢と同じく、錠前で鍵がかけられていたが、こちらの錠前は古く歪んでいた。
幸運に導かれていることに感謝しつつ、剣で叩き壊す。
軋む音を立てて開く鉄格子を抜け、辺りを探りながら、慎重に歩を進めた。
クレスが出たところは、地下牢の最奥にあたる場所らしい。
壁に沿うように体をつけて、慎重に歩みを進める。T字の通路に行き当たり、体を屈めて油断なく周囲を観察した。
見回りをしている人影はなく、監視の目もない。それどころか、動いている人の気配すら感じなかった。
無人の気配に、クレスは唇を噛みしめる。
黒い鎧の男がいかにクレスへ注意を払っていないかが窺えた。ここで無駄な戦闘をせずにすむのは喜ばしいことだが、素直に喜べない自分がいる。
「……くそ」
小さく悪態をつき、立ち上がって通路を駆けた。今はここから無事に抜け出すことを第一に考えるべきだ。
駆けていれば、突き当たりの壁が見えた。そのとき。
「お母さん…」
声が聞こえた。
足を止めて、視線を飛ばす。
クレスを助けてくれた女性はこう言っていた。
『牢屋に捕らえられている女の子を助けて、あげて…』と。
その子だろうかと、視界に入った牢屋へと続く道に足を向ける。
「…お母さん」
近くなる声に早足で駆けつけ、鉄格子を覗き込む。
暗がりの中、壁際に逃げた姿を見つけ、安堵の息がこぼれ出る。
無事だ。生きている。
「恐がらないで。今、助けるから」
錠前を剣で叩き壊し、鉄格子を開く。開くと同時に身を屈めて踏み込めば、さきほどの女性のように、白い法衣を身につけた少女が怯えた顔でクレスを見上げてきた。
長い金髪と、どこかあの女性に似た面差しに、クレスは血縁者であることを知る。あの女性の娘なのだろうか。
「大丈夫? 怪我はない?」
微かに痛む胸を無視し、人好きのする笑みを浮かべて、クレスは尋ねる。
小さく震えながら、クレスが持つ抜き身の剣に視線を向けたことに気付き、剣を床へ置く。何もしないと少女の目の前で手のひらを見せれば、少女は詰めていた息をゆっくり吐き出した。
クレスの目を真っ直ぐ見つめてきた少女を認め、クレスは優しく語りかける。
「心配しなくていいよ。僕は君を助けにきたんだ。僕の名前はクレス。君の名前は?」
「…ミント。私はミント・アドネードです」
頷き、クレスは立ち上がって少女ーミントへ手を差し伸べる。
一瞬、ミントはためらう仕草をみせたものの、素直に手を乗せてきた。ミントの手を掴み、立たせる。
立った瞬間ふらついた体を支えれば、ミントはクレスの胸にすがりつくようにして顔を上げた。
「助けていただき、ありがとうございます。あの、私の母も…。私の母も助けていただけませんか? 向こうの牢に捕らえられているはずです。お願いです、お願いします!」
クレスの胸の前で握られた手は震えている。
自分が感じたことを正しく思いながら、クレスは小さく口元に笑みを浮かべた。
「あっちには誰もいなかったよ。…僕も捕まっていたから知ってるんだ。あっちには僕一人だけだった」
クレスの言葉に、ミントの目が見開く。
「でも、確かに聞こえてました! 私を励ます声が、何度も何度も、私を励ます母の声が…。確かに…」
瞳を潤ませるミントに、奥歯を噛みしめる。
この子は母の死を知らない。現実を、今、この子に見せるのはあまりに気の毒だ…。
小さく息を吸って、吐いた。
剣を拾い、ミントの手を握って、クレスは牢屋から出るために足を踏み出す。そのまま連れ去るように、来た道とは逆方向へ歩いた。
「クレスさん!」
後ろを気にしながら、ミントは声をあげる。その顔は見ずに、クレスは強引に歩を進ませる。
「時間がないんだ。今は見張りもいない。逃げるには絶好の機会だ。早くしないと見つかってしまうかもしれない」
まくし立てるように言えば、軽い抵抗を感じていた力が抜けた。
そのまま黙り込み、自分で歩き出したミントに、苦い思いが沸き起こる。
「……ごめん」
小さく呟いた。
それにミントは驚いたように声をあげる。
「そんな。クレスさんが謝ることは何もありません。私を助けてくださいましたし、感謝することはあっても、謝られることなんて……」
振り返れば、小さく笑みを浮かべるミントがいた。
「……ごめん」
気丈に振る舞うミントの姿に、言葉が突いて出る。ミントは苦笑しながら、クレスの手を優しく叩いた。
「一人で、歩けます。大丈夫です」
痛いほど強く握りしめている自分に気づき、弾かれるように手を離した。
「ご、ごめん。痛かったよね?」
女性に対する接し方ではなかったとあわてふためくクレスに、ミントは小さく頭を振る。
「……いいえ。ーー行きましょう、クレスさん。クレスさんが見ていないなら、母はきっと先に逃げているはずです。きっと…」
胸の前で握りしめられた手は震えている。
不安な心と戦っているだろうミントの心中を思い、クレスは一刻も早く脱出しようと決意する。
「……行こう、ミント」
「はい」
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…こうして改めて読むと、ファンタジアは最初、鬱描写ばっかりなんですね…。(T^T)